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宇宙、生命現象などの未解明なことに疑問をもったり、問題点が気になったり
宇宙、生命現象などの未解明なことに疑問をもったり、問題点が気になったり、解らない点を発見したりすること、営みは「科学」の範疇なのでしょうか?探求心とか向上心とかはカテゴリーを超えてのボーダレスの心と思い、哲学か化学か、物理か、文学か芸術なのか、迷っています。宜しくお願い致します。
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補足をいただき、更にコメントせよとのことですので、少し感想を述べさせていただきます。 >一人の人間がやることは主観的で普遍性に欠けるきらいがあります。そこで、客観的な科学の登場となるんでしょうが、科学にしても「人間のやること」であり、主観の集団がまとまったからといって論理的客観にはならないと思います。 それはそのとおりだと私も思います。でも質問者様は「主観的なもの」に執着しておられるようですね。 >限りなく主観的でもあり客観的でもある、論理的営み これは矛盾を含んだ概念であり、意味不明です。 基本的に人間は身体全体の知覚感覚を総動員して客観的に徹することで今日の科学万能時代を築きました。しかし、その最先端においては、客観というものに限界が見え、そこで主観が論理的営みを開始していくつかの成功を見たという段階でしょう。ここはまだかつぃかつ科学の範疇ですが、かなり哲学に近い状況でもあります。 >その意味で論理的に徹底すれば、あらゆるカテゴリに普遍する哲学になると思うのですがいかがでしょう? 質問者様はかつての「学問の王」とされた哲学の復権を狙っておられるのでしょうか。確かに、現在の科学が及ばない辺境で宗教と哲学がしのぎを削っている段階において、哲学が勝利すべきだという主観的感情的な気分は私などにもありますが、いまさら科学をさしおいて哲学が力をとりもどすことはありえないでしょう。あくまで哲学は哲学が守るべき範囲でその力を発揮して人間に寄与していくというのが本来だと思います。 >仏教用語でいうと、有と無のカテゴリと空のカテゴリは別で、ならべて議論、推考すると迷宮に入りますが、 もちろんそういうことでしょう。仏教で言う「空」とは観念的な自由に近いものだと私は理解していますが、哲学を論理的に突き詰めるとは「空」を目指すということになるのでしょう。 >哲学論も、そういう面がありそうです。哲学を科学とか、宗教とかと並べて語れないのです。なぜなら、科学や宗教を総合しようとするものと思うからです。 科学を宗教化することはナンセンスですが、科学も宗教も哲学によって支えられている面があります。どちらが上か、価値が大きいかというようなことはいえませんが、守備範囲が異なっているということで並立できると思います。 ご参考になれば。
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>宇宙、生命現象などの未解明なことに疑問をもったり、問題点が気になったり、解らない点を発見したりすること、営みは「科学」の範疇なのでしょうか? 科学になるかどうかは、それ以後の貴方の行動によります。 疑問を持ったり、問題点が気になったり、解らない点を発見したりしたあと、貴方がその満ち足りない気分の持つエネルギーをどんな方向に開放するかということで、哲学になったり、神学になったり、芸術になったり、宗教になったりするのでしょう。もちろん科学的探究心に結びつけば、科学になると思います。 >探求心とか向上心とかはカテゴリーを超えてのボーダレスの心と思い---。 そのとおりです。それ以上でも以下でもないと思います。
補足
ご回答ありがとうございます。一人の人間がやることは主観的で普遍性に欠けるきらいがあります。そこで、客観的な科学の登場となるんでしょうが、科学にしても「人間のやること」であり、主観の集団がまとまったからといって論理的客観にはならないと思います。小学生のときに、算数の答え合わせを多数決でやったのを批判して、先生にそれが算数としては正しい態度だ、と言われたことがありました。 限りなく主観的でもあり客観的でもある、論理的営みを哲学と定義してはどうでしょうか?その営みは脳ばかりでなく身体全体の知覚感覚を総動員しての営みです。それでこそ「真の論理的」になると思います。その意味で論理的に徹底すれば、あらゆるカテゴリに普遍する哲学になると思うのですがいかがでしょう?仏教用語でいうと、有と無のカテゴリと空のカテゴリは別で、ならべて議論、推考すると迷宮に入りますが、哲学論も、そういう面がありそうです。哲学を科学とか、宗教とかと並べて語れないのです。なぜなら、科学や宗教を総合しようとするものと思うからです。コメント宜しくお願い致します。
- 雪中庵(@psytex)
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「科学」という場合は、現象表面的・情緒的な情報処理だけでなく、 当該事象を分析的に捉える(あるいは原理的要素の展開として把握= 調査や実験といった「分析」のための手法も加わり)を志向するものです。
補足
ご回答ありがとうございます。ところで、客観性、主観性は関係ないのでしょうか? 最近では、量子論により、実験に「当事者の主観が影響する」といわれていて、従来の科学的実験の客観性が失われています。宜しくお願い致します。
どの様なことでも、論理的にあるいは「因果律」で説明しようとする営みは総て「科学」です。 自然科学、社会科学、人文科学などがこれに属します。 これに対して「不可解なこと」「因果律では説明出来ないこと」を重要視する立場もあって然るべきです。しかし因果律で説明出来ることをわざわざ別の説明を使用と努力することは、技術的には果実が少ないです。 一方シュールレアリスムスのようにわざわざ因果律から外れることで人間の「惰性」に流れる精神を刺激する試みも大いに奨励されるべきでしょう。^o^ 他方、宇宙人からUFOの技術を学んでいるのであれば「慣性質量」の制限からもうとっく開放されていても良いと思う人は私だけではないでしょう。^^;
補足
ご回答ありがとうございます。で、論理的、因果律がいまひとつ共通の理解がほしいので、解説いただけますか?みみずは両性具有です。ある魚でも押すメスが必要に応じて入れ替わったりしますが、因果律に反しないのでしょうか?宜しくお願い致します。
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>宇宙、生命現象などの未解明なことに疑問をもったり、問題点が気になったり 宇宙(宇宙人・月の裏側の建物、UFO等)とか、生命現象(クローン)等については、未解明というよりも、政治的・軍事的あるいは宗教的な視点から、私たち一般人には、隠されている部分が多いと考えたほうがいいと思います。 とはいいながらも、全てを完全に隠すことはできないので、UFOの出現によって、中国の空港が1時間ほど使えなくなる事件があったり、アメリカの退役した軍人が書物で暴露したりされてるので、注意して世の中を見ていれば、その存在をうかがうことはできると思います。まあ、日本では、この手のネタは、トンデモとして無視されることが多いですが、海外では、まじめに研究され、宇宙からの知識を活用することでかなりの成果を得ているようですし、間接的に私たち日本人も恩恵を得ているといえるでしょう。 そして、こういう分野は、もちろん質問者さんが思われたように「科学」でいいと思いますけどね。文学や芸術、哲学という文系ではないでしょうし、また化学では、とても狭いものになりそうです。 まあ、事実を事実として、先入観なく冷静に研究すれば、真実が見えてくると思えます。
補足
ご回答ありがとうございます。ところで、疑問なのは、腸の中を科学的に調べられるか?ということです。真っ暗の状態に光や、特殊な音波や電磁波などを与えての「反射」による調査では、ありのままの腸の状態の科学的調査になりません。どのようにしたら、ありのままを科学的に調査できるのでしょうか? 哲学なら、「論理的想像」がゆるされ、確率的に答えが選択できます。この手法は科学的とはいえないのでしょうか?量子論も確率論ですね?量子論、ー力学は科学の範疇ではないのでしょうか? 宜しくお願い致します。
- huankaisyo
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ん~私は総合的なのが「科学」だと思いますけど? 未解明な事や疑問・問題点の視点は人それぞれの考え方や感性から見るものなので、同じ問題点であっても、ある人はそれを文学の面から解明・考えようとするでしょうし、またある人はそれを化学的に考えたり証明しようとするんだと思います。 わかりやすい例えで言うと、そうですね~『雲』! 文学的だと、雲を見て「〇〇の形に見える」というような考え・見方になりますよね。 これが物理的(?)・化学的だと、「気中にかたまって浮かぶ水滴または氷の粒(氷晶)のこと」という認識や、大気中の化学物質と雲についての考え方とかH2Oという化学式になったりするんだと思うんです。 同じ音・音楽だって、キレイな音だと感じる人もいれば、騒音と感じる人もいるし、楽しくなると思う人もいれば、嫌な事を思い出させる音だと思う人もいるし、絶対音感の人はそれがドレミで聞こえていたり(極端ですが)するんです。 なので最初に書いたように、私は「科学」の範疇でいいのではないかと思います(^^) こんな考え方じゃ答えにならないかもしれませんが・・・
補足
ご回答ありがとうございます。総合的ならば「哲学」のほうがより総合的科学的ということになってしまいませんか?哲学=ヒロソフィ、知を愛する、知を楽しむという原点の意味からすると、知性偏重で感性の部分が欠けてしまいそうですが、感性も「知覚現象」と捕らえれば範囲が総合的になります。勝手な解釈ですがいかがでしょう。一般的には哲学は頭だけの「THINK」と考えられていますが、体全身で知覚することの方が真に論理的、知性的だと思うので、客観性的な証明のできない分野は科学は哲学が出せないようなので、総合的探求の道は科学ではなく「哲学的手法」という琴似なるのですが、常識定義の範疇で論議して埒が開きませんね。宜しくお願い致します。
- mnkii9
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個々の問題について調べたり考えたりするのを あとまわしにしてカテゴリにこだわるのはおかしい。 この場合は 個々に考えることによってカテゴリがわかるのてです。
補足
ご回答ありがとうございます。つまり、調べる対象によって、カテゴリが決まるのですね。対応の仕方というものがはじめにあるように思うのは間違いなのでしょうか? たとえば、人間を総合的に研究するカテゴリは何になるのでしょうか?地球とか宇宙とか良くわからないことの研究は科学にならなくなりますかね。今一度宜しくお願い致します。
補足
ご回答ありがとうございます。 哲学の復権を狙っている・・・そうかも知れません。少なくとも、哲学らしさのみなおしを、意識して協調しているとはいえますね。科学的と論理的を言葉上使い分けます。具体的に実験したりして証明したりする行動的科学のお役目は、実用化、応用という点で人間生活に不可欠と思っています。軽んじているわけではありませんが、性格、体質的に本能的な個人の好き嫌いが、論理偏重の表現に影響するのでしょう。で、あえて論理的にいえば、哲学(ヒロソフィ)は、言葉、論理で原理原則、筋を考えて提示する。科学は、その中で実用になるものを対象とする。哲学は、実用化の束縛にかからず、妄想拡大が出来る。科学のテリトリーと比べたら、一次元多いのが哲学と考えます。単なる哲学と、科学などあらゆるカタゴリを包含する哲学とを、意識してわけて居ます。ヨガ哲学に興味をもっていますが、その理由は、「知覚 知識 感覚 記憶・・・」などは「脳臓」だけのものではなく、全身全霊のもので、さらに外界、環境、宇宙との情報交流の現象と考えられるからです。今後、科学がそれを証明するでしょう。科学と哲学の私なりの理解の仕方の違いの説明になりましたら幸いです。蛇足ながら、ひも理論の私なりのイメージを述べさせていただきます。「量子がひものように連なるなら、線でも面でも体、膜でも、自由に形成出来る」筋っぽいひもの様に展開できる量子であればこそ、宇宙の極小と極大がイコールで結ばれ、無限にリサイクルして存在できる必然の論理=理屈となります。科学の限界は、使用する言葉の定義に常識の限界をかせる処にあるでしょう。それでいいのです。それだから科学が実用的科学になるのですから。 哲学のカテゴリをより哲学らしくしたいと思い勝手なことを述べさせていただきました。宜しくお願い致します。蛇足2:固定的に縛られる定理、公理に捉われる数学は、「教祖、固定的教義、伽藍、少ない神秘体験に捉われる類の宗教」のカテゴリに入れたいと思います。真の宗教とは、「道を求め続ける教えと生活実践」と定義します。哲学を語るとき、使用する言葉の定義を無視してはどうにもなりません。いや、どうにかはなります。哲学論議にはなりませんが、誤解の空回りにはなりますね。 宜しくお願い致します。