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「人は一人では生きていけない」「自立した人」

「自立した人」は「一人でも生きていける人」ですか? 「自立した人」であることが大事とするならば、彼氏や彼女、結婚して家族を作る必要もなくなってしまうと思うのですが・・・。 人はみな、完全に自立できないから、誰かに頼って生きているのではないですか? 「人は一人では生きていけない」と言いますが、「依存している人」と、どう違うのですか?

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noname#134608
noname#134608
回答No.4

こんにちは。 clear-さん…信じる、信じない、感じる感じない、 人それぞれ様々な感性や『過去』を持っていますね。 そして今回の『自立、一人、依存…』と、やはり其々の 『定義づけ』が為されているのではないでしょうか? それらのキーワードには其々『二面性』を持っています。 解りやすく言うならば『肉体面、精神面の2つ』です。 そしてまた『生きていける』と言う表現も多少語弊がありますが、 『生かされている』のが実体ではないでしょうか? 肉体面、精神面、そして生かされている…と振り返ったとき、 clear-さんの疑問のお答えは自ずと出てくるように思います。 精神的に自立していない人…今の政治家、官僚、閣僚を良く観察なさってください。 机上で『エコを唱え』、実生活で『無駄を量産している方』より、 ホームレスの空き缶拾いをされている方のほうが、余程精神的には自立していますよね。 依存…これも、『肉体的精神的障害で依存せざるを得ない方』もいらっしゃいます。 しかし、その方々の存在も『今後、将来の人類の課題の提示を身を以ってされている』、 そう見方を変えれば、その依存も『共存へと変わる日が来る』そう思います。 「人は一人では生きていけない」=『共存して生かされている』と言い換えては 如何でしょうか…? 「依存している人」=『お世話になってしまう事が多い人』であって、 『肉体的に消化、思考、血液循環、呼吸による換気』等は『他人に依存することは出来ません』よね。 勿論、『病的に医師や医療器具』にお世話になっている方はいらっしゃるでしょう。 しかしそれらの方が居てこそ、『医療の進歩』もあるのです。 長々と書き連ねましたが、『二面性』と言う単純な世界が『この世界』ではありません。 『多面性、多様性』がその実体です。 それら全てを観察、洞察する事は難しい事かもしれませんが、 日々の変化に注意していれば、様々な事が見えてきます。 自己、自我(自身の過去に因って判断を下す事)は、必ず『偏見』となり、 強いては、『境界線を創り出し』その結果、差別を生み出します。 差別と『共存』は正反対に位置します、合間見えることはありません。 ひと、知人、友人、親友、結婚夫婦、家族、種族、生命体系、自然、地球、太陽系、銀河系…と しっかり『共存』出来れば良いですね…。 それでは。

noname#123631
質問者

お礼

「机上でエコを叫びながら無駄な量産をしている政治家と、空き缶拾いをしているホームレス」のお話は、とても分かりやすくて、はっとさせられました。 「依存している人」=『お世話になってしまう事が多い人』「人は一人では生きていけない」=『共存して生かされている』と考えると良いですね。 『偏見は差別を生み出し、差別と共存は正反対に位置する』これも、はっとさせられるお話でした。 人間同士だけではなく動植物も、しっかり『共存』できる世界になるといいなと思いました。 ありがとうございました。

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noname#132068
noname#132068
回答No.7

自立した人が1人で生きられるのではなく 1人で生きていこうと思う人が1人で生きられるんだと思います 自立していても人は1人で生きていくのはさみしい だから恋人、夫婦、家族があるんだと思います 自立してるから1人ででも生きていけるのではないと思います ただ自立してる人はやむを得ず1人になっても生きていけるだろうが 依存してる人はその人を失った時生きていけるのだろうか という点が 自立してる人が1人では生きていけないのと依存してる人との違いだと思います

noname#123631
質問者

お礼

「自立した人が一人で生きられるのではなく、一人で生きていこうと思う人が、一人で生きられる。自立していても一人で生きていくのは寂しい、だから恋人や家族がある」 「自立している人は一人になっても生きていけるが、依存している人はその人を失ったときに生きていけない」だから自立する必要があり、依存は良くないのですね。 納得できました。ありがとうございました。

回答No.6

自立した人は、家族を持ち、家を持ち、子供を持っています。例え、家族が無くとも、自立している人は、金銭的にけじめがついている人です。他人を頼っていないと言うことです。依存している人は、他人にパラサイトしていますよ。人が一人で生きていけないというのは、自分のことは自分ですると言うことです。そのうえで、他の人の協力があれば、解決が早いと、思うときに、助けてもらいます。花から、人を頼っているのは、馬鹿のすることです。自分で出来ることまで、人を頼っていたら、その人は、社会悪ですよ。ですので、完全に自立できない人は、学生のような人です。学業についている人は、勤労学生などをのぞいて、自立できていません。君の言うように、人は、みな完全に自立できないから、誰かに頼っているというのは、間違っていますよ。奥さんも、飯炊き婆では、ありませんよ。奥さんにも、生きる権利がありますよ。旦那の、パシリじゃない!ということですよ。体よく使っているから、熟年離婚するのですよ。自立して、パートナーや結婚することが、大切と言うよりも、自分が、何をパートナーや、結婚相手にしてあげられるかを、考えるべきですよ。それは、自立していれば、分かるはずです。何でもかんでも、他人を当てにしていると、人の褌で相撲を取るな!と、怒鳴りつけられますよ。君は、一体何を考えているのですか?自分一人で生きていくことが出来ないのならば、乞食をするより、ほかに、ありませんよ。常識ですよ。自分が、食えないのに、家族がもてますか?パートナーをもてますか?まず、自力で生きていくことが可能だからこそ、結婚や恋愛があると、お考え下さい。犬や猫じゃあるまいし、好きになったからといって、くっつけるわけでは、ありませんよ。自立できていれば、君のような質問は、しませんしね。君自身が、誰かにパラサイトしているのでしょうね。勤労・納税・教育は、国民の3大義務ですよ。これが出来ていることが、まず自立できている証の基本ですよ。基本が出来ていないから、他人を当てにするのです。自分のことは、自分でするのですよ。常識ですよ。それと、人が一人で生きていくと言うこととは、次元が違いますよ。何か、勘違いをしていますね。君は、教育を受けましたか?ニートではありませんよね?高校ぐらい卒業したでしょうね?それが出来なければ、まともな、人間では、ありませんよ。この世に、無くても良い、人間ですよ。君は、基本が、人生の基本が、理解できていませんね。他人を蹴落として、お山におぼれば、次は、自分が、落ちる番です。人の褌で、生きようとすれば、自分が、人から恨まれます。恨まれたら、君は、地獄行きですよ。思し召せ。以上です。

noname#123631
質問者

お礼

ありがとうございました。要は、国民の3大義務ができている人を、自立している人だと仰るわけですね。そこまでは分かりましたが、以下のことだけは言わせていただきます。 回答者様は、教育レベルが高卒以下の人を、まともな人間として扱っていません。相手がどのような人間であれ、れっきとした人間を人間扱いできない回答者様は、最低な次元の人間です。 私は、乞食だって私達と同じ「命」を持っている人間だと思います。乞食が公園のゴミ掃除をしているのを見かけましたが、公園にゴミを散らかしている花見客の方が、よっぽど最低人間だと思いました。 自立できずに、闘病生活を送っている人間、家族の介護に専念している人間、育児に専念している人間は、まともな人間ではないということに。 更に、もっと世界レベルで考えると、もっともっといろいろな人がいます。そのような人の立場に立てて、物事をもっと多方面から考えることができるようにならないと、人から恨まれたら回答者様は地獄行きですよ。以上です。

  • kadowaki
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回答No.5

>「自立した人」は「一人でも生きていける人」ですか? 私の友人や知人を見る限り、本当の意味で「自立した人」というのは、自分が周囲のいろんな人々によって支えられていることをきちんと自覚している人たち、それゆえに周囲の人々との交流を大切にする、思いやりがある、人望も厚い人たちばかりです。 その意味では、確かに「一人でも生きていける人」たちなのですが、だからこそ、人間的に立派であるからこそ、周囲の人々が「一人」にさせたがらないのだと言った方が正しいような気がします。 >「自立した人」であることが大事とするならば、彼氏や彼女、結婚して家族を作る必要もなくなってしまうと思うのですが・・・。 失礼ながら、質問者さんは「自立した人」と「孤立した人」とをごっちゃにしていませんか? 「自立した人」ほど、周囲の人々から好かれたり、愛されたりするからこそ、他人との間に活き活きとした、豊かで親密な人間関係を作り出すのではないでしょうか。 一方、「孤立した人」というのは、周囲や他人との関係に消極的だったり、受動的だったりするところがあるのではないでしょうか。 >人はみな、完全に自立できないから、誰かに頼って生きているのではないですか? 本当の意味で「自立」している人というのは、やはり自分が自分以外の周囲や他人に支えられ、同時に周囲や他人を支えていること、つまり、自分が自分以外のものとの交流や関係の中にこそ存在しているという《事実》をきちんと弁えながら生きているのだと思います。 もっとも、かく言う私自身はとなると、まだまだ人間的には未熟なるがゆえに、本当のの意味での「自立」とはほど遠い、「依存」的な生き方を余儀なくされております。

noname#123631
質問者

お礼

自立した人とは、「周囲の色々な人によって自分が支えられていることを謙虚に自覚していて、思いやりや人望や立派な人格があり、周囲が放っておかない(一人にさせない)人」、つまり愛されている人のことですね。 孤立した人のことは何も考えていませんでした。孤立した人は、そうですね、消極的で受動的であるがゆえに、孤立しているのでしょうね。 自立した人ほど、「自分が周囲に支えられていることを分かっている人」という考えは、仏様のように崇高な考えだと思いました。 ありがとうございました。

回答No.3

>「自立した人」は「一人でも生きていける人」ですか? その通りです。人間は先ず、個としての独立した個人にならなければなりません。具体的には、自分の中に最低限守りたいと思う善悪の基準をどこに置くかを決める事です。誰が見ていようが見て居まいが悪い事は悪いと、自らの権利と責任に於いてこれを実行出来る人。人の道を果たす為、時代が変わろうと状況が変わろうと真実の元に立って生きる事が出来る人。どんな感情よりも良心が必ず一つだけ上になる人。「自立」というよりも「自律」する事が、個人になる為には必要ですね。 ちなみに自律とは他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動することです。 人間の自立、もとい自律は、他の動物と違ってもっと複雑で難しい事ですね。 独立した個人は自律する事で自由を確立出来ます。しかし、それは限界のある自由です。自律する事は、自分に限界を設ける事でもあります。人の物や命を盗ったり、人を奴隷のように扱う事は誰にでも出来る事です。しかし、自分の権利と責任の限界を知る事でそのような行動を起さない可能性が人間には生まれるのです。そのような境地に至った一人一人の人間が、社会の一端を担う構成員となった社会はとても快適で、幸福でしょう。 >人はみな、完全に自立できないから、誰かに頼って生きているのではないですか? 限界を知る事は「自分には出来ない事がある」事を自覚する事でもあります。限界を知った人間はそうやって分業する事を発見しました。他者の利益を増幅する事が自らの生活を豊かにする事に気が付いたのです。そうやって職業は誰かの利益になる為に細分化して行きました。 人間は生まれてから死ぬまで他者からの世話を必要とする動物です。しかし無償の愛に基づく世話が期待出来るのは、自らが尊敬し、また、尊敬される関係性を持った人間のみでしょう。親しい友人や親族から世話を受ける場合も、お互いに尊敬されている事が前提となるでしょう。人間は誰にでも平等に変わる事の無い尊敬を持つ事は出来ません。 しかし、誰かの世話を受けるのに尊敬を前提としない関係が成り立つ場合が2つあります。それは、相手を奴隷にするか、相手に必要なものと自分の世話を取り替える事です。(アダム・スミスの交換性向を調べてみるともっと深く勉強する事が出来ると思います。) 依存心は自分の欲望のみに従って、他者を奴隷にする事です。人間は自らの欲望の奴隷にもなりえる事を指摘しなければなりません。これを正しいかどうかを判断するには、自らの意志がつくったルール(自律)に反しているかどうかを各々が判断するしかありませんね。もちろん独立した個人は依存は選ばないでしょうね。自らの自由は、他者の自由によってのみ活かされる。そういう緊張関係を意識した人間関係が必要だと思います。 ご参考までに。

noname#123631
質問者

お礼

ありがとうございました。個人主義アメリカの「悪の枢軸」発言を思い出しました。 「人間は生まれてから死ぬまで他者からの世話を必要とする動物。しかし無償の愛に基づく世話が期待出来るのは、自らが尊敬し、また、尊敬される関係性を持った人間のみ。親しい友人や親族から世話を受ける場合も、お互いに尊敬されている事が前提となる。人間は誰にでも平等に変わる事の無い尊敬を持つ事はできない。」納得しました。 アダム・スミスは名前だけしか知らなくて、交換性向は知らないので、調べてみようと思います。大変参考になりました。

noname#138346
noname#138346
回答No.2

人は一人では生きていけない、というのは、 現代の文明や生まれ育った文化とは無縁ではない。 ということだと思います。 電気ガス水道やレストラン、コンビニ、携帯、趣味のものなどなど、自分一人で成り立たすとなると、それはそれは大変なことなんだと思いますよ。 依存するのが問題になるのは、働いて稼ぐことをできるか、悩みや不安を上手に解決していけるか、ということだと思いますよ。 働く働かないは、それなりにはっきりさせやすいですが、相手に負担をかけるかどうかは、なかなか悩んでいると見えにくくなります。 かくいう私めも、耳の痛いことのひとつやふたつはございます(笑)

noname#123631
質問者

お礼

確かに、電気ガス水道、レストラン、コンビに、携帯、趣味いろいろ自分一人では成り立たすことは不可能です。 依存が問題なのは、働いて稼ぐことができるか、悩みや不安を上手に解決していけるか、ということなのですね。 人間であれば皆、耳の痛いことはありますよね。ありがとうございました。

  • zbf85297
  • ベストアンサー率35% (19/54)
回答No.1

人間どころか、すべての生物は一個体では生きては行けません。 環境が無ければ生命活動を維持できないからです。 人間も水空気食料の生理上の環境整備は勿論の事、 社会的環境が無ければ生きていく事は難しいでしょう。 学生や主婦だって孤立した存在ではなく立派に社会参加しているのです。 さて本題ですが、私は以下のようにとらえます。 「自立している人」は「経済的に収入>支出している労働者」 「依存している人」は「経済的に他社に依存している人(労働者でない事も有る)」 のような意味合いにとられていると思います。 つまり、年に1000万の収入があり700万支出をするサラリーマンは 自立したい人という事になるでしょう。 しかし、その人は自分で食料を作るわけではないでしょうから他者に依存する訳です。 その意味では、仰る意味において依存している人、自立している人の差は 実は特に無いと思います。 尚、ホームレスの方も自活しているわけでは有りませんので依存している人になると思います。

noname#123631
質問者

お礼

よく考えれば、すべての生物は、一個体では生きていけないですね。 「自立している人」は「経済的に収入>支出している労働者」 「依存している人」は「経済的に他社に依存している人(労働者でない事も有る)」納得しました。 結局、誰もが他者に依存していますね。経済的な意味では、ホームレスは依存している人ですね。 ありがとうございました。