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宗教に対する平均的日本人の認識
こんにちは。 クリスチャンになって早10年。 既に私がクリスチャンである事は周知の事実。 そんな状態で、私の周囲には宗教を軽んじている人は居るものの面と向かってバカにする人が居ません。 しかし、いまだ宗教アレルギーかなと思う様な発言を読んだり聞いたりします。 そこで、日本人の平均的な宗教に対する認識は現在どのようなものなのか知りたくなりました。 ご自身の宗教に対する認識と、その理由などをお書きいただけると幸いです。 よろしくお願い致します。
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- KONIMIX
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KONIMIXです。 少し時間が出来ましたので、再再度回答をさせて頂きます。 Apostleさんのお礼を拝見して思った事は、「何時まで経っても、私とApostleさんは平行線だろうな」と思いました。 それはクリスチャンであるか否か、宗教を信仰しているかどうかの問題では無く、人としての考え方が違うと思うからです。 >宗教者でない人からだからこそ学べる点も多々ありますが、正直に申し上げると、信仰に至っていない判断力で世の中を見れている気になるのは私から見ればまだ知るべき事を知らない状態です。 こういう視点が「独善的」だとか「上から目線」だとかいわれる所以でしょうが、でも非常に恐縮ながら事実なのです。< 宗教者でない人から学べる事もあると言いながら、その根底には、「自分の信仰が事実であり、信仰していないひとの考えは事実でない」と否定があると思えるからです。 つまり、「自分の考え方だけが事実であり、自分と違う考え方は間違っている」と言う思いをお持ちなのでしょう。 しかし他者との摩擦を避けたい為に、自分の本当の心を見ないようにされているように感じます。 ご自分では、柔軟な考え方をされているとお思いのようですが、あくまでも、「自分の信仰」の範囲内での柔軟さであり、全てを包み込む柔軟さでは無いとおもいます。 宗教に対しての「恐怖」を書かれていますが、私から見ると、「他者(自分と違う考えを持つ人)の事を怖がっているのは、Apostleさん自身ではないか」と思えます。 なぜなら私がお会いした、牧師先生や長老さん達は、「他者の宗教に対する認識」なんて気にしていないように感じたからです。 私はApostle さんの信仰の仕方を否定しているのではありませんし、「独善的」とも「上から目線」とも感じません。 Apostle さんの信仰も事実であろうし、私の考えも事実だと思いますから。 多分私の回答を読まれて、気分を害されることと思います。 しかしオープンな場所で質問されると言う事は、私のようにApostle さんにとって嫌な事も回答される場所と言う事で、ご容赦ください。 最後に私の宗教に対する考え方を書かせて頂いて、終わりにしたいと思います。 (カルトや偏狂的な宗教は除いた回答である事をご了承ください。) 私はどの宗教でも根底に流れる物は同じだと思っています。 人が集団で生活するために必要なモラルや、他者への愛情など、「人が幸せになる為」と言う思いが込められていると思います。 ですから、信仰している宗教で人を判断したくありません。 良く「新興宗教」と言う言葉で差別されていると思いますが、「新興宗教」が問題なのでは無く、その教えの内容が問題なのだと思っています。 だってねキリスト教も仏教なども設立当時は、「新興宗教」であったわけですから。 キリスト教の聖書、仏教の経典などについては、「参考資料」だと思っています。 最初に書かれたものから、どれだけ変わったか解らないからです。 年月を経るうちに人の思惑などで書き加えられたり、書き換えられた部分、又解釈が合っているのか間違っているのかが、今となっては不明ですから。 間違った所もあれば、真実を言っている所もあると思っています。 今結婚時、家内から貰った聖書を読んでいます。(やっと4分の1です) 全て読むには、まだまだ時間がかかると思いますが、最後まで読みたいと思います。 参考URLとして、「聖書の間違い」と言うHPをご紹介します。 ご存じでしたら申し訳ありません。 「聖書の間違い」の指摘に対して、神父様も書き込みされていますので、参考になるかと思います。 先にも書きましたが、私自身は聖書を肯定も否定もしていません。 それでは失礼いたします。
- KONIMIX
- ベストアンサー率28% (136/476)
たびたびのお礼ありがとうございます。 KONIMIXです。 Apostleさんのお礼を拝見して、気になった事を書かせて頂きます。 もしかしたら気を悪くされるかも知れませんが、ご容赦下さい。 Apostleさんは、なぜ結婚生活や信仰に順位をつけられるのでしょうか? 私や家内にとっては、順位をつけられるものではありません。 「どちらも大事」なのです。 順位をつける事は、「上位を優先させて、下位を後回しにする」事になりませんか? 例えば、「神様との対話を優先させて、子供を病院に連れて行くのが後になる」と言う事です。 多分Apostleさんは、そういう意味で書かれたのではないと思いますが、順位をつけると言う事は、「どちらを優先するか」につながるのではないでしょうか。 家族を優先させても、自分の中にしっかりとした、「信仰」を持っていれば、「適当な信仰」にはならないと思います。 宗教者で無い私が言っても説得力無いですよね。 >この道で発展していきたいのであれば同じ宗教を信じる相手の方が良いと思っています。< Apostleさんのお礼を拝見していて思ったのですが、Apostleさんが求めているのは、「同じ宗教を信じる相手」では無く、「同じ考えを持つ人」なのではないでしょうか。 私には、「同じ宗教を信じる」=「Apostleさんと同じ考え」であるように思えます。 >でも、聞く側がその言語を理解できなければパリの町中で落語をしている様なものです。 空しい事この上ありません^^< これはApostleさんにも言えることだと思います。 >信仰を真剣にし、それでいて他宗教同士幸せな結婚を送っているのであればそれはとてもすばらしい事です。< そうなる為には、お互いの理解と信頼が必要なのであって、一方的に求めるだけでは前に進めません。 他宗教を理解する努力がお互いに必要なのではないでしょうか。 もしApostleさんが、他宗教の方と結婚を考えられた時は、私の回答を思いだして下さい。 ご質問の内容からは、かなり外れてしまいましたね。 申し訳ありませんでした。 Apostleさんが同じ宗教で、同じ考えを持った方と出会える事をお祈りしています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 結婚相手だけでなく、社会で生活するのに接している人たちとの間でも「ほんのわずかな隙間」を作らないために信仰を後回しにする事がしばしばあります。 しかし、これは実は後回しにしているのではなく、それこそが信仰を実践していると言える側面を持っています。 ですから、KONIMIXさんが仰る様な意味で順位をつけている訳ではありません。 でも、きれいにしているつもりの車でも、よく見たらここが汚かったなんて事はある様に、KONIMIXさんの文を読んでいて自分に心当たりが無い訳では無い事に気づきました。この点に関しましては感謝します。ありがとうございます。ぜひ気をつけたいと思います。 >宗教者でない私が言っても説得力がない。 失礼ながらこれは本当にその通りです。 宗教者でない人からだからこそ学べる点も多々ありますが、正直に申し上げると、信仰に至っていない判断力で世の中を見れている気になるのは私から見ればまだ知るべき事を知らない状態です。 こういう視点が「独善的」だとか「上から目線」だとかいわれる所以でしょうが、でも非常に恐縮ながら事実なのです。 そもそも、相手が「上から目線」である事に違和感を覚えるのは相手の人格的欠陥よりも、「上から目線とやら」をされる側が持つべき姿勢の強さの欠如からくる恐怖心のようなもので嫌がっているように見えることしばしばです。 自分がしっかりしていて、その上で相手が上から目線で、その相手を嫌っている人はあまり見かけません。 単なる反射神経的反応(ステレオタイプ)がほとんど、それ以外の多くも恐怖心、ちゃんと考えて物事を受け止め、恐怖心の無い人が相手の「上から目線とやら」に嫌悪感を抱いているのを私は見た事がありません。 例えば浮気に気づかない内は相手となんのギクシャクもなく楽しく過ごせますが、気づき始めたとたんにギクシャクし始める。 気づいていない人が普通に滑らかに生活できる事はいたって当たり前と評価されますが、気づいている人が普通に滑らかに生活すればそれは素晴らしい事だと評価されます。 同じ事をするのでも、意識が違えば全く異なるものだという事ですよね。そこにその人が見えるからです。 無宗教はこの「無意識状態」に似ています。信仰者だってやる事はあまり違わないのです。 でも、意識が違うのです。 すみません。 時間が無い(今晩も遅いので書けないからとりあえずのお返事失礼)のでこの辺りで失礼致します。
- KONIMIX
- ベストアンサー率28% (136/476)
お礼ありがとうございます。 No.3のKONIMIXです。 人の考えは色々ですので、「これが正解だ」と言う答は無いですよね。 宗教が違っても幸せな夫婦もあれば、同じ宗教でも別れる夫婦もいますから。 家内が所属する教会で、同じキリスト教の宗派のご夫婦でも離婚された方がいます。 >違う宗教だと言葉も違えば観念も結構異なる場合があり< 確率は高いですよね。 私達夫婦は宗教が異なっていながら、宗教に対する考え方が同じと言う、少数派だと思います。 実際、最初は家内と結婚することを、教会関係者の方に反対されていましたから。 でも、私が教会の礼拝に参加し、お話させて頂く事で、反対されなくなりました。 どの宗教を信仰しているかより、私自身を評価してくれたんだと思っています。 結婚に反対された方も今は、「結婚出来て良かったね」と言ってくれているようです。 >この道で発展していきたいのであれば同じ宗教を信じる相手の方が良いと思っています。< 確かにその方が良いと思いますが、Apostle さん自身「結婚したい」と思われる方が、同じ宗教で無い場合もありますので、その時どうするかですよね。 座禅もされると言う事ですので、「何が大事か」をチャンと判断されるとは思いますが。 理想は理想として、柔軟に考えて下さいね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 KONIMIXさんのお答えを読んでいると、お幸せな結婚生活を送っていらっしゃるのであろう事が伝わってきます。 良かったですね。私からも祝福させて頂きます。 ただ私として一つだけ避けたい事は、「適当な信仰」です。 結婚生活を第一にし、信仰を第二にすれば宗教が違う者同士が幸せに共に暮らす事はそんなに難しい事ではないと思います。 まるで学生のサークルの様な、神様との対話ではなく教会行事が好きで集まっている信仰などまるで見えない人たちも教会には多いのです。 見えないのであって無いと言っているのではありません。ただ、それは私とは違うノリです。 信仰を真剣にし、それでいて他宗教同士幸せな結婚を送っているのであればそれはとてもすばらしい事です。 しかし、単に信仰が二の次になっているだけであれば、その結婚が果たして自分に益かどうかは疑問です。 私は宗教が違えば共には暮らせないと言っている訳ではありません。 宗教が違うどころか、無宗教すら問題なく過ごせなければ日本では日常生活に問題が絶えないでしょう。 ただ、宗教は母国語の様なもので、やはり母国語が一番話しやすく理解しやすいし、一番表現力に富んでいる。 でも、聞く側がその言語を理解できなければパリの町中で落語をしている様なものです。 空しい事この上ありません^^ ただそれだけです。
- terepoisi
- ベストアンサー率44% (4090/9254)
>ご自身の宗教に対する認識と、その理由などをお書きいただけると幸いです。 自分が信仰している宗教に対する認識なら アニミズムが一番近いかな、と思います。 自分が持っている宗教というものへの認識なら それぞれの通る道は違っても目指す高みは同じところにあると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 キリスト教ではあまり意識はしませんが、私も個人的にアニミズム的観念を持っています。それらを信仰はしませんが、それらの存在を信じるという意味ですが。 私も以前は目指すところは同じだと考えていましたし、今でもある意味そうです。 でも、キリスト信仰が自分に与えられてからは少し考え方が変わりました。 人は到達しなければならない高みに自力では行けない。という事です。 まるで蟻が月を目指す様なものです。一度高みを見せてもらって心底そう感じました。人は神にすくわれなければ到達しなければならない場所には行けないと。 でも、それを自覚して助けてもらう人も、自覚なしで自分の努力で到達したと考えていても実は神様が救った人も到達する場所はやはり同じだと思うのです^^
- kansya-arigatou
- ベストアンサー率22% (2/9)
宗教アレルギーは、無知と思い込みからきてると思います。 私も、家はある宗教の教会です。 生まれつき教会の子なので、そうでない人の気持ちをわかりきることはできません。 ただ、自分の「知らない宗教」の勧誘を受けたとき、無宗教の人の気持ちが「ほぼわかる」 と思ってます。 と言いますのも、「執拗な勧誘を受ける危険性」を肌で感じるのです。 覚えてはいませんが、そんな情報が肌にしみついているのだと思います。 宗教なのに宗教に恐れを感じるのです。そういえばうちも宗教だった!って感覚。笑 宗教に偏見をもってほしくはないけど、気持ちもわかる。 複雑な心境です。。 私は宗教は、大学のサークルのようなものだと考えています。 同じ価値観を持った人と同じ時間を共に過ごすのは楽しいものです。 中でも、宗教は特に、深い価値観、人生観と繋がっていると思います。 よって他者との共感によって得られる幸福感は絶大だと思うのです。 その幸福感を感じれること、「宗教の価値」に気づいたため、 私は今では教会の家に生まれたことを本当に幸せに感じています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 実は私は日常を生活していて、かなり前から「怖い」という言葉に違和感を感じています。 恐怖を克服する努力ゼロでよく怖いなどと言えるな。しかも自分の妄想と誤解と無知とで作り出す恐怖によって生じる自分の心の尖った矛先を実際は怖くも何ともない相手に向ける。それでいて「怖い」という感情を持った方なので責めを負う事は無い。 実に良いご身分だと思う事しばしばです。 私もしつこい宗教勧誘くらい受ける事はあります。 でもいたずらに怖がる事はしませんし、事実全く怖くありません。 kansha-arigatouさんの事を言っているのではなく、世間一般の方の話です。
- mimazoku_2
- ベストアンサー率20% (1905/9108)
私は、基本的な姿勢として「我、関せず」です。 こういった方が、結構いらっしゃると思います。 私の中では、宗教は、どれもが「善」であり、「悪」である。 ただ、「神教」については、やや疑問を持っています。 あれだけ信仰深い人達の中から、なぜ、マフィアが誕生するのか? 「聖戦」と言えば、殺人が合法化される不思議。 日本にもヤクザや極道ってありますが、基本的は「カタギへの手を出す行為を良しとしない」風潮があります。 そう言う意味では、「仏教」の方が、「理解度が深いのか?」と考えます。 >宗教アレルギー 確かにそういったような発言は、見受けられますね。 でも、それはそれで、その人の「生き方であり、信条」なのでしょうから、いたしかたない事でしょう。 言い換えれば、「受け入れなくてはならない部分」という事でしょうね。 かく言う私も、とある宗教団体の一員ですしね。 でも、悪くはないですよ。 知り合いも増えるし、話しも出来るし、私にとってはありがたい事です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 神教というのはキリスト教の様な「神を信じる宗教」という意味でしょうか? 私も真実がどうかは別にして、聖戦や他宗教否定はノリが違います。 私にとっては神と自分との関係の体験が宗教です。 そしてそれには教えや他人との関わり方などすべてが絡んでいます。
- KONIMIX
- ベストアンサー率28% (136/476)
40代既婚男性です。 宗教に関する考え方は人によって千差万別だと思いますので、「日本人の平均的な宗教に対する認識」なんて、無いと思いますよ。 私自身は、仏壇と神棚のある家の後継ぎです。 宗教は、「人の救済」と言う点において、違いは無いと思っています。 特定の方は、「私の信じる神様(仏様)が絶対で、他の神(仏)はニセモノだ」と言われる方がおられますが、「はいはい、そうですか」と思うだけで、「どうぞご自由に」です。 宗教って押し付けられるものではないですよね。 キリスト教から仏教に改宗される方、仏教からキリスト教に改宗する人、色々ですよね。 要は自分が、「救われた」と思えるかどうかではないでしょうか。 家内はクリスチャン(結婚前から)ですが、お寺にも神社にも行ってくれて、行事にも参加してくれます。 私も家内や子供と一緒に教会に行きます。 家内は、「信じる神様は違うけれど、貴方と結婚出来て幸せだわ」と言ってくれますし、私もそう思っています。 宗教は人を幸せにするためにあると思います。 よく、「信じる神様が違うから結婚できない」と言う話を聞きますが、宗教の為に幸せになれないなら、何のための宗教なんでしょうね。 上記内容は、一部カルトを除いての事です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 千差万別なので平均は無いのは承知しておりますが、日本人は世論というか他人の言葉にというか、簡単になびく傾向のある民族だと思っています。 この際、一人一人がなんと思っていようがあまり関係ありません。 ですから、この場合の「平均」とは世間がどう認識し、反応しているのかを知るためのものです。 私も座禅に通ったりなど全く問題視していません。 でも、違う宗教だと言葉も違えば観念も結構異なる場合があり、この道で発展していきたいのであれば同じ宗教を信じる相手の方が良いと思っています。
- TAKOYAKIoiyan
- ベストアンサー率16% (36/216)
宗教アレルギーとかってあるのかな?この国ってかなり宗教に対して寛容な国だと思うよ。 アレルギーがあるとするとオウム真理教のあのおぞましい出来事があって宗教団体=カルトみたいな捉え方をされているかも知れない。それに世界基督教会の霊感商法や集団結婚式なんかも違和感を感じている位ではないのかな。 要は宗教アレルギーと言うより、宗教団体アレルギーの方があるのではないのかなと思うのですが、私も宗教団体というのは好きではありません。信仰は個人の問題であって徒党を組んでする物ではないと思っていますから。価値観の共有はあってもそのものに対する考え方は個々それぞれ違うのではないかと思うので。宗教団体=価値観の押しつけに見えてしまうからです。 そうは言っても、私自身は信仰の自由はあると思うので、誰が何を信じようがその人の勝手なことだと思う。けれどそれがすべてで他の宗教や信条に対して批判するような輩は大嫌いですね。 そもそも宗教や神なんて人間が作り出した物に過ぎないと思っていますから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 信仰を持っていないが故に無宗教寄りではありますが、比較的冷静な判断だと思います。 同じ信仰を持つ人の集いは良いものです。。。の筈です。 私はあまりその恩恵に与っておらず、どちらかというと個人で信仰している感が強いですが、本来であれば同じ信仰を持つ人の集いは良いものである筈です^^ あと、無宗教の人たちは多勢に無勢で問答無用に無宗教を信仰者に押し付けているんですよ。そして信仰の自由と言論の自由を認めるなら、宗教勧誘も認める事になります。それはそれを押しつけと受け取らないという事ではないでしょうか。 因に信仰者としては恥ずかしながら私は勧誘のたぐいはいっさい行っておりません^^
- afromaniakud
- ベストアンサー率50% (178/355)
私は無宗教です。もともとの家系は浄土真宗なのでお葬式などにはその作法に従うくらいです。 日本は世界的に見てめずらしいぐらい無宗教な国です。そして世界の宗教に関する知識もとても少ないです。一番大事なことは、日本が無宗教であることがすでに文化であるということです。なので、日本人からみたら宗教を重んじている人の行動は理解できないと思うのが普通でると考えた方がいいと思います。 そんな中で、ある特定の新興宗教が変なことをするから、アレルギーをもってる人が多いんだと思いますよ。 信仰は自由なので他の人のことをあまり気にしないことだと思いますし、昔から政治と宗教の話はするなと言われていますがこれが今の日本をよくあらわしている言葉だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問の意図としては、あくまでも平均値みたいなものを得るためなので、ご意見第一号としてありがたく頂戴させて頂きます。 >日本では無宗教が既に文化になっているから 文化とは何でしょうね。 マイケルサンデルの講義で彼は「哲学を学ぶリスクの一つとして、今までの当たり前を全く未知のものにしてしまう」という様な事を言っていました。 我々が普段知っているつもりになっているもの、解っているつもりで行っている事柄を全くの未知のものにしてしまうと。 それだけ「良くわかっていないが皆がしているからしている事、皆がそう考えているから自分もそう考えている事」などにいったいどれほどの真価値があるのかは定かではありません。 人は人の間で生き、造っていく存在ですから、繋がりは大切にするべきですが、繋がりのために真理をないがしろにするのは愚かと言うべきです。 では、真理とはなんでしょう。 こうした相手に対する理解し合おうとする誠も無い人たちがどれだけアレルギーを持っても、反対意見を持っても、「ろくに知らない事に対して知恵を伴わない発言、誠を伴わない姿勢で対応」されても、相手の横暴を阻止するのに忙しくて自分の非を見つめる余裕も無い場合も珍しくないかもしれません^^ 愚かな争いに巻き込まれたがる趣味はないので仰る通り「政治と宗教の話をする時はその知恵と誠を備えた人に」でないとしませんが。。。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >宗教者でない人から学べる事もあると言いながら、その根底には、「自分の信仰が事実であり、信仰していないひとの考えは事実でない」と否定があると思えるからです。 これは宗教とは無関係のコミュニケーションのレベルなのですが、例えば物理学の教授が居て、彼は物理学に関して素人の発想から物理学に関する多くを学び取りますし、物理学に関係ない事柄に於いても多くの物理学の素人から学び取ります。 しかし、では素人は教授と同じだけの物理学の知識を持っているでしょうか? 決してそうではありません。 「学び取れる」という事と「鵜呑みにする」という事は違いますよね。 なぜなら、素人の発想は参考になったりヒントになったり、時として大きな導きになりますが、それは素人がそう意図してなった訳ではありませんし、素人が物理学上の大問題をちゃんと思考している訳でもありません。 この場合、「学べる」という事と「相手が何も知らない状態である」と判断する事のどこに矛盾があるでしょう? また、物理学の教授は何年も勉強してきから素人よりも物理学に於いてある程度優れていると言えるのは高慢でも思い込みでもなんでもありません。 もちろん、料理に関しては赤ちゃんレベルであれば、そこらへんのおばちゃんに土下座して教えてもらわなければならないでしょう。しかし、その時に於いても物理学に於いては教授なのです。 解りますね? ステレオタイプというのは反射神経的言動だけをさすのではありません。 物事の受け捉え方にも言える事です。 宗教というのは、人の思考言動の癖とか傾向などを目の当たりにするものです。 なぜなら、すべての宗教はある種の改善をもたらすもので、その対象は人の思考が主なものとなるからです。 一般的な日本人がどの様に物事を受け捕らえ、それにどう反応するか、そのパターンの定番中の定番位は既に押さえています。 そして、その傾向からその人の思考が普段どのようなものに重きを置き、どのような水準で生活をしているのかが伺い知れます。 おそらくKONIMIXさんはこういう事についてあまり考えた事が無いのではないでしょうか。 だから頻出するステレオタイプ型の受け捉え方が今回の書き込みの多所に見られるのではと推測しています。 さて、平行線とはKONIMIXさんとこうしてお話する前から解っている事ですし、そもそもこの質問はこうした話し合いをする為に立てたものではありません。 また、他者との摩擦をさける為に自分の心を見ていないのはわたしの相手である場合がわたしの記憶上では全てです。 わたしの話方はどこまでも突き詰めていきますし、それが自分の心が対象でも相手が危険な相手でなければ包み隠さず全てさらけ出しますから。 「自分の範囲内での柔軟」については、万人がそうなのですが。また、「全てを包み込む柔軟」とは具体的にどういうものでしょうか。 よく都合のいい妄想の世界に浸りきっている人を見かけますが、KONIMIXさんはそうでは無い事を願います。 「宗教に対する恐怖」とはわたしはどこでそういう発言をしましたでしょうか。テキトーな信仰は嫌ですし、欺瞞に満ちた信仰も好みません。 また、「自分と違う考え方を持つ人を恐れる」気持ちは正直あります。なぜかと言えば、自分の心を顧みない人は自分の手で目の前に居る人を殺してもそれは自分が殺したのではなく相手が勝手に死んだのだと考え、そのくせ自分がほんのちょっとしたかすり傷を負うとたとえそれが自分の蒔いた種の結果であろうが100%相手が悪いと考え(ているのとかわらない状態で)て襲いかかる。 こういう程度の低い連中が存在するのはKONIMIXさんもご存知だと思いますが、「心」をテーマにして突き詰めると割と多くの人がこれに似た状態になりやすいです。 ですから、大抵の場合この類の話題には触れない様、空気で読まれるだけでも面倒な事になりかねないので人前では考えない様にしていますが、これは問題でしょうか。 また、わたしは真剣な考え事もよくしますが、フッと頭に思い浮かんだ事を気軽に好奇心で聞いたりする事もあります。これは「気にしている」のでしょうか。 「すべての宗教はモラルや他者への愛情を解いている」とおっしゃいますが、わたしはこれについても「愛情とは他人の間違いを指摘せず、責任を負わせず、怒らず、etcなどと”とても狭量な愛の形”を定義し、その枠を決して譲らず、それに当てはまらない=愛情ではないと判断し、多くの発展途上の愛情を潰して憚らないスーパーがつく臆病な輩も腐る程目にしますが、KONIMIXさんはそうでは無い事を願います。 人と人との間で巧くやれる事が賢い事ではなく、悟りではなく、それはただの処世術です。 処世術は人が生きていく為の道具です。道具の為に自分の命を失う程お馬鹿な事はありません。 宗教を始めたとたん生きるのが大変になる面もあります。特にキリスト教は日本ではかなりの工夫を強いられます。 それがどの程度のものなのかをどの様に理解しているか、同じテーマに苦しみ悩む隣人をどう見ているかなども、テキトーな信仰なのか真剣な信仰なのかを伺い知る一つの要素になります。 KONIMIXさんは無宗教だからここについてはあまり/何も知りませんね。 また、聖書は霊感によって導かれなければ本当に理解する事はできないと思いますよ。 わたしの持論になってしまいますが、聖書には本当に大切な事は書かれていません。なぜならそれは文字にできないからです。その行間を読むというか、何を言わんとしているのかを霊感によって理解を与えられるというか、そういう過程によって聖書が真理の書であると理解できるのです。 その際に、どれだけ編纂されているか解らないとか、そういう事はあまり関係無い様に思います。 わたしは、聖書が事実の書なのかどうかは知りません。しかし、真理の書である事は知っています。まぁ、これを言ってしまうとこの世に聖書でないものなど何も無い事になってしまいそうですが。。。 とにかく、聖書に書かれた真理を熱望せずにただ読んでいるだけで理解できるとは限りませんから、その点は頭に置いておかれた方が良いと思います。 最後に、「聖書の間違い」は知っていました。 風邪をひいています。乱文大変失礼致しました。 明日も早いので見直しなどゆっくりできません。重ねて申し訳ありません。 では。