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暇つぶしではない暇の過ごし方

暇つぶしとは暇からの逃避でしょうか。 だとしたら暇と正しく向き合って暇を過ごすために、 暇つぶしではない暇の過ごし方とはどのようなものだと考えられますか。

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noname#135815
noname#135815
回答No.2

毎日自由に生活しています。散歩する以外は、テレビを見たり音楽を聴いたりパソコンをしたり、そのうち一日が終わります。あり余る時間に暇という感覚はありません。することがないという感覚もありません。敢えて言えばなにもすることがない時間を楽しんでいます。魚のいないプールに釣竿をたらしているようなものです。何もしない時間が後何年あるか楽しみです。 定年退職者より。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >魚のいないプールに釣竿をたらしているようなものです。 なるほど、これはなかなか難しそうです。

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その他の回答 (16)

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.7

>暇と正しく向き合って暇を過ごすために、 >暇つぶしではない暇の過ごし方とはどのようなものだと考えられますか。 経験ないけど、禁固刑とか? わかんないや。あは。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今見ているテレビを消してみてください。 すぐに何か別のことをしたくなるでしょう。 暇つぶしが現実逃避であることがよくわかると思います。 なので現実逃避ではない暇の生き方はどんなだろうと思うのです。

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noname#194996
noname#194996
回答No.6

暇ということを意識したことのない人間です。 いつも焦り続けて、それでいて何の成果もない毎日ですが、 ここでこうして時間を使っているのにも何らかの罪悪的プレシャーがあって、 こんなことは本来してはいられないのだが、体がやめられねえ、という生理的薬物嗜好的な事情があるので(笑)。 全体としてある意味、これも貧乏症の一種だろうと思っています。さて、 「暇つぶし」ですね。 つまり、幸運にも暇を獲得した人間が、不幸にも暇を苦痛に感じて、暇を暇と感じさせないような意味のない(と自分で意識している)行動を取って時間を浪費するということでしょう。 今風に言えば「あー、もったいない!」ということでしょうか。 それでその種のひとたちのために >暇と正しく向き合って暇を過ごすために、暇つぶしではない暇の過ごし方 を考えるのは、私も意味のあることだと思います。 多くの知人たちは賃働きを無理にすることでその解消をはかっています。でもいずれ 彼らに暇な時間ができるのをコントロールはできないと思いますし、 意識するなといっても、これは無理でしょう。 やはり性急に暇を取り潰すのではなく、ある程度知恵を働かせて、意味のある時間の過ごし方をするということだと思います。 一概に『意味のあること」といっても漠然としていますが、ここは楽に考えて、自分のためになること、または多少なり社会的にためになることを心がけるということでいいのではないでしょうか。 ボランテア、たとえばフクシマ原発へ行くという手もあるでしょう。 只で働いてあげれば、時のヒーローになるかもしれませんね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私たちは暇ではないと言いながらも、今の自分の行動、行為にどんな意味があるのかと問われれば答えに困ることでしょう。 なぜ働くのかといわれれば生活のためと答えますが、ならばその生活にどんな意味があるのかを答えることができる人は少ないでしょう。 何もしないという選択肢が私たちには無いのです。 私たちは常に頭を何かでいっぱいにしています。 仕事、ボランティア、暇つぶし、趣味、政治活動・・・ この呪縛から解放される方法はないでしょうか。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.5

「暇つぶし」というのは、時間を毒にも薬にもならない行為によって消費することを指すと思います。 「暇」とは辞書によると「用事のない時間」となっていますが、厳密には「用事が無いつもりの時間」ということでしょう。 元々用事が無いつもりなので、そこで使う時間は所詮つぶす程度のことしかできないはずだ、という先入観が当然伴ないます。 本来用事がないはずの時間を、「〇〇の用事のために使おう!」と激しく意志した段階で、それは「暇」という概念から外れることになり、結果として「暇つぶし」ではなくなる、ということになると思います。 もっとも、やってみた後で、あ、案外暇つぶしというわけでもなかったな・・・などという感慨が訪れる場合もあるのでしょう。 ここで見られる数々の質疑応答も所詮暇つぶしにすぎんのに、それにしてはずいぶんと泥沼化しておる場合のあるようですな・・・。 などというメッセージと解釈いたしました。 ピュアな視点は健在のご様子でご同慶の至りです。 考えすぎである? わかりました。 え? ところでお前の今回の回答は一体、暇つぶしなのか、そうではないのか?とおっしゃいますか? それは、ほれ、言わぬが花、というやつでございます。       

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私はもしかすると幸せになることを拒絶しているのではないか。 という思いが時より脳裏をかすめるのです。 今回の震災でそれが顕著に表れていて、春の風や鳥の鳴き声に身をゆだねようとすると、 すぐに被災地のことや、原子力発電所のことなどがそれを否定するのです。 多くの人が犠牲になったのに自分はこんなに平和な気持ちになっていいのだろうかと。 被災地でも春は来ており、その美は人の混乱とは無関係なのでしょう。 ある意味、美とは残酷なものだとも思ったりします。 私たちは常に頭の中を何かでいっぱいにしていないと落ち着かないようです。 思い出、夢、希望、明日、進化、進歩・・・ そういったプラス思考さえも何か現実逃避(今を見ようとしない)の手段として使われているような気がします。 ですから暇つぶしもまた、現実逃避の一つだろうと思うのです。 いま目の前にある世界(観念ではなく眼に映るただそれだけのもの)を見ることができない のはなぜだろうと思うし、観念というフィルターを通さずに世界を見ることができれば この世界は違って見えるだろうと思うわけです。 ピュアでしょう?

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noname#144995
noname#144995
回答No.4

時間に猶予のあったギリシャ市民の暇は、スコレーと呼ばれていたそうです。それは、諸々の考え方、学問を生み出した時間であり、前向きに捉えれる暇であると思います。ありきたりな回答ですが。 余裕があるので善や道徳、真理とか言うものに関心を寄せられるのであって、、、と言うと、じゃあ余裕の無い貧乏人はそういった事柄を探求できないのか、と言うことになってしまうので、ここでは、暇と言うのは、心に生み出す余裕のようなものであると言い直したいと思います。働きながらでも、心のどこかに余裕を持っている、時間をもてあましているときでも、心のどこかに余裕を持っている、その余裕で以って、本当に納得のいく人生を探したり、自分の希望するものを求めたりすると。少しスコレーに比べれば消極的でしょうが、私としてはこのように考えました。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人にとって何もやることがないなら何もしない、という選択がいかに難しいかと思います。 常に何かやるべきことを見つけてしまうのが人の性なのでしょう。 暇とは何かということも考察してみる必要があるのかもしれません。

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noname#140921
noname#140921
回答No.3

暇ができたらやろう…としてたことをやること…かな。 普段やらない場所の掃除とか… アルバムの整理とか… 後回しにしていることを 暇な時間ができた時にやれば暇ではなくなりますよね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに普段出来ないことをやるというのはよくわかります。 ただ、行動しないという選択とはどういうものだろうと思って質問してみました。

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  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22063)
回答No.1

人のためになる事をすることでしょうか。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結局何かすることを見つけてしまうのですね。

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