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Everything is good for something
- 日本語を勉強中の中国人です。文章力をつけたいので、作文の練習をしています。
- 先月の出来事で、地下鉄に乗っている最中にうっかり乗り過ごしてしまいました。
- 友人から教えてもらった「Everything is good for something」という言葉を思い出し、ポジティブな考え方で反対側のホームに向かいました。
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「Everything is good for something」 1. > 先月の出来事だった。 → 先月の【ある日の】【こと】だった。 : あくまで個人的な感覚なのですが、 「〇〇の出来事だった」は、作文の冒頭には不適な表現で、どちらかというと作文の末尾に使うほうが適しているように思われます。 冒頭の場合は、 「〇〇のことだった」とするほうが自然になる場合が多いでしょう。 因みに、 「〇〇のことだった」は作文の末尾にも使えます。 「先月のことだった」としても悪くはありませんが、「先月のある日のことだった」とするほうが、これから展開される話の焦点が絞れて、メリハリの利いた表現になります。 2. >退勤後、いつもの地下鉄に乗って家に向かっていた。 →添削無し。 3. >その日ぼうっとしていて、気が付くと、すでに知らない駅に至ってしまった。 →その日【は】ぼうっとしていて、【ふと】気が付くと、【】知らない駅に【着いていた】。 : a. 原文の場合、「その日」は「知らない駅に至ってしまった」に掛かっています。 しかし、この文の趣旨として、「その日」は「ぼうっとしていて」に掛かるほうが自然でしょう。 「その日は」とすることで、これが可能になります。 b. 原文のままでも特に問題はありませんが、「ふと」を加えると、「ぼうっとしていて→ふと」という[感覚の流れ]を際立たせることができるため、さらに自然になります。 c. 原文の「すでに」は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/103399/m1u/%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB/の (2)早くもそういう状態になっているということを表す。 「?春である」 という用法です。 これは「そういう状態」に着目する場合に有効な用法ですが、この文のシチュエーションにはそぐいません。 「そういう状態=知らない駅(に至ってしまったこと)」に着目したいわけではないからです。 このシチュエーションで着目したいのは、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」です。 その、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません。 「すでに」を生かすのであれば、 「すでに目的駅を通り過ぎてしまっていた」などとする必要があり、 上記URLの (1)ある動作が早くも終わっているということを表す。以前に。もう。 「会は?終わった」 の用法を適用するのが自然です。 このように、「すでに」を使うと「知らない駅」に着目することはできなくなりますが、 作文全体のシチュエーションとしては、「知らない駅」に着目する必要がありますから、「すでに」は使わないほうが自然になります。 d. 「至る」でも悪くはありませんが、「着く」のほうが自然でしょう。 また、「気がつくと」を受けている箇所なので、「着いてしまっていた」ではなく「着いていた」と表現します。 4. >慌てて出て、確認したら、一駅乗り過ごしてしまった。 →慌てて【降りて】確認したら、一駅【乗り過ごしてしまっている】。 : a. 「出て」でも間違いではありませんが、[ AWATETEDETE ]という語感がどちらかといえば好ましくないので、「降りて」とするほうが良いでしょう。 b. 原文は、 「確認した」という行為の結果として、「乗り過ごしてしまった」ことになってしまいます。しかし、確認しなくても、「乗り過ごしてしまった」という状況は変わりません。 「確認した」という行為の結果として、「乗り過ごしてしまっている(状態が継続していることが判明した)」 と表現する必要があります。、 過去のことなので、「乗り過ごしてしまっていた」でも良いのですが、この箇所では、読者はすでに過去の時点に立脚して文を読んでいます。 「淡雪さんと一緒に慌てて地下鉄を降りた気持ち」に、読者は【現在なっていますから】、 「乗り過ごしてしまっている」と現在形を使うほうが臨場感が演出でき、むしろ自然になります。 過去形でも間違いではありませんが、このようにすると、 「た」で終わる文が続いていた(不自然な)語感を整えることもでき、一挙両得です。 5. > しかし、その駅の名前の大きな漢字に改めて目で追うと、とても印象的だった。楓橋駅という名だ。 → しかし、その駅の名前の大きな漢字を改めて目で【追ううち】、【ある感慨が湧いてきた】。楓橋駅という名だ。 : a. 「目で追っている途中で」という意味で、「目で追ううち」とするほうがよいでしょう。 b. 「印象的」は、初めて体験するものに対する表現として使うのが妥当です。 <つづく>
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- hakobulu
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#9からの続きです。 結論は次の2点です。 (ア)(aでも述べたように) 「ふと気が付くと」は、「その時点の完了状態」に掛かる場合が多いので、その結果を端的に表現するのが自然である。 「~してしまった」など、端的でない要素と組み合わせると不自然になる場合が多い。 (ex) 〇ふと気が付くと、銃を相手に向けていた。 ×ふと気が付くと、銃を相手に向けてしまっていた。また、 「確認したら~」は、端的な結果表現、端的でない結果表現、どちらにも掛かる。 (ex) 〇確認したら、倉庫の中のりんごがほとんど腐っていた。 〇確認したら、倉庫の中のりんごがほとんど腐ってしまっていた。 (イ)(こちらが新見解ですが) 「~してしまった(しまう)」は、間違いや失敗を悔やむ用法なので、間違いでも失敗でもない場合に使うと不自然になる。 「〇〇してしまっていた」は「〇〇してはいけないのに〇〇してしまった」という意味。 (ex) ×ふと気が付くと、銃を磨いてしまった。 ×あまり涼しいので、確認したら、彼は、冷房を付けてしまっていた。 「~してしまった(しまう)」は、間違いや失敗を悔やむ用法ですが、 「知らない駅に着くこと自体」は間違いでも失敗でもないので、 「知らない駅に着いてしまっていた」という表現は不自然になります。 「目的地とは違う駅に着いてしまっていた」とすると、 「目的地と違う駅につくこと」は失敗なので自然になります。 しかし、 「ふと気が付くと、目的地とは違う駅に着いてしまっていた」 とすると、(ア)の理由によって好ましいとは言えない表現になってしまいます。 「ふと気が付くと、目的地とは違う駅に着いていた」 と、端的に表現するほうがよいでしょう。 『その日はぼうっとしていて、ふと気が付くと、知らない駅に着いてしまっていた』は、(ア)と(イ)の両方の意味で不自然な表現と言えるように思われます。 以上の理由で、 『その日は、ぼうっとしていて、ふと気が付くと、知らない駅に着いていた』 とするのが良いと思います。 今、気付いたのですが「見知らぬ駅」とするほうが適切かもしれません。 >、《このように、「すでに」を使うと~》内の説明はまだ理解できません。その中のものを無視するようにとおっしゃったので、これ以上追求するのをやめます。 : ご希望とあれば、追求にお答えいたします。^^ きちんとご説明しなくて申しわけありません。 私の表現が下手だったので、それをまた説明すると、さらに煩雑になるように思い、そのように(無視するように)申し上げたのですが、やはり、きちんと説明しておくべきですね。 《このように、「すでに」を使うと「知らない駅」に着目することはできなくなりますが、 作文全体のシチュエーションとしては、「知らない駅」に着目する必要がありますから、「すでに」は使わないほうが自然になります。》 (1) まず、「すでに」と「(知らない駅に)着いていた」という組み合わせはできない、というのが私の見解です。 「地下鉄で帰るつもりでいたが、その日はぼうっとしていて、ふと気がつくと、地下鉄の駅を通り過ぎ、【すでに】バスに乗っていた」 という文が不自然な理由をご理解いただいているものとして説明します。 もし、そうでなければ補足なさってください。 「すでに」という言葉を生かすのであれば、「すでに目的駅を通り過ぎてしまっていた」などのような文にする必要があります。 つまり、 『「すでに」という言葉を使うとすれば、「知らない駅」という言葉は使えない』 ということになります。 《このように、「すでに」を使うと「知らない駅」に着目することはできなくなりますが、》 という箇所は、このような意味です。 (2) しかし、この作文は、「楓橋駅(=知らない駅)」に関する思い出です。 「知らない駅」という言葉を外すのは好ましくありません。 『最初は「知らない駅」と思っていたが、看板を改めて見ているうちに、昔の(知っている)色々なことを思い出した』 というのが、この作文の骨子でしょう。 《作文全体のシチュエーションとしては、「知らない駅」に着目する必要がありますから、》 という箇所は、このような意味です。 (3) (1)の理由で、 「すでに」と「知らない駅」の共存はあり得ないわけですが、どちらか一方を生かすとすれば、 (2)の理由で、 「知らない駅」を生かして、 《「すでに」は使わないほうが自然になります》 と述べたわけです。 不明点は、重複しても構いませんから、遠慮なく補足なさってみてください。 可能な範囲で、納得いくまでお答えいたします。
お礼
度々ありがとうございます。とてもわかりやすいです。納得できました。何度もご親切に教えていただき本当にありがとうございました。
- hakobulu
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#7です。 1. >ここの「その」は、直前の、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」を指しています。 『目的駅を通り過ぎてしまったことの、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』 という意味になります。 やはり理解できません。なぜ『それは、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』と書かないのでしょうか。「その」と「それ」の違いはわかりますが、この文は「それ」でないと文法的に理解しにくいような気がします。「その」の後ろに名詞が来ますね。でも、名詞はどこにあるのでしょうか。 : 「あくまで」は、挿入された語とお考えいただくとわかりやすいかもしれません。 通常の構文では、『あくまで、その結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』のようになります。 今回の場合は、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」に関して述べる文であることを強調するために、まず文頭に、「それ=目的駅を通り過ぎてしまったこと」を持ってきました。 不定形構文ではありますが、よく使われる便利な表現です。 (ex) 「明日の朝、3時に集合です」 に対して、 「しかし、それは、あまりに早すぎませんか?」 が通常の構文でしょう。 「それは、しかし、あまりに早すぎませんか?」 とすると、 「3時に集合、というそのことは」⇒「それは、」⇒「しかし、あまりに早すぎませんか?」 というニュアンスを表現できるわけです。 『「3時に集合」という発言が非常に重要な課題なので、まず文頭に、そのことを明示します』 という感じでしょうか。 納得いかれない場合は、お手数ですが、さらに補足なさってみてください。 別の視点がないか、考えてみます。 2. >→慌てて【降りて】確認したら、一駅【乗り過ごしてしまっている】。 この文の後ろになぜ「しまう」が来ると自然なのでしょうか。端的に結果を述べなくてもよいでしょうか。 : a. 『慌てて降りて確認したら、一駅乗り過ごしてしまっている』の、 「乗り過ごしている」は、「継続中の状態」と捉えるのが自然(ベター)だからです。 『その日はぼうっとしていて、ふと気が付くと、知らない駅に着いていた』の、 「着いていた」は、「その時点の完了状態」でしょう。 継続中の状態には、間違いや失敗を悔やむ「~してしまう」という表現の入り込む余地がありますが、 その時点の完了状態に関しては、端的に結果を述べるほうが自然です。 因みに、 『慌てて降りて確認したら、一駅乗り過ごしていた』 と端的に結果を述べても、無論、可です。 この場合は、 『「乗り過ごした」という出来事が過去の時点で完了していることを確認した』 という意味になります。 b. #8でも述べましたが、「気が付くと」と「~してしまっている」を組み合わせることが絶対にできないとは言い切れません。しかし、これも#8で述べましたが、 『原文の場合は、「しまう」を使わないほうが良い』ことに違いはありません。 しかし、「原文の場合は」と言っておきながら、#8では、その理由については言及しませんでした。 その理由をずっと考えていたのですが、一応次のようにまとめてみました。 <つづく>
お礼
度々ありがとうございます。理解できました。とても参考になりました。本当にありがとうございました。
- hakobulu
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#7からの続きです。 >また、『その、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』という文の「その」は入力ミスでしょうか。 :いえ、そうではありません。^^ ここの「その」は、直前の、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」を指しています。 『目的駅を通り過ぎてしまったことの、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』 という意味になります。 4. >「至る」でも悪くはありませんが、「着く」のほうが自然でしょう。 また、「気がつくと」を受けている箇所なので、「着いてしまっていた」ではなく「着いていた」と表現します。 a. まず、「気が付くと」と「気が付いたら」の違いは何でしょうか。申し訳ありませんが、以前教えていただいたことがあるような気がします。忘れてしまいました。 : 私も忘れてしまいました。^^; 改めて考えてみると、「たら」は「と」よりも因果関係を明白にしている表現のような気がします。 「気が付くと、知らない駅に着いていた」は、 「気がついたその時には知らない駅に着いていた」 と、淡々と述べているいうニュアンス。 「気が付いたら、知らない駅に着いていた」は、 「気が付いた結果として、知らない駅に着いていた、ということが判明した」 と因果関係を強調した表現。 因果関係を明白にしている分、「気が付いたこと」に焦点が当たり、「知らない駅に着いていた」ことの意外性が強調される表現になるでしょう。 しかし、使いどころを間違うと大げさな印象を与えると思います。 今回は、原文どおり、「気が付くと」で正解でしょう。 b. それから、なぜ後ろの文に「着いてしまっていた」のように「しまう」を入れるとだめなのでしょうか。 次の文もご覧になってください。 >→慌てて【降りて】確認したら、一駅【乗り過ごしてしまっている】。 この文の後ろに「乗り過ごしてしまっている」となっていますね。 : 「ふと」を加えてお考えになるとわかりやすいと思います。 「ふと気が付くと」は「不意に気が付くと」ですから、「一瞬の感覚」を述べている箇所です。 「(ふと)気が付くと〇〇」という構文で、〇〇は「端的に結果を述べる」ほうがすっきりします。 「~してしまった(しまう)」は、間違いや失敗を悔やむ用法です。 端的な表現とは言えません。 「気が付くと銃を手にしてしまっていた」 なども不自然です。 ただ、「気が付くと」と組み合わせることが絶対にできないわけではないかもしれません。 原文の場合は、「しまう」を使わないほうが良いでしょう。 5. >「出て」でも間違いではありませんが、[ AWATETEDETE ]という語感がどちらかといえば好ましくないので、「降りて」とするほうが良いでしょう。 なぜ「慌てて」と「降りて」と組み合わせる必要があるのか、まだよくわかりません。 : 端的に申し上げると、Eの連続が、語感として良くない、ということです。 不明点がございましたら、ご遠慮なくさらに補足なさってみてください。 素人の悲しさで、体系的な説明ができませんが、別の角度からのアプローチができるかもしれませんので。
お礼
度々ありがとうございます。だいぶわかるようになりました。まだよくわからないところがありますが、もう一度教えていただけないでしょうか。
補足
1. >ここの「その」は、直前の、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」を指しています。 『目的駅を通り過ぎてしまったことの、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』 という意味になります。 やはり理解できません。なぜ『それは、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』と書かないのでしょうか。「その」と「それ」の違いはわかりますが、この文は「それ」でないと文法的に理解しにくいような気がします。「その」の後ろに名詞が来ますね。でも、名詞はどこにあるのでしょうか。 2. >→慌てて【降りて】確認したら、一駅【乗り過ごしてしまっている】。 この文の後ろになぜ「しまう」が来ると自然なのでしょうか。端的に結果を述べなくてもよいでしょうか。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#4です。 1. >「先月のことだった」としても悪くはありませんが、「先月のある日のことだった」とするほうが、これから展開される話の焦点が絞れて、メリハリの利いた表現になります。 「メリハリの利いた表現」はどういう意味でしょうか。 : 漢字で書くと「減り張り」です ここでは、文の調子に【緩急の抑揚がある】、といったような意味です。 「先月のこと」だけでは範囲が広すぎて茫洋とした印象を与える、つまり「緩」の調子ですが、 「先月のある日のこと」と範囲をしぼることで「急」の印象に変えることができます。 2. >原文のままでも特に問題はありませんが、「ふと」を加えると、「ぼうっとしていて→ふと」という[感覚の流れ]を際立たせることができるため、さらに自然になります。 「ふと」を加える理由はまだよく理解できません。「感覚の流れ」はどういう意味でしょうか。 : ご存知でしょうが、「ふと」は、不意に、突然に、という意味です。 この箇所は、「ぼうっとしていた→気がついた」という【異なる感覚への移行】が表現されています。 「その日は、ぼうっとしていて、ふと気が付くと、~」とすると、 「その日は、ぼうっとしていて、気が付くと、~」よりも、 【感覚(心の作用)の急激な変化】を際立たせることができ、物語性を強調的に表現できる、ということです。 この急激な変化をさらに強調的に表現したい場合には、「はっと気がつくと~」などと言うこともできます。 むろん、強調したくない場合は、「ふと」や「はっと」を使いません。 3. >原文の「すでに」は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/103399/m1u/%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB/の (2)早くもそういう状態になっているということを表す。 「?春である」 という用法です。 これは「そういう状態」に着目する場合に有効な用法ですが、この文のシチュエーションにはそぐいません。 「そういう状態=知らない駅(に至ってしまったこと)」に着目したいわけではないからです。 このシチュエーションで着目したいのは、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」です。 その、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません。 「すでに」を生かすのであれば、 「すでに目的駅を通り過ぎてしまっていた」などとする必要があり、 上記URLの (1)ある動作が早くも終わっているということを表す。以前に。もう。 「会は?終わった」 の用法を適用するのが自然です。 《このように、「すでに」を使うと「知らない駅」に着目することはできなくなりますが、 作文全体のシチュエーションとしては、「知らない駅」に着目する必要がありますから、「すでに」は使わないほうが自然になります。》 上記のご説明はよく理解できないのではなく、ぜんぜん理解できません^^;。時々辞書の(2)の意味であったり、時々(1)の意味であったり、混乱中です。私の「すでに」はなぜ不自然なのでしょうか。もう一度説明していただけないでしょうか。また、『その、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』という文の「その」は入力ミスでしょうか。 : まず、上の《このように、「すでに」を使うと~》内の説明は、間違いではありませんが、煩雑で紛らわしいので無視してください。 他の例を挙げてみましょう。たとえば、 「地下鉄で帰るつもりでいたが、その日はぼうっとしていて、ふと気がつくと、地下鉄の駅を通り過ぎ、【すでに】バスに乗っていた」 という文も不自然です。 この「すでに」は、「早くもそういう状態になっているということを表す」用法(A)です。 「すでに〇〇」というのは『(文全体として)〇〇に着目した表現』ですから、 「すでにバスに~」という表現は、バスに着目していることになります。 しかし、この文の骨子は、「地下鉄で帰るつもりだったが帰れなかった=地下鉄の駅を通り過ぎてしまった」ということです。 「バスに乗っていた」という箇所は「タクシーに乗っていた」でも「自転車に乗っていた」でも良いわけです。 あくまで結果としてバスに乗っていた、わけです。 つまり、「文の骨子としては」バスに着目していません。 このように、 「文の骨子として着目していないもの(こと)」を対象に「すでに」を使うと不自然になります。 「すでに」という表現を使う場合には、 「ふと気がつくと、すでに地下鉄の駅を通り過ぎていた」のようにする必要があります。 しかし、この場合の「すでに」は、(A)とは異なり、 「ある動作が早くも終わっているということを表す。以前に。もう。」 という用法になります。 <つづく>
お礼
度々ありがとうございます。今回は理解できるようになりました。ただ、《このように、「すでに」を使うと~》内の説明はまだ理解できません。その中のものを無視するようにとおっしゃったので、これ以上追求するのをやめます。本当にありがとうございました。
- sono-higurashi
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添削の任ではありません。添削を受ける立場の人間です。 読み手に好みがあるのは当然として、この作品に手入れをしなければならないほどの大きな欠点があるとは思いません。仮に議論の余地がなく心掛けるべき点があるとすれば、私の感覚では下記の3点です。 一言で見違えるようにするのが名人だそうです。私は名人ではないので3点に触れます。「こうした方がよい」、というよりは「こうしたらどうか」、という相談に近い提案です。 [提案1] 働きのない言葉は挿入しない。 >>その日ぼうっとしていて、<< >>その日、この言葉を思いながら、<< 「その日」がなくても「その日の退勤時の出来事」だと判ります。何の働きもしない言葉は削除されたらどうでしょう。 [提案2] 擬態語、擬声語は用いない。 >>その日ぼうっとしていて、<< 擬態語・擬声語は使わない方がよいと考える日本人が相当数いる筈です。 「仕事の段取りを考えていて」、「夕飯の手順を考えていて」など、具体的な表現で置き換えたらどうでしょう。具体的には書きたくない場合もあるでしょうが、創作色の濃い文章では差し障りのない話を捻り出しても許されます。 余談ですが、話を曖昧にするために意識して「ぼうっとしていて」と言うことは日常よくあります。日本人が「ぼうっとしていて」と言ったら、それ以上は追求しないのが無難です。相手は、はっきり言いたくない可能性があります。 [提案3] 意味、文字の重なりは避ける。 .>> そこへ旅行に行った時のこと<< 「旅行に行った」には無駄があると考える日本人が相当数いる筈です。 「そこへ旅行した時のこと」、「そこへ行った時のこと」、「そこを訪ねた時のこと」などとすれば意味も「行」の字も重ならなくて済みます。 余談ですが、何時ぞやの「日本人の友人」と共通した問題です。達意の文章を目指す人は「日本人の友人」とは書きません。「日本人の友だち」とすれば「人」が重ならなくて済みます。「日本人の友人」と書いたとき、注意してくれるのは立派な人です。良い友人に恵まれていて羨ましいです。 以上、3点とも自己流の心掛けです。言うは易く行うは難しです。こんな提案でも「Everything is good for something」の仲間に入るでしょうか、少々心配です。 追伸、怠け者には「聞鶏起舞」の使い所がありません。一度でよいから使ってみたいものだと思っています。
お礼
ご親切に教えていただきありがとうございます。三つの提案は拝見しました。とても参考になりました。提案2について私の考え方を少し述べさせていただきました。本当にありがとうございました。
補足
>[提案2] 擬態語、擬声語は用いない。 日本語の擬態語と擬声語は外国人の私にとってとても生き生きしている、魅力的な表現です。中国語には日本語ほどそんなにたくさんの擬態語と擬声語がありません。習得は敬語よりも難しいと感じていますが、日本語のこういうところが好きです。「擬態語、擬声語は用いない」と聞いて、少し悲しいです。 >「仕事の段取りを考えていて」、「夕飯の手順を考えていて」など、具体的な表現で置き換えたらどうでしょう。具体的には書きたくない場合もあるでしょうが、創作色の濃い文章では差し障りのない話を捻り出しても許されます。 余談ですが、話を曖昧にするために意識して「ぼうっとしていて」と言うことは日常よくあります。日本人が「ぼうっとしていて」と言ったら、それ以上は追求しないのが無難です。相手は、はっきり言いたくない可能性があります。 ここは話を曖昧にしたいつもりでした。その時、何を考えていたのか、実は、具体的には書きたくありませんでした^^;。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#4からの続きです。 6. >張継の「楓橋夜泊」という漢詩を思い出し、大学時代に、そこへ旅行に行った時のことも頭をよぎった。 →張継の「楓橋夜泊」という漢詩を思い出し、大学時代に、そこへ旅行に行った時のことも頭を【よぎったのだ】。 : 前文の「印象的だった」あるいは「感慨が湧いてきた」の【理由を述べる】意味で、「(よぎった)のだ」を使うと自然になります。 「のだ」が無くても間違いではありませんが、前文、及び前々文の表現内容から、読者は明らかにその理由を聞きたがっていることは明らかです。 読者の期待に答えるほうが、ずっと自然な表現になります。 7. > 友人が以前「Everything is good for something」という言葉を教えてくれたことがある。 → 【以前、友人が】「Everything is good for something」という言葉を教えてくれたことがある。 : このシチュエーションでは、「以前、」は、「友人が」よりも重要な要素なので、先に持ってくるほうが自然です。 8. >「どんな物事でも何かの役には立つものだ」という意味だ。その日、この言葉を思いながら、反対側のホームに歩き出した。 →添削無し。 <要注意点> ・【すでに】知らない駅に至ってしまった。 ・慌てて出て、【確認したら、一駅乗り過ごしてしまった】 ・大きな漢字【に】改めて目で追うと 自然度:69% <まとめ> 「Everything is good for something」 先月のある日の事だった。退勤後、いつもの地下鉄に乗って家に向かっていた。その日はぼうっとしていて、ふと気が付くと、知らない駅に着いていた。慌てて降りて確認したら、一駅乗り過ごしてしまっている。 しかし、その駅の名前の大きな漢字を改めて目で追ううち、ある感慨が湧いてきた。楓橋駅という名だ。張継の「楓橋夜泊」という漢詩を思い出し、大学時代に、そこへ旅行に行った時のことも頭をよぎったのだ。 以前、友人が「Everything is good for something」という言葉を教えてくれたことがある。「どんな物事でも何かの役には立つものだ」という意味だ。その日、この言葉を思いながら、反対側のホームに歩き出した。
お礼
再びありがとうございます。よくわかりました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。
- cxe28284
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淡雪さんがんばりますね。 またまた私流です。では 先月のことだった。退勤語いつもの地下鉄に乗り帰路についた。 (退勤語と云う堅い言葉に合わせた。) その日はぼうっとしていて、気が付くと既に知らない駅に着いていた。 (至っては古語表現で現代文ではあまり使われない。) 慌てて降りて確認したら、ひと駅乗り過ごしてしまったようだ。 (確認したらその結果と云うニュアンス、ひと駅乗り過ごしていた。~しまったようだ。の方が落ち着く とおもう。) しかし、その駅の名前の大きな漢字に改めて目を遣ると、とても印象的な楓橋駅と云う名だった。 (~に目を遣る。は慣用表現 ~を目で追う。ならいいとおもう。) その日はこの言葉を思い出しながら、反対側のホームへと歩きだした。 (その日は乗り過ごしてしまったおかげで、思いがけず大学時代の旅行を思い出し、本当に友達の 教えてくれた言葉どうりだった。その日はのは~取りたての助詞その日を強調) 文章は好みもありますので、ご参考まで。
お礼
cxe28284さん、こんばんは。ご親切に教えていただきありがとうございます。添削意見も大変参考になりました。いろいろな新しい表現を習得しました。とても嬉しいです。本当にありがとうございました。
補足
>慌てて降りて確認したら、ひと駅乗り過ごしてしまったようだ。 (確認したらその結果と云うニュアンス、ひと駅乗り過ごしていた。~しまったようだ。の方が落ち着く とおもう。) なぜ「ようだ」をつけられるのでしょうか。「ひと駅乗り過ごしてしまった」は確かな事実だと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
淡雪さん、 先月の出来事だった。(“先月の事”でいいと存じます。自分にふりかかった事件ではないし。)退勤後、いつもの地下鉄に乗って家に向かっていた。その日ぼうっとしていて、気が付くと、すでに知らない駅に至ってしまった。慌てて出て、確認したら、一駅乗り過ごしてしまった。((2)句読点の読点が少し多くて、読むのにつっかえる。他のところも。要するにね、話すように読む。そのときの息や思い浮かべさせる状況の流れを休止したり繋ぎを切断させないように気をつける。(3)“出て”は“下りて”の方がいい。確かに電車の箱をでるのだけど。) 友人が以前「Everything is good for something」という言葉を教えてくれたことがある。「どんな物事でも何かの役には立つものだ」という意味だ。その日、この言葉を思いながら、反対側のホームに歩き出した。 上手な日本文です。このくらいに日本人も文章ができるといい。頭と気持ちがよく整理され、曇りやよどみがない人柄を見出せます。 句読点は難しい。しかしこれをどうつけるかは文章の魂魄ですね。中心。殆どのひとはできていません。何事も区切りとリズムは重要です。 漢字にするか、ひらがなのままにするかも同じような意味で重要です。 その文章として、統一が取れていることも大事です。あっちではこうだったが、ここでは違う。というのはとても読みにくい。 江戸時代の文章はそれはそれですらすらいけるし、それは明治のでもそうです。 昭和、平成となったらそれはこの時代の文章中に理由も脈絡もなく、明治の言い方に変わったら、読めない。 あぁ「Everything is good for something」は一般的には#1さんの書かれているとおりです。 私達は、何事も経験だ。とか、全ての経験は何かに役立つ。などといいます。 あなた様のご経験にあわせた、日本語の意味としては以上のとおりです。
お礼
krya1998さん、こんばんは。ご親切に添削していただきありがとうございます。添削意見もとても参考になりました。句読点と漢字仮名の取捨問題を考えてみます。本当にありがとうございました。
- yfmamerica
- ベストアンサー率28% (49/171)
日本語完璧です。すばらしいですね。 お考えの、その訳で、良いと思います。 「どんな物事でも何かの役には立つものだ」 乗り過ごしたけれど、それが何か、別の良いことをもたらした、役にたった。あるいは後で役にたつことになると思う。 経験は何もかも、人生の役にたつもの、無駄なものはないということでしょうか。 こちらが、勉強させられます。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。ご意見は大変参考になりました。日本語はまだまだです。これからも頑張ります。本当にありがとうございました。
お礼
いつもご親切に教えていただきありがとうございます。いろいろ大変参考になりました。まだすっきりしていないところがありますが、もう一度教えていただけないでしょうか。
補足
1. >「先月のことだった」としても悪くはありませんが、「先月のある日のことだった」とするほうが、これから展開される話の焦点が絞れて、メリハリの利いた表現になります。 「メリハリの利いた表現」はどういう意味でしょうか。 2. >原文のままでも特に問題はありませんが、「ふと」を加えると、「ぼうっとしていて→ふと」という[感覚の流れ]を際立たせることができるため、さらに自然になります。 「ふと」を加える理由はまだよく理解できません。「感覚の流れ」はどういう意味でしょうか。 3. >原文の「すでに」は、 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/103399/m1u/%E3%81%99%E3%81%A7%E3%81%AB/の (2)早くもそういう状態になっているということを表す。 「?春である」 という用法です。 これは「そういう状態」に着目する場合に有効な用法ですが、この文のシチュエーションにはそぐいません。 「そういう状態=知らない駅(に至ってしまったこと)」に着目したいわけではないからです。 このシチュエーションで着目したいのは、「目的駅を通り過ぎてしまったこと」です。 その、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません。 「すでに」を生かすのであれば、 「すでに目的駅を通り過ぎてしまっていた」などとする必要があり、 上記URLの (1)ある動作が早くも終わっているということを表す。以前に。もう。 「会は?終わった」 の用法を適用するのが自然です。 このように、「すでに」を使うと「知らない駅」に着目することはできなくなりますが、 作文全体のシチュエーションとしては、「知らない駅」に着目する必要がありますから、「すでに」は使わないほうが自然になります。 上記のご説明はよく理解できないのではなく、ぜんぜん理解できません^^;。時々辞書の(2)の意味であったり、時々(1)の意味であったり、混乱中です。私の「すでに」はなぜ不自然なのでしょうか。もう一度説明していただけないでしょうか。また、『その、あくまで結果として「知らない駅に至ってしまった」にすぎません』という文の「その」は入力ミスでしょうか。 4. >「至る」でも悪くはありませんが、「着く」のほうが自然でしょう。 また、「気がつくと」を受けている箇所なので、「着いてしまっていた」ではなく「着いていた」と表現します。 まず、「気が付くと」と「気が付いたら」の違いは何でしょうか。申し訳ありませんが、以前教えていただいたことがあるような気がします。忘れてしまいました。 それから、なぜ後ろの文に「着いてしまっていた」のように「しまう」を入れるとだめなのでしょうか。 次の文もご覧になってください。 >→慌てて【降りて】確認したら、一駅【乗り過ごしてしまっている】。 この文の後ろに「乗り過ごしてしまっている」となっていますね。 5. >「出て」でも間違いではありませんが、[ AWATETEDETE ]という語感がどちらかといえば好ましくないので、「降りて」とするほうが良いでしょう。 なぜ「慌てて」と「降りて」と組み合わせる必要があるのか、まだよくわかりません。