KONIMIXです。
少し時間が出来ましたので、再再度回答をさせて頂きます。
Apostleさんのお礼を拝見して思った事は、「何時まで経っても、私とApostleさんは平行線だろうな」と思いました。
それはクリスチャンであるか否か、宗教を信仰しているかどうかの問題では無く、人としての考え方が違うと思うからです。
>宗教者でない人からだからこそ学べる点も多々ありますが、正直に申し上げると、信仰に至っていない判断力で世の中を見れている気になるのは私から見ればまだ知るべき事を知らない状態です。
こういう視点が「独善的」だとか「上から目線」だとかいわれる所以でしょうが、でも非常に恐縮ながら事実なのです。<
宗教者でない人から学べる事もあると言いながら、その根底には、「自分の信仰が事実であり、信仰していないひとの考えは事実でない」と否定があると思えるからです。
つまり、「自分の考え方だけが事実であり、自分と違う考え方は間違っている」と言う思いをお持ちなのでしょう。
しかし他者との摩擦を避けたい為に、自分の本当の心を見ないようにされているように感じます。
ご自分では、柔軟な考え方をされているとお思いのようですが、あくまでも、「自分の信仰」の範囲内での柔軟さであり、全てを包み込む柔軟さでは無いとおもいます。
宗教に対しての「恐怖」を書かれていますが、私から見ると、「他者(自分と違う考えを持つ人)の事を怖がっているのは、Apostleさん自身ではないか」と思えます。
なぜなら私がお会いした、牧師先生や長老さん達は、「他者の宗教に対する認識」なんて気にしていないように感じたからです。
私はApostle さんの信仰の仕方を否定しているのではありませんし、「独善的」とも「上から目線」とも感じません。
Apostle さんの信仰も事実であろうし、私の考えも事実だと思いますから。
多分私の回答を読まれて、気分を害されることと思います。
しかしオープンな場所で質問されると言う事は、私のようにApostle さんにとって嫌な事も回答される場所と言う事で、ご容赦ください。
最後に私の宗教に対する考え方を書かせて頂いて、終わりにしたいと思います。
(カルトや偏狂的な宗教は除いた回答である事をご了承ください。)
私はどの宗教でも根底に流れる物は同じだと思っています。
人が集団で生活するために必要なモラルや、他者への愛情など、「人が幸せになる為」と言う思いが込められていると思います。
ですから、信仰している宗教で人を判断したくありません。
良く「新興宗教」と言う言葉で差別されていると思いますが、「新興宗教」が問題なのでは無く、その教えの内容が問題なのだと思っています。
だってねキリスト教も仏教なども設立当時は、「新興宗教」であったわけですから。
キリスト教の聖書、仏教の経典などについては、「参考資料」だと思っています。
最初に書かれたものから、どれだけ変わったか解らないからです。
年月を経るうちに人の思惑などで書き加えられたり、書き換えられた部分、又解釈が合っているのか間違っているのかが、今となっては不明ですから。
間違った所もあれば、真実を言っている所もあると思っています。
今結婚時、家内から貰った聖書を読んでいます。(やっと4分の1です)
全て読むには、まだまだ時間がかかると思いますが、最後まで読みたいと思います。
参考URLとして、「聖書の間違い」と言うHPをご紹介します。
ご存じでしたら申し訳ありません。
「聖書の間違い」の指摘に対して、神父様も書き込みされていますので、参考になるかと思います。
先にも書きましたが、私自身は聖書を肯定も否定もしていません。
それでは失礼いたします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >宗教者でない人から学べる事もあると言いながら、その根底には、「自分の信仰が事実であり、信仰していないひとの考えは事実でない」と否定があると思えるからです。 これは宗教とは無関係のコミュニケーションのレベルなのですが、例えば物理学の教授が居て、彼は物理学に関して素人の発想から物理学に関する多くを学び取りますし、物理学に関係ない事柄に於いても多くの物理学の素人から学び取ります。 しかし、では素人は教授と同じだけの物理学の知識を持っているでしょうか? 決してそうではありません。 「学び取れる」という事と「鵜呑みにする」という事は違いますよね。 なぜなら、素人の発想は参考になったりヒントになったり、時として大きな導きになりますが、それは素人がそう意図してなった訳ではありませんし、素人が物理学上の大問題をちゃんと思考している訳でもありません。 この場合、「学べる」という事と「相手が何も知らない状態である」と判断する事のどこに矛盾があるでしょう? また、物理学の教授は何年も勉強してきから素人よりも物理学に於いてある程度優れていると言えるのは高慢でも思い込みでもなんでもありません。 もちろん、料理に関しては赤ちゃんレベルであれば、そこらへんのおばちゃんに土下座して教えてもらわなければならないでしょう。しかし、その時に於いても物理学に於いては教授なのです。 解りますね? ステレオタイプというのは反射神経的言動だけをさすのではありません。 物事の受け捉え方にも言える事です。 宗教というのは、人の思考言動の癖とか傾向などを目の当たりにするものです。 なぜなら、すべての宗教はある種の改善をもたらすもので、その対象は人の思考が主なものとなるからです。 一般的な日本人がどの様に物事を受け捕らえ、それにどう反応するか、そのパターンの定番中の定番位は既に押さえています。 そして、その傾向からその人の思考が普段どのようなものに重きを置き、どのような水準で生活をしているのかが伺い知れます。 おそらくKONIMIXさんはこういう事についてあまり考えた事が無いのではないでしょうか。 だから頻出するステレオタイプ型の受け捉え方が今回の書き込みの多所に見られるのではと推測しています。 さて、平行線とはKONIMIXさんとこうしてお話する前から解っている事ですし、そもそもこの質問はこうした話し合いをする為に立てたものではありません。 また、他者との摩擦をさける為に自分の心を見ていないのはわたしの相手である場合がわたしの記憶上では全てです。 わたしの話方はどこまでも突き詰めていきますし、それが自分の心が対象でも相手が危険な相手でなければ包み隠さず全てさらけ出しますから。 「自分の範囲内での柔軟」については、万人がそうなのですが。また、「全てを包み込む柔軟」とは具体的にどういうものでしょうか。 よく都合のいい妄想の世界に浸りきっている人を見かけますが、KONIMIXさんはそうでは無い事を願います。 「宗教に対する恐怖」とはわたしはどこでそういう発言をしましたでしょうか。テキトーな信仰は嫌ですし、欺瞞に満ちた信仰も好みません。 また、「自分と違う考え方を持つ人を恐れる」気持ちは正直あります。なぜかと言えば、自分の心を顧みない人は自分の手で目の前に居る人を殺してもそれは自分が殺したのではなく相手が勝手に死んだのだと考え、そのくせ自分がほんのちょっとしたかすり傷を負うとたとえそれが自分の蒔いた種の結果であろうが100%相手が悪いと考え(ているのとかわらない状態で)て襲いかかる。 こういう程度の低い連中が存在するのはKONIMIXさんもご存知だと思いますが、「心」をテーマにして突き詰めると割と多くの人がこれに似た状態になりやすいです。 ですから、大抵の場合この類の話題には触れない様、空気で読まれるだけでも面倒な事になりかねないので人前では考えない様にしていますが、これは問題でしょうか。 また、わたしは真剣な考え事もよくしますが、フッと頭に思い浮かんだ事を気軽に好奇心で聞いたりする事もあります。これは「気にしている」のでしょうか。 「すべての宗教はモラルや他者への愛情を解いている」とおっしゃいますが、わたしはこれについても「愛情とは他人の間違いを指摘せず、責任を負わせず、怒らず、etcなどと”とても狭量な愛の形”を定義し、その枠を決して譲らず、それに当てはまらない=愛情ではないと判断し、多くの発展途上の愛情を潰して憚らないスーパーがつく臆病な輩も腐る程目にしますが、KONIMIXさんはそうでは無い事を願います。 人と人との間で巧くやれる事が賢い事ではなく、悟りではなく、それはただの処世術です。 処世術は人が生きていく為の道具です。道具の為に自分の命を失う程お馬鹿な事はありません。 宗教を始めたとたん生きるのが大変になる面もあります。特にキリスト教は日本ではかなりの工夫を強いられます。 それがどの程度のものなのかをどの様に理解しているか、同じテーマに苦しみ悩む隣人をどう見ているかなども、テキトーな信仰なのか真剣な信仰なのかを伺い知る一つの要素になります。 KONIMIXさんは無宗教だからここについてはあまり/何も知りませんね。 また、聖書は霊感によって導かれなければ本当に理解する事はできないと思いますよ。 わたしの持論になってしまいますが、聖書には本当に大切な事は書かれていません。なぜならそれは文字にできないからです。その行間を読むというか、何を言わんとしているのかを霊感によって理解を与えられるというか、そういう過程によって聖書が真理の書であると理解できるのです。 その際に、どれだけ編纂されているか解らないとか、そういう事はあまり関係無い様に思います。 わたしは、聖書が事実の書なのかどうかは知りません。しかし、真理の書である事は知っています。まぁ、これを言ってしまうとこの世に聖書でないものなど何も無い事になってしまいそうですが。。。 とにかく、聖書に書かれた真理を熱望せずにただ読んでいるだけで理解できるとは限りませんから、その点は頭に置いておかれた方が良いと思います。 最後に、「聖書の間違い」は知っていました。 風邪をひいています。乱文大変失礼致しました。 明日も早いので見直しなどゆっくりできません。重ねて申し訳ありません。 では。