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兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考えはどこから出てきたの
兵站軽視、食糧を現地で調達するという帝国陸軍の考えはどこから出てきたのでしょうか。 太平洋戦争敗戦まで、その考えに固執したのには、よほど強烈な思想があったのではと、愚考しています。 日清戦争で、早くも「因糧於敵」の方針が示されています。 穿った見方をすれば、陸軍創設を指導した西欧のどこかの国が、わざと軽視するべしと教えたのではないかと、つまらぬ妄想をしています。 よろしくお願いします。
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たしかに日本軍は兵站に関しては評判は良くはありませんでしたが、それは程度の差はあってもどこの国の軍隊でもそれなりに問題はありました。それでも「マレー侵攻作戦」に見られるように、兵站準備の周到さによって作戦を成功に導いた例があります。 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。 ではなぜ日本の兵站思想の貧しさの好例として常に挙げられる、「インパール」や「ガダルカナル」のような悲劇が起こったのでしょうか。 一つにはとにかく日本軍が貧しかったということがあります。「日清日露戦争」や「日中戦争」に見られるように、銃剣突撃や白兵戦を常に攻撃の主体においていたのには、この貧しさが大きな原因となっています。 つまり、攻撃前の十分な準備射撃には膨大な弾薬が必要となりますが、これを用意できなかった(あるいは惜しんだ)ため、結果的に肉弾による最後の決戦に挑んだということです。旧日本陸軍では日清日露戦争当時から、戦闘時における砲弾や銃弾の不足に常に悩まされていましたが、これは製造能力が無かったというよりは、やはり弾を惜しんで一発必中的を推奨する軍内部の精神的な悪癖がありました。 もうこれは日本の文化といっても良いもので、現在に至るも自衛隊での訓練における弾薬の一人当たりの消費量は、南米の小国であるニカラグアのそれよりもはるかに少ないということも、なんだか笑ってしまうほどの哀しい文化だというしかありませんし、警察や海保なども似たり寄ったりの状況です。 質問にある「糧が敵に因る」や「現地調達」という思想は元々旧日本軍からでた発想で、外国から強いられた発想ではありません。旧日本陸軍に大きな影響を残し、陸軍参謀本部の生みの親でもあるドイツ軍人メルケル少佐は、つねにその講義の中で兵站や補給の重要性を説いていました。 旧日本軍が兵站戦でも敗北した理由のもう一つに、戦線での制空権と制海権の喪失があります。いくら補給をしたくとも、途中でその輸送艦船が壊滅させられればどうしようもありません。それでも「ガ島」の例にあるように、「ネズミ輸送」とか「アリ輸送」などのように揶揄されながらも、必死に補給を続けようとしていましたし、「インパール」にしても輜重出身であった第15軍参謀長の小畑少将が、その兵站無視の無謀な作戦に最後まで抵抗をしていました。 よくアメリカ軍の補給能力の高さが取りざたされますが、それも相対的な戦局の有利があってのことです。そのアメリカでさえ細かな戦闘を取り上げれば、それなりに補給に苦しめられた戦線が多々ありました。ただアメリカのすごいところは、一旦これは必要不可欠なものだと理解したら、官民上げての協力体態勢を即座に構築し、一丸となってことに当たる覚悟の良さです。 倒的な物量、言い換えれば国内での大量生産体制があってのことでもありますが、アメリカの思考方法の柔軟さは今でも見習うべきところがあります。 第一次湾岸戦争(イラクを第二次と呼ぶならばですが)で見せた、あの圧倒的なロジスティック能力と物量を見るにつれ、この国はやはり戦争の時になればなるほど生き生きとするんだなとあきれるばかりでした。 閑話休題 今に至る日本軍兵站思想の貧しさを非難する風潮は、たしかに事実として部分的には当たってはいます。旧陸大の輜重科を卒業し輜重将校になったのは、全卒業生の1パーセントにも満たないし、その中から大将までに登りつめたものもいません。それは明治維新の幾多の戦闘において、新政府側がその輜重業務を当時の地域の博徒(つまりはヤクザですね)達に任せていたことが、後々までに輜重に対しての悪いイメージを遺していったという面もあるかもしれません。 旧日本海軍にしても輸送関係の部署を「ボロ士官の捨て所」とよんで侮蔑していましたので、この前近代的な伝統は根深いものがありました。 しかし前述したように、軍部内部にも心ある人物はいて兵站に関する重要性を常に説いていましたし、大きな犠牲を払いながらも補給を継続しようとする意思と行動を続けていたことも事実です。しかしあまりにもその数が少なく、兵站に関しての人材不足はやはりどうしようもなく、旧日本軍の大きな欠点でした。 それに軍内部に大きな発言力を持った、輜重畑出身の高官がいなかったことも日本にとっては不幸なことだったと思います。
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- rsejima501
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孫子の兵法に、 「敵の貨を取る者は利なり」 「智将は務めて敵に食む」 とあるように、食料を敵から奪うというのは洋の東西を問わず ポピュラーな戦略で、古代・中世どころか近世・近代の戦争でも 割りと見られる光景でした。(後の時代では略奪だけでなく、 宣撫の意味もあって、買取というスマートな手段を取るように なりましたが。)
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ご回答ありがとうございます。 そうですね。 私も「孫子の兵法」の考えが底流にあると思っています。
- tak7171
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単に「兵站に人を割くなら、その分前線に人を送って敵を倒そう。 食糧など現地でまかなえばいい」と言う程度の考えだったかと思います。 これは欧米から、というよりも、 日本が古来から持っていた戦術思想だったのではないでしょうか? 但し、日清戦争時には、一応金銭によるやり取りがありましたし、 それでも徴用した現地人に逃げられて、腹を切った指揮官もいたようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私も、同感です。 しかし、異なる見方も大いにあると思いますので、その回答も参考にしたいと思います。
- Yelm
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第二次大戦時でも食料を現地調達する必要が無かったのは米軍だけです。 電撃戦で名高いナチス・ドイツ軍ですら最後まで馬匹による輸送を脱する事が出来なかった事から分かるように、第二次大戦以前の軍隊の輸送力は武器・弾薬・医療品等を前線に運ぶのですら不十分だったのです。 だから食料を現地調達するのは当時としては普通の考えで、それ自体は別に不自然ではありません。 更に日本陸軍の場合、太平洋の遙か彼方まで出兵する事は想定しておらず、また乏しい国力からも。そのような準備を整える事が出来なかった事、更に制空・制海権の喪失によりそもそも前線に物資が送れなくなった、つまり根本的な見込み違いが問題なのであって、食料の調達方針など枝葉末節の問題に過ぎません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「根本的な見込み違いが問題」と言われると、なるほどと思います。
- DESTROY11
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根拠はないのですが、戦国時代からじゃないでしょうか。 あの時代は、食い物はそこら辺の農家から徴発するのが当然で、戦自体も収穫後を狙って行っていたようです。 農閑期なら農民兵士の調達もできますしね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 同感です。 私も戦国時代から、戦いとはそんなものだと思っています。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 「閑話休題」で書いて下さった話はとても興味深く読みました。 確かに「兵站」の重要性を認識していても、兵站は地味な仕事ですから、軍人なら誰でも陽の当たる第一線で「戦闘」に加わりたいでしょうね。 「軍内部に大きな発言力を持った、輜重畑出身の高官がいなかったこと」とのご指摘はよく理解できます。