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どうして「好き」と言うのに恥じらうのか?
あくまでも生物学的に捉えたいのですが,(ロマンが無くてすいませんf^_^;)どうして人に「好き」って事を言うのに恥じらい躊躇いが生じるのかなあと思います。(そうでない人もいるかもしれませんがあくまで多くの傾向として) 自分の考えとしては パートナー選びを慎重にするため?(丈夫な子が生まれるように) 本心をさらけ出すことは自分を保護する上で不利になるから? 皆さんのご意見をよろしくお願い致します。
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こんにちは。 我々は裸で外を歩くことを恥ずかしいと思います。恥ずかしいと思うのは、それを恥ずかしいとする社会に生まれ育ったからです。どうして好きと言うことに恥じらいを感じる文化が生みだされたのかはここでは論じませんが、このようなものはみな我々人間の文化的価値観であり、必ずしも生物学的利益と一致するものではありません。 恥ずかしいという感情は、自分にとって不利益となる行動を抑制するために発生するものです。我々が異性に興味を抱くのは純然たる「本能行動」であり、これに伴う選択の動機が「情動行動」です。ですが、ここに恥ずかしいという感情が発生するのは、我々の理性がこれを抑制しようとするからです。では、果たして我々人間の理性的価値観といいますのは本来の生物学的利益とは明らかに対立していることになります。 人間も動物である限り子孫を残す機会を抑制して何が利益なのでしょうか。ひとつには、それは社会の秩序に従うことによって自分の身を守るためと考えられます。 理性行動といいますのは未知の結果を予測して行う「計画行動」です。本能行動や情動行動といいますのは反応の発生によって直ちに判定が下されてしまうため、ここでは未来の結果を予測するということはできません。ですから、我々動物にとってこの学習結果に基づく理性行動といいますのは、それは生まれながらにして与えられた本能や情動では選択することのできないより複雑な問題を解決するためのものであり、言うまでもなく、この能力において人類と同等の生物は果たして存在しません。このため、その行動には生物学的に矛盾すると思われるものは他にも多々ありますが、我々人類はその秩序を守ることによって子孫を残し、そこに新たな文化を積み重ねてきました。ですが、これが如何に人類の繁栄戦略だとしましても、人間も動物である限りそこに蓋然的な矛盾が発生するのは果たして言い逃れのできない事実であります。何故ならば、このようにして我々の脳内に発生する理性と情動の対立は古来より「人類の苦悩」、即ち「悩み」と呼ばれてきました。
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NO 3,5 です。 >やはり配偶者の選定ですよね。回答ありがとうございました 私の舌足らずな面もあったのですが、 >>パートナー選びを慎重にするため という私の意味の中には、性的な面での人間社会の既成文化を(ある意味最前線にある)若者が壊さないように、犯さないように慎重にやれと、大人がある意味ダブルスタンダードをかけているという意味も含むことをいいたかったわけです。それを若者は知らず自身の精神のなかに禁忌として植えつけられているのでしょう。 ですから、 >>(丈夫な子が生まれるように) というこの面における純粋な生物的要因はこの際無関係ではないにせよ、よほど比率が小さいだろうと思います。良い配偶者を得るためという結果の問題ではなく、どんな行動でそれをなし遂げるかということが重要なのです。 人間は複雑な知的生物として既に自分たちが作った社会からも規制される存在なのです。
お礼
ありがとうございました
No.3 です。 前回の回答は質問者様の質問に十全には答えていなかったようです。 >恥じらいとは何か? ですよね。 人間は社会的な動物とされます。社会生活の中での性行動を人間は基本的に一夫一婦制で解決しました。 それでも性の牽引力は本来そういった家族制度を壊しかねない非秩序的な力を持っています。一旦カップルが成立したあとの問題については「汝姦淫するなかれ」というような金言で代表されるモラルが秩序を形成することで解決しているのだと思いますが、問題は結婚適齢期の不安定な男女の関係をどう安定状態へ移行させるかだと思います。この解決のシステムとして青春期の一見過剰な性的羞恥心が生まれてきたのではないかと私は思っています。お互いにこの時機には非常にナイーブな、慎重な行動を強いることでより賢明な配偶者選定ができる生物的配慮が進化論的に形成されたのではないかということです。 ご参考まで。
お礼
やはり配偶者の選定ですよね。回答ありがとうございました
>どうして人に「好き」って事を言うのに恥じらい躊躇いが生じるのかなあと 社会的な動物で様々な状況思考が出来る人間の知能がそうさせているのだと思います。 まず自分の性的な本音行動が(相手との間で)公的にさらけだされることに対する羞恥心の発動があります。まだ相手はその時点では赤の他人ですから。 それが成功するかどうかはまだ分かりません。賭けのようなものです。その冒険へあえて踏み切ることへの怖れ(受け入れてくれなかったら、自分はどうなるか?)が躊躇する大きな要因でしょうね。 それぞれ人間独自の現象です。ロマンの元だと思います。 古来より文芸活動のネタになってきたわけです。 動物の性行動ではありえない現象ではないでしょうか。 カマキリの雄の性行動のように喰われることが分かっていて近寄る際に躊躇らしいものがあるように思いますが、怖れて居るのでしょうか?よく分かりません。他のいきものはみなドライなように思います。 ご参考まで。
お礼
まあ,冒険ですよね。 回答ありがとうございました。
生物学的というよりは、日本人的という解釈じゃないかなと思いました。 ヨーロッパなどは、愛しているとか好意を抱いているというのに、堂々としているというイメージが強いですから、特にイタリアの男性は、女性には声を掛けないほうが失礼だとか。 日本人の大半は、質問の内容にあるとおり、恥じらいや照れがあると思います。 余程性格や容貌に自身があると自分で思っている人でなければ、自分が好きになった人に告白するとき、良い返事が得られないかも知れないと、告白前はマイナスな考えで頭が占められると思います。 きっと無理だとか、つり合わない人を好きになってしまったとか。そういう自分の卑下した立場で告白するので、躊躇があるし、いざ告白しようとするとき、恥らうものなんじゃないかなと思います。
お礼
ヤッパリ事後を考えるからですね。 回答ありがとうございました。
- dame-kakuseizai
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恋することによって、嫉妬したり、人を憎んだりすることを知っていて躊躇うからでしょう
お礼
なるほど。後の事を考えている。と
お礼
なるほど。すまり社会的な拘束と生物学的な本能のギャップが「悩み」として人間独特の考えになってるんですね 回答ありがとうございました