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神とは何か?
- 神とは何かを考えても分からない領域のことであり、経験領域でない超経験の領域である。
- 人間の知性を超えていて、判定しがたい存在である。
- 人間は神ではなく、経験存在であり、神を信じるかどうかは個人の自由である。
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その問題を探るためには、ある具体的な命題を分析することが大切です。 そこで、 蛙に顔に小便 という命題を分析して見ましょう。 考えても 分かるか・分からないかが 分からない者=X に対して、《考えれば分る(= Y)》例として、 蛙の顔=Y とします。それに小便をかける実態の総体として 小便をかける実態の総体=Z を考えます。そして、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、 質問者=Zi があるとの仮説を立ててみる。 この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。すなをわち、 考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 あるいは Y=X と言うことになる。これはYに取って矛盾に見える。ところが小便をかける実態の総体の集合Zに属する要素Ziには取っては矛盾でない。何故なら、ZiはXに属すると仮定したからである。その結果、そして さらに むしろ Xの実態の認識はYでは分らないので、その実態に関しては「信じる」と言う行為しか可能でない。そこで当然 さらに つまり Xは信仰の対称、すなわち さらに 結局 「神」である。 このことから、集合XにZiが属していると言う仮説は、「信仰」と言う形態に昇華することによって、《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》との揚棄がなされたことになる。 このことから、つまり したがって Zi = 神 と言う結論が導かれる。 さらに その上 むしろ その検算として、始めの命題の戻ってみると、 Zi = 蛙に顔に小便 という結論が自然に導かれ、それによって《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者》はZiであると言う経験則とも矛盾していないので、この結論が正しかったと判る。 したがって つまり とうぜん 神とは何か? に対する決定保存版としては 神とは質問者のことである、 となります。どうでしょう。 わたくしも質問者さんの常々の態度、すなわち物事の認識のためには、言葉と言葉の細かい繋がりを分析することが全体を一望に眺めて把握するよりも遥かに決定に重要であると言う態度は、つまり したがって むしろ そのよう考えていらっしゃる方がこの世にいらっしゃるのかと、大変新鮮な驚きと共に感心しておりますので、私の論理の流れの細かい矛盾点を一々指摘して頂けると、私の成長の参考になると思えます。是非、細かいところをご指摘下さいませ。
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- rin00077
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いわゆる神という絶対者たるものが、存在するかどうかはわからない。 ただ、神とは人が信じるものや敬愛するもの、あるいは恐れるもので あるならば、それは人によって神というものが、違ってくるのでは ないでしょうか。 要するに、人は結局何かの信者ではないか、と僕は考えてるのです。 例えば「○○という名の神の信者」とでもいおうか。 その○○に入るものはお金でも、夢でもいい。 自分にとって絶対的なものであればなんでもいい。 ちなみに僕は、モー娘の高橋愛ちゃんという名の神の信者なのです。 ついさっきまで、ずーとモーニング娘のライブを聞いていたため、 疲れ果てたのでもう寝ます。 (注・決してふざけて回答しているわけではありません)おやすみなさい~
お礼
りんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ モー娘の高橋愛ちゃん ☆ って あの言葉になまりのあるひとでしたっけ? あぁそうなのですか。でも ★ モー娘の高橋愛ちゃんという名の神の信者なのです。 ☆ と言われても それは 憧れであるとか好きだとかいった気持ちのことでしょ? かのじょのためなら何でもやってやるという場合にも それは《考える》とその実行の問題ではないですか? いくらその気持ちに純粋さがあるとしても 気持ちは大きくは《考える》の問題です。 それと同じように ★ 例えば「○○という名の神の信者」とでもいおうか。 / その○○に入るものはお金でも、夢でもいい。 ☆ というときの○○は すべて《考える》の問題であるのではないですか? 信念にまで高まっている気持ちと知性の能力とが伴なわれているとしても 経験的で相対的でけっきょくは移ろい行く――それゆえ 掛け替えのない存在であったりして とうといものだということにもなりますが それでも諸行無常なるところの――ものごとなのではないですか? ★ 自分にとって絶対的なものであればなんでもいい。 ☆ つまりあくまで相対的なものだと分かっているが それを主観において・わが心の中においては 神のごとき絶対的なものと見なしている。こういうことでしょう? その《見なし》は げんみつに言うと間違いだと分かってもいるはずです。 《愛》は――神は愛なりと言いますから――永遠で絶対であるかも知れませんが 《愛ちゃん》は かなしいかな 永遠の存在ではありません。 ですから ★ ただ、神とは人が信じるものや敬愛するもの、あるいは恐れるもので / あるならば、それは人によって神というものが、違ってくるのでは / ないでしょうか。 ☆ については そのとおりですという一面と そしてもう一面では それがその通りであるのは あくまで人間が考え想像し思いを寄せ心に念じてもいるところの経験的・相対的なものごとにおさまっているということだと考えます。 ただし 次の一文には注意を持ちます。 ★ いわゆる神という絶対者たるものが、存在するかどうかはわからない。 ☆ 存在するかも分からないという補いをつけ添えて これだけなら 非思考の絶対のことを言っているとも考えます。 言いかえると これまで上にさんざんわたしが悪口を言って来た相対的・経験的なものごとは ひょっとしてこの《絶対なる神》のいわば分身としての代理物であったのかなぁと思うところです。 つまり 《信じる》のはあくまで絶対・非経験としてのナゾでありその神であるが 具体的にこれを 《考える》の次元にある存在で仮りに代理して表わしたい そういう魂胆があるのかも知れません。 微妙なところですが 《信じる》をあくまで非思考の場に取って置いて そのあと 仮りの自己表現の中にわがマドンナなり尊敬する人物なり夢なり金なりを 自分の主観のもんだいとしては 持って来るのだという魂胆のことですね。 微妙ですが 方向性として分かるような気もします。つまりこれは 中途半端な言い方です。 では きょうはおやすみなさい。
「神」とは数多くある信仰の対象である。古代ギリシャ時代から信仰の対象とされ、ゼウスを中心とする様々な神が人間によって創造された。所謂オリンポスの神々である。日本においても紀元前から天照大神を中心とする諸々の神々に対する信仰があり、事実、邪馬台国女王・卑弥呼による呪術統治も行われた。神とは全世界における唯一共通の信仰対象であり、揺ぎ無い象徴でもある。 これで良いんじゃないですか?こんな小難しい哲学の文言を完成させるよりは。却って解りずらいですよ。私が頭が悪いからか知りませんが、読んでもさっぱり理解できませんもん。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「神」とは数多くある信仰の対象である。 ☆ そうですねぇ。では ひとつひとつを仕分けしてまいります。 ★ 古代ギリシャ時代から信仰の対象とされ、ゼウスを中心とする様々な神が人間によって創造された。所謂オリンポスの神々である。 ☆ 《人間によって創造された》――これにより この神々は全部だめですね。いま問い求めている《神》ではありません。 ★ 信仰の対象である ☆ と述べておられますが それは《信仰》ではないでしょう。想像の産物であり 観念としての神の像であり せいぜいは 信念となるといったところでしょう。つまりは ぜんぶ《考える》の問題のなかに入ってしまいます。 ですからそれは 《信じる》ではなく 《考えたところの神々を つよく心に思ったり念じたりする》ことだと思われます。 ★ 日本においても紀元前から天照大神を中心とする諸々の神々に対する信仰があり、事実、邪馬台国女王・卑弥呼による呪術統治も行われた。 ☆ 《呪術》とは 感性や知性をも何ごとに対しても寄り憑かせ そこから何らかの判断を得て来るという行為です。自分に対してそうするのが アニミズムであり これをほかの人に対して その人に代わっておこなうのが シャーマニズムです。《考える》を超える《信じる》は 見当たりません。 《天照大御神》は ただのお日さんのことです。さもなければ神話における何らかの人物とその思いや振る舞いを表わしている こう思います。――すべて人間が《考える》ことがらに含まれます。その観念を強く思うという意味で 信じるという言葉をまちがって使っているだけのようです。 ですから 《信じる》は 《考えて分かる》ことについては まったく用いないという捉え方をしています。どうでしょう? ★ 神とは全世界における唯一共通の信仰対象であり、揺ぎ無い象徴でもある。 ☆ 《象徴》であるかどうか 微妙のように思いますが 前半の命題は あぁそう言われればそういうふうに捉えることもできるかも知れないとは思いました。 ○ 《考える》は 信仰にとって いっさい関係ない。非思考である。 ★ これで良いんじゃないですか? 小難しい哲学の文言を完成させるよりは。 ☆ と思っておりますが どうでしょう? 分かりやすいでしょう?
- mdsumile
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「分かるか・分からないかが 分からないこと」 その、 ~がわからないか否かは個々論であり総論としては ケースバイケースであるというだけのことです。 「ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない」 これは明らかに間違いです。 明確に正しい答が得られることはたくさんあるのだから。 阪神巨人戦で負け投手が巨人の選手なら勝ったのは阪神という具合に。 あなたは靴と足の左右の組み合わせを永遠に迷いますか。 この時点で、あなたが何も考えていないことは明白です。 それは浮かんだ文章を無分別に合わせて かきまわしているだけです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~がわからないか否かは個々論であり総論としては / ケースバイケースであるというだけのことです。 ☆ いえ 総論ですよ。《~が分からない》と決まっていることがらです。普遍性を持つはずですが? ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 「ひょっとすると 世の中は Y の経験領域のことがらだけであるかも知れない」 これは明らかに間違いです。 明確に正しい答が得られることはたくさんあるのだから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《明確に正しい(?――つまり 妥当な)答えが得られる もしくは その見込みがある》という《 Y の経験領域のことがらだけ》から世の中は成り立っているのかも知れない。のではないですか? ただしあくまで《かも知れない》ということですが。 つまりは ○ 「分かるか・分からないかが 分からないこと」 ☆ がその《かも知れない》の隙間に 普遍的に 入り込んでくるかも知れません。想定としては そのように言いきることができると思うのですが どうでしょう?
- oo14
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かみとはペーパー日本語であるいは日本では紙 すなわち自分で書いたものが紙⇒神です。 救われなければ、ただの神。 信じなければ、ただの紙。 自分が神でなければ、だれがなるのか。 矛盾です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 救われなければ、ただの神。 ☆ これは 救われれば どんな神だという意味なのでしょうか? あるいは ★ 自分が神でなければ、だれがなるのか。 ☆ つまり《自分が神である》なら 救われる必要などあるのですか? ★ 矛盾です。 ☆ と考えますが いかがでしょう?
お礼
ご回答をありがとうございます。 重箱の隅をつっつくことを避けずに 筋を追って行きます。 ★ ~~~~~~~~~~ (α) 蛙の顔に小便 という命題を分析して見ましょう。・・・ (β) 蛙の顔=Y とします。それに小便をかける実態の総体として (γ) 小便をかける実態の総体=Z ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最後の事項は げんみつには次のようでしょうね。 (γ‐1) 小便をかける実態の総体= Y あるいは Y - Z ☆ 《あるいは》を挟んで 認識の以前と以後というふうに捉えてもらうといいと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 《考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 (= X)》の集合の中に属する者として、 (δ) 質問者=Zi 〔* または (δ‐1) 質問者= Zbrag. 〕 があるとの仮説を立ててみる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ むろん X に 人間= Zi ないし質問者= Zbr. は基本的に含まれませんが X の外延として(そのような広義においては)含まれると仮定し得るとわたしも見ます。 ★ この命題は一面から見ると(YーZi)で構成されている。 ☆ そのとおり。 ★ 他方の面から見ると(X-Zi)という命題も成り立つ。 ☆ なぜ? (α) 蛙の顔に小便 = Y ‐ Zi ☆ この命題に対して――ここは微妙ですよ―― 人間= Zi ないし質問者= Zbr. が 絶対= X に広義には含まれるという仮定的な認識より ( Y-Zi )の《 Zi 》に《 X-Zi 》を代入することができるという推論ですよね? まづはそう仮定してみましょうか。 ★ 従って、(YーZi)と言う命題と(X-Zi)という命題が両立することになり、その結果Y=Xという命題が成り立つことになる。 ☆ とは成りませんね。この仮定を全部採り入れたとしても (α extension/ denotation)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi ☆ となるのみだと考えますが どうでしょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち、 考えれば分る者=考えても 分かるか・分からないかが 分からない者 あるいは Y=X と言うことになる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから これら X と Y とはもともと互いに隔たりがあるわけです。《微妙だ》と言ったそのわけは こうです。 (α ext./ denot.)蛙の顔に小便= Y-( X-Zi )=X-Y-Zi ☆ において Y = X だという帰結を得るのではないかという推論には 《人間 Zi が絶対 X によって覆い包まれる》という概念の拡張をしたのと同じように 《経験世界 Y は非経験の領域 X によって介入を受ける》という概念の拡張が得られるという仮定があずかっています。 ここで途中の過程をはぶきますが 次にたどりつくというご見解です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ このことから、つまり したがって (ε) Zi = 神 と言う結論が導かれる。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これについては 事情は複雑ではありません。 《(δ―1) 質問者= Zbr.》についてはそこからの仮定として実質的に次の内容を持っていたからです。むしろ《人間= Zi 》として (δ‐2) X のもとにありそれに包まれる 人間= Zi という存在 ☆ です。これを ぎゃくに人間の側から捉えるなら おおよそ (δ‐3) 人間= Zi は X =神によって包まれつつ その X =神 の一部分をあたかも所有する。 ☆ という命題となって表わされるからです。したがって (ε‐1) 人間 Zi =〔部分的に見て〕 X すなわち 神 ☆ を得ます。このいわゆる《分有》という概念においておっしゃるように (ζ‐1) 神とは〔次の存在の部分を取り上げることにおいて〕 質問者のことである、 ☆ と帰結されますし 同時にひとしく (ζ‐2) 神とは〔次の存在の部分においては〕回答者のことである。 ☆ という仮説的命題を得ることになります。 さあ どうでしょうかね。 * ( ε )や( ζ )の《部分的所有・分有》というのは けっきょく接点を持つというくらいに取ってください。分割するという捉え方では ややこしくなると思います。