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自分の全てが明らかになったとき…
こんばんは、お世話様です<(__)>。 表題通りなのですが、 ひとは『自分の全て(過去、性格、嗜好、考え方…本当にあらゆるものが)』、 明らか(白日の下に曝された時、自他共に認識せぜるを得なくなった時)になった時、 どのようになる、また、どのような行動をとるでしょうか、とるのでしょうか…。 (現実論として『ありえないことなのかもしれません』が・・・(^^;)) 忌憚の無いご意見頂戴したくよろしくお願いします。
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何かみんな難しい話しててちょっとついていけないのですが 怖いものがなくなる 何でも悟られてるのだから隠すものがなくなり 隠すこともできない 隠す必要もない だとしたら何でも出来る 何故そんな行動に出るのかも悟られているのだから と思いました 私はここまでのレベルしかないけど 何となくあなたの質問に回答したかったです 失礼しました
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- tumaritou1
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再度書かせていただきます。『>一つは自我意識です、もう一つは『無意識です』この部分はお聞き流し願えればありがたいのですが、(科学のように実証、検分出来るものでは在りませんので・・・。) なぜ、『意識』と言うモノを『無理に分割するのか…?』、私には疑問です。 と云う事について書いてみたいと思います。今の精神医学では『心因性の精神疾患の原因』を特定出来ていません。ですがV.E.フランクル等『実存分析』と云う分野においてはその原因を『識られざる神』と云う立場をとっています。 私が、しつこく、意識が二つ在ると云う書き方をしている訳を、科学的な実績から載せたいと思います。是はウイキペデアからのコピーです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この右脳の意識は言葉を持っていない事が実証されています。禅問答が解けた時に『生死の問題は解決します』禅問答は、自我意識の分別する機能では解けないようになっています。自我意識が降参すると出てきて『割切れない問題、矛盾した問題』を解いてくれます。 禅問答は右脳の人格を引き出すテキストです。その人格が仏性や神と言うものです。恐怖症が治ったのも、『死ぬのが怖かった私ですが、仏性は永遠のもので出来ていた事が判りました。その結果肉体の死はどうでも良くなった』と云う言い方になります。 それ以後、自我意識が主格となって、右脳の意識を邪魔者扱いしていたものが、余りの苦しさから、自我意識が一回死ぬ『大死一番』と云う形で、もう一つの意識を上に頂いて、その者の支持する事に従う生き方になります。言い方を変えるなら『神の僕となって生きる事』になるようです。 心が争わなくなります。今まで心は、分からない者からの圧迫を受けてきました、違和感や、罪悪感や、生き難い想いとして、自我意識は苦しい想いが続いていました。その苦しめていた者との出会いで、その原因を知る事になります。人間は、意識と、無意識が交替制で健常者となっています。自我意識のみが突っ走っている事が『精神疾患や神経症や自律神経失調症』の原因を作っています。 心はその奥では、意識と無意識が相談しながらどちらの出番かを決めています。論理的な事は、左脳です。割切れる問題の場合には自我意識が計算出来る機能があります。ですが割切れない問題や、身体の機能に付いてや、心のコントロールなどや、感情のコントロール等は、右脳にしかコントロールする事が出来ません。 人生において降り掛かって来た問題を、どちらの機能の脳に割り振るのかで、解く事が出来るのか、出来ないかが決まってしまいます。先に書いた事(症状や病名)は、全て右脳にしか解決できない問題です。その解けない問題(割切れない問題)を、割り切る事しか出来ないほうの脳で解決しようとする事が原因で直りにくくなっています。出来ない事をしようとしている事が、治り難い原因となって、負のスパイラルになっています。同道巡りから抜け出せなくなっています。その解決が『悟り』です。右脳の意識に助けられる事を意味しています。 是は脳の機能の問題と言えます。どちらの脳に問題を振り向けるのかという事になります。右脳と左脳の間にホットラインが出来るために、それ以後はこの問題は生じなくなります。意識の根底で意識が芽生える瞬間に『二つの意識が出会う事』を意味しています。最後に貴方への回答『(質問文中の『どのようになる、また、どのような行動をとるでしょうか、とるのでしょうか…。』と云う事に答えたいと思います。 その答えは、全てを肯定する、と云う答えになります。人間の悩みや苦しみや疑問とは、今を肯定出来ないところに有るからです、自身の中には全てを肯定している者が存在しています。その者に従う事になります。その結果は、大安心と云うものの獲得です。『絶対の安心』が手に入ります。 人間の不幸とは、『今を肯定出来ないところに有るからです』 金があろうと無かろうと、命が長かろうと短かろうと、今正に死のうとしているとしても、今を受け入れるところには、不安が無くなっているからです。『絶対肯定』と云う足場が、自分を知るところから、築かれる事を意味しています。全てを受け入れた時、『自分の全てが明らかになったとき… 』と云う意味は、自身のいやらしいところと、一番誇らしいものが、同時に明らかになるという意味に見えました。
お礼
大変残念ですが、『既成のものには興味はありません』ので、 Wikiの貼り付けもまた同様です、Wikiの注釈お読みになったことが御座いますか。何らの責任をも負わない、Freeの媒体ですよ…? また、如何なる書物も『感じるものが無ければ』、『ただの紙束』です。 >科学的な実績から載せたいと思います。 今発見された、また、今目にするモノには興味があります。 『過去の学問』そして、『さっきまでの学問』は『発展途上且つ未完成のモノ』しか無いのです。 ですから『今、この瞬間の学問』に興味があります。 今、この瞬間の感性の言葉が『生きている』のです。 それ以外は『死んだ遺物』なのです。 それらを以って『今を生かされても』、それは『過去を生きているのと同じ事』名のです。 これらの意味を御理解いただけますでしょうか? >言い方を変えるなら『神の僕となって生きる事』になるようです。 非常に危険だと思います。 神と言う文字は『文字であって神そのものではありません』、 盛んに禅道を引き合いに出されてますが、佛様も同様です。 それらが『人智の及ぶ所』つまり、『言語で表現、人為的に表す事が出来るなら』それらは全て『思考』です。 言うなれば『ひとの領域内』の事であり、それらはエゴ、小我に汚されているのです。 『人智を超えてた領域』…誰が無いと言えますか? 般若心境260数文字それを『読解、解釈ではなく』、感じたことはあるのでしょうか? 更にいうなら『既知』は既に死んでいるのです、生きては居ないのです。 既知の延長線上に未知なるモノが存在するでしょうか? どんなに既知を重ねても『未知』には繋がりません。 『この瞬間、生かされて、気づく、閃く、感じる』これが全てなのです。 >人間の不幸とは、『今を肯定出来ないところに有るからです』 私は甚だ疑問を感じます。『不幸の定義は何』なのでしょうか? 勿論その逆、『幸せの定義』もそうです。 そんなものは『文字や表現ではその実体、本性、真実は断片的にしか表せない』のです。 その断片を掲げて『全体だ』と評するのは余りにも滑稽です、哀れです。 >『絶対の安心』が手に入ります。 私は其れを知りません。ですから未だ肉体と共に居ます。 絶対と言うものは『相対』があっては、『絶対ではない』のです。 安心の相対に『不安』があっては、『安心も不安も同じモノ』なのです。 理解していただけますか? 陰陽論をはじめ、二元論に絶対はありません、全てが相対です。 そのような『どちらにも転ぶようなモノ』は、例え『大』をつけても『安心』ではありません。 これは、先ほどの返信で『宗教は止まり木、それを人生の安らぎと感じる方は其れで良い』との旨、書きましたが、 >『今を肯定出来ないところに有るからです』 これは自由です。 そして私は同じ自由の中で 『全てに疑問を持っているのです。その疑問からしか創造は無いと』そう感じます。 『足るを知る』…それは『そうされる方が安住の地を求めた結果』の言葉でしょう。 ここで、『主張と主張』がぶつかった事は『私の不徳』にほかなりません。 この様な事態を避けたかった。 また『全てを肯定すると言う回答者様のスタンス』から、 この様な展開を予想だにしては居りませんでした。 私がここに様々な回答を寄せているのは、『その過程にある方』だけで、 むやみに同一の質問内容でも『そうでない方』には回答を自重しています。 本当に残念です。 >、『自分の全てが明らかになったとき… 』と云う意味は、自身のいやらしいところと、一番誇らしいもの 『自己と言う過去の反射物』から、『いやらしい、誇らしい』と言う判定が為されている事に気づきませんでしょうか…? もう少し私は『修羅の苦しみ』を必要としているようです。 『ゴールではない止まり木』に己を休める暇はありません。 久しぶりに、有意義な時間であった事もtumaritou1様のお陰です。 本当に有難う御座いました。m(_ _)m それでは、インフルエンザの季節…お気をつけ下さい。 末筆ながらtumaritou1様の今後の御活躍、祈念致しております(^人^)。
補足
何度も有難う御座います。 大変失礼ですが…。 >なぜ、『意識』と言うモノを『無理に分割するのか…?』、私には疑問です。 について『私は一貫して質問欄からお礼文返信まで『意識に何ら境界は設けておりません』し、区分けはしておりません』が…。 ANo..3補足欄…9行目~12行目に『私見』として以下のように記述した筈ですが…? 『無意識にも意識が在った』元々そうなのですよね、 『無意識も顕在意識そのほかの意識』も『一つのもの』なのです。 それを『某氏が言ったのかは知りません』が、 『勝手に分割して、呼称を与えてるだけ』なんですよね。
- tumaritou1
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有り得ない事を知りたいと云う背景には、知りえない事を知りたいと云う欲求が見え隠れしている気がします。貴方の表題を拝見して、その背景には人間が『死』を覚悟する時、或は、『自分は何者で、人生とは何なのか?』と云う事を問いかけているような響きがありますので、この線で書いてみたいと思います、違っていたら誤まらなければなりませんが。 人間が不安なったり、恐怖心を抱いたり、疑問を抱く事は、全て己の仕掛けた罠に、己がはまっている事を示しています。こういった問題に悩まない人は大勢いますが、そういう人は脳細胞が上手く働いているとも言えます。何故なら不安を抱きやすい人とは『自身の心の矛盾』に気が付いた人という言い方が出来るからです。 もっと言うなら、二つ在る自分の心が上手く強調出来ていると言えるからです。自分の心が協調できない場合を『心の矛盾』と云うからです。二つある自分の心を簡単に言うなら、一つは自我意識です、もう一つは『無意識です』 二つ在る心が上手く同調出来なくなる事とは、『無意識の自分になり難い場合』と云う意味です。是はメンタル面が弱いと云う言い方もあります。優勝が掛かった一打や、演技を行う時『プレッシャーに負けて』不安になったほうが負けると云う意味ですが、この事を詳細に分析した場合は、今まで練習では出来ていた事が、本番で大勢の前では、『意識して』出来なくなると云う意味になります。 反対に上手く言った場合とは、『うまくやろうとかの計らいを全て忘れて』自分がやっている事さえ忘れている場合です。意識には、やっている事に対しての自覚はあるのですが、意識では一打を打つ事や、演技をしている事も忘れた状態『没我』と云う状態です。意識が身体や心を『操作しようとしない状態です。』 意識してする場合と、意識しないでする場合の違いが分かる時、多分貴方の疑問は解消できると思います。或は貴方が抱いている疑問が誰からの問い掛けだったかも分かる筈です。私の場合も悩みが深かった時期がありました。14歳に『自分は何者なのか?』と言う事と『死にたくない』と云う不安に苛まれた事がありました。死に対する不安は月日を重ねていると、慣れてきて、弱くなると云う性質のものではありませんでした。人生は何なのか?と云う問いに付いても同じことが言えました。 28歳で結婚をした頃から、恐怖症による症状『離人症』が強くなってしまい、2ヶ月間、入院森田療法を受けた事がありました。入院中は禅の話や、道に至る話や、剣術などの免許皆伝などの話を先生は読んで聞かせてくださいました。時々「ノイローゼは悟りを開かないと治らない」或は「ノイローゼの一年は、座禅を十年した事と同じ」と云う話でしたが、その当時の私は只聞いているばかりで、何がなにやらさっぱりわかりませんでした。 退院して4年ほどたった頃、玄関で自分の靴を揃えている時、偶然自分の意識が自分の無意識の意識と出会うと云う体験をしました。その日の日記に書きました『無意識にも意識が在った』と。 その経験以後、ノイローゼになった事も、治った事もすっかり忘れ果てていました。32歳の時でした。59歳になった頃、近所の若者が『鬱になった』と言う事で、興味を持っていた時、公民館で精神科医が『鬱や心の病』と云う表題で講演会が在りました。その先生の話を聞いていて、『心の扱い方を間違っている』と感じて、自分の経験を生かして何か出来る事は無いだろうかと、今学んでいます。 話は横道にそれましたが、『無意識の意識』との出会いで、ノイローゼが治った他に『人生とは?自分とは?』と云う疑問が氷解しました。この問題は自分が問いかけて、自分がとくほかは無い事です。 その参考になればと思い書いています。自分の中のもう一つの意識とは、無意識に封印されている意識です、その機能は、命そのものを働かせている者です。言葉を持っていません、物事の真実の姿を真実のままに『脳梁』を通して絶えず、自我意識に送っています。心に湧きあがる感情は、その者からの情報を受け取って、『自我意識の機能である拠り好みと云う分別機能を使って、再構成して、受け取っています。』高い所にいると云う情報を嫌う場合が『高所恐怖症』狭いところにいると云う情報を嫌う場合が『閉所恐怖症』と云う事になります。 この場合、現実に何も無い時でも『予期不安』と云う形で、頭の中に恐怖を再構成して作り出します。是が宗教で言う『地獄や失楽園』と云う事になります。心に感情を湧きあがらせて、自分の命を働かせている者に従う事になって、心の矛盾は解消します。全てを肯定出来る者に従う事を意味しています。 恐怖症も、疑問も同じ原因で発生しています。それは何か肯定出来ないものがある、と云う意味です。今の現実を受入れられないでいると云う意味です。
お礼
こんばんは、はじめまして。 長きに及ぶ返信、年輪を感じさせて頂けるご回答、有難う存じます。 我が儘を申して申し訳ございませんが、 もう少々お付き合い頂けましたら、幸甚の至りで御座います。 >欲求が見え隠れしている気がします。 ええ、全くその通りです^^;。エゴ、小我の現れに他なりません。 『足るを知る、ありのまま、あるがまま』、それだけで十分なのでしょうが、 その『足るは何か?』、『ありのまま、あるがまま、とは何か?』その欲求 そのものです。 >人間が『死』を覚悟する時 こちらも正確には、『死を覚悟した…』否、 『生も死も同じモノと認識した』となるかと思います。 生と死…そこに境界線を設けているのは『思考に他ならない』と感じています。 肉体を主体とするからこそ、その始まりと終り、『誕生と死』に固執してしまうようですね。 私自身、幾度か心肺停止、臨死体験を経てそれには気づく事が出来ました。 >違っていたら誤まらなければなりませんが。 いいえ、そのような事御座いませんから、どうぞお気遣い無く…。 >己がはまっている事を示しています。 こちらもその通りですね。 自身で罠を掛け、其れを忘れ、其れに捕らえられる…そんな感じですね。 >こういった問題に悩まない人は大勢いますが 『不安、恐怖、疑問』を抱かない方…ですか??? また『悩む』という行為も、自己認識ですから、 その判定は難しいでしょうし…本人が『悩んでいる』といえばそうですし、 また『悩んでいない』と言えば、また其れも尊重せざるを得ませんが…^^;。 >自分の心が協調できない場合を『心の矛盾』と云うからです。 素敵な表現ですね、この様な言い回しは初めてです。 協調できていない=不安定…つまり、不安そして恐怖ですね。 >一つは自我意識です、もう一つは『無意識です』 この部分はお聞き流し願えればありがたいのですが、 (科学のように実証、検分出来るものでは在りませんので・・・。) なぜ、『意識』と言うモノを『無理に分割するのか…?』、 私には疑問です。 顕在意識、潜在意識、集合意識、超意識、宇宙意識…など、 何方かが考えた…つまりは『思考の産物』では無いでしょうか。 もっとシンプルに『我思う、故に我在り』で良いのではないかと感じますね。 >二つ在る心が上手く同調出来なくなる事とは、 >『無意識の自分になり難い場合』と云う意味です。 本来一つであるモノは、如何なる形であろうと、『二つに分割した時』、 その双方で『何らかの差異が生じ』、それが因となり、『葛藤→混乱→闘争』となるのが、『当たり前』のように感じますが、如何でしょうか? >『意識して』出来なくなると云う意味になります。 >『没我』と云う状態です。 >意識が身体や心を『操作しようとしない状態です。』 こちらにも『対立の構図』が潜んでるように思います。 『没我』…仮に”そうなろうとして、その状態になった”なら、 其の主体は小我、エゴに他ならず、見せ掛け、思い込みのように思います。 >操作しようとしない状態です ~~”しよう”とする、~~”しよう”としない。 双方とも『同一』ではないでしょうか? 『~~しよう』という、『我欲』が明確に介在していますよね…? >意識してする場合と、意識しないでする場合の違いが分かる時、 >多分貴方の疑問は解消できると思います。 そうなってくれれば有り難いのですが、そうは行かないようです。 残念(?)な事に私に『意識する』『意識しない』の分割は『ない』のです。 >或は貴方が抱いている疑問が誰からの問い掛けだったかも分かる筈です。 その答えは、『私、私達、私達全て』となるかもしれませんね。 ではその『我思う故に我在り』の”我”は確かに存在しています。 肉体レベルに限った事ではありません。 それは、『意識不明、心肺停止』状態で、医師によれば生体反応も消えたとの事、 その数分後、肉体は蘇生し、その一部始終の『記憶』は明確に残っていました。 具体的には『その時、現場に居た救急救命の看護士さん』、その方のお名前、その時の会話の内容を後日、病床に戻った時、『其れを告げて』笑い話になりました。 (笑い話=『救急救命の現場』では『よくある事』だそうです。) >14歳に『自分は何者なのか?』と言う事と『死にたくない』と云う不安に苛まれた事がありました。 お若くしてご苦労なさいましたね。 きっとご家族や周囲の方々のお陰で今日があるのでしょうね。 >慣れてきて、 この『慣れ』にはいつも警戒しています。 (文字数制限の都合、前後しますが、補足欄に続けます。m(_ _)m)
補足
(以下、『お礼』欄より、続く) 『慣れ』とは、魔物のような厄介者ですものね。 慣れは『感動を消し去り』、『怠惰に至らしめ』、 強いては『肉体を死に向かわせる』ようです。 >偶然自分の意識が自分の無意識の意識と出会うと云う体験をしました。 >その日の日記に書きました『無意識にも意識が在った』と。 良い御経験をされましたね。 言葉の綾です。(揚げ足取りではないこと御理解ください。) 『無意識にも意識が在った』元々そうなのですよね、 『無意識も顕在意識そのほかの意識』も『一つのもの』なのです。 それを『某氏が言ったのかは知りません』が、 『勝手に分割して、呼称を与えてるだけ』なんですよね。 >、『心の扱い方を間違っている』と感じて、 >自分の経験を生かして何か出来る事は無いだろうかと、今学んでいます。 私もそう思いますね。そして同様と言ったら烏滸がましいですが、 私もそのような感じです。 『心(こころ)』この題名そのものの本(ルードリッヒ・クラーゲス 【Ludwig Klages】著)が現在ドイツ語、英訳版しかありませんが、ある先生が邦語訳の最中です。 手に取る時を楽しみにしているところです。 >この問題は自分が問いかけて、自分がとくほかは無い事です。 そうですね。 そしてひとは其れを『悟り』と呼び、『救い』と称したのですね。 >言葉を持っていません、物事の真実の姿を真実のままに 『脳梁』を通して絶えず、自我意識に送っています。 言葉…『思考の産物』ですね。思考とはどんなに奇麗事を言っても、 そこに『自我、エゴを含有しているモノ』なんですよね。 『生命』と言う括りの中で、『ひとだけが言語、言葉を手にしている』、 そしてその『言語、言葉、単語』こそ『エゴ、小我』の顕現した姿なんじゃないかと思いますよ。 『ひと以外の生命体、万物』は『それにあたるものは無い』のではないでしょうか…?従って、『ありのままあるがままの自然体』なのでしょうね。 >現実に何も無い時でも『予期不安』と云う形で… 私にとっては初めての単語でしたが、『過去、現在、未来』と時系列の流れを追った時、『未来』を思い煩えば必ずそうなりますね。 また、過去を追えば『後悔』がいつもいるようです。 しかし、『私達が生きている、生かされている』のは、何時でも『今』のはずなのに、『過去に囚われ、未来に脅かされ』、今と言う時が『消滅している錯覚』にも陥りますね。 >是が宗教で言う『地獄や失楽園』と云う事になります。 様々な宗教を『体験』しましたね・・・、そしてその結論は、 『全ては思考の産物、過去の遺物』であって、『人生と言う歩みの中で、その止まり木が必要な方』にはとても良い物だ…とそう思います。 >全てを肯定出来る者に従う事を意味しています。 とても純粋なお言葉を有難う御座います。 『全てを肯定できる』そうありたいし、そうなるまで『意識は続く』と思います。 (質問文中の『どのようになる、また、どのような行動をとるでしょうか、とるのでしょうか…。』に触れていただきたかったです。『言語と言う限られた領域の中でどの様に表現される方が居るのか』興味は尽きません。人間の創造力は計り知れないですから・・・。) 若輩者の投稿に御回答まことに有難う御座いました。 またお見かけの際はよろしく御指導、御鞭撻をお願いいたします。 失礼致します。
前人未到の領域ですから論文を書くでしょうね ノーベル賞ものですよ
お礼
あ・は・は…ですよね^^;。 前人は未踏でも、「今後は・・・(微かな期待、有?)」、 想像力(想像力)豊かな方々がいらっしゃるかも…。 もしかしたら「ここでノーベル賞モノ」がでたら、 サイコーですね☆。 ご回答有難うございました。
お礼
有難うございます。『理屈じゃないんです』…この質問は^^;。 >何となくあなたの質問に回答したかったです 行間に『感じるモノ』がありました。 soodane様の『やさしさ』かもしれませんね。 >だとしたら何でも出来る そうですね・・・。 やりたい事、遣り残した事が消化できるでしょうね。 実は、『そうなりたい自分が居る』のが偽らざるところ…ですね^^。 …こちらは『梅が満開』です。春近し…ですね。 ご返信遅くなりごめんなさいね、でも、ご回答嬉かった(^O^)。 ありがとうございました。