私は誠実に振舞えませんが、「この人は誠実だな」と思ったことがある。
お客が無理難題を言って暴れたとき、普通は「こちらのサービスが気に入らないのならもう来なくていい」と怒るはずですよね。
怒らなくても背中を向け、拒否を示す。
めちゃくちゃなことを平気で主張するので、頭がおかしいんじゃないかと相手にしなくなるのが普通。
私は真実を知っているのですが、その客はあまたがおかしいのではない。
自分がめちゃくちゃなことを言っているとちゃんと認識していた。
ではどうしてやめなかったのか?
甘え。
「やれよ やれってばー」と言って駄々をこねて母親の注目を引く子供いますよね。
暴れると母親は自分に注意を向けると知っているから。
自分でできることも「やれーーー」と言って構ってもらうことを望むわけです。
それは母親を困らせて不幸にするということより、どうにかして母親が自分の方を向いて注意を自分に一心に向けてくれるかが最も重要なこと。
そのために母親との関係が悪化していくなんて配慮するゆとりが無い。
「愛が欲しい 愛が欲しい みて 注目して」と渇望した結果、わがままを言って注目を集めようとするわけです。
これと同じことをその客はやっていた。
それに対して責任者は「そうですか。でもねそれはここでは提供しないんです」って冷静に対応した。
「特別扱いはできないんです。そういうことをすれば、他の人も望むでしょ? そうなるとうちは商売上がったりになり、結局存在できなくなってしまうんです」と誠意を持って話した。
本当の要求は言葉にある「やれ・提供しろ」ではなく、自分に注目をして欲しいってことですよね。
だから、暴れる相手と向き合い、ずっと1時間以上 話をし続けた。
帰り際、「あの人はすごい」と暴れていた客は言っていた。
暴れた客は責任者の誠実さを目の当たりにして、安心をしたわけです。
学校で生徒のわがままや非行に対し、友達のように「駄目じゃないか~」と言ったり、非行をやっているのに指摘しないと、生徒はその先生と親しくなる。
自分に危害を加えない先生ということで、安心感を持つ。
実に都合のよい先生になるわけです。
しかし、生徒が理想の先生とするもは違う。
間違ったことをしたら縮みあがるほどしかりつける先生。
この先生を生徒は一番の信頼を置く。
自分がやっていることが善くないということは十分承知している。
それを叱らない先生を生徒は信頼することは無い。
誠実な先生は、正しくないことは正しくないと胸を張って言う。
生徒はそこに安心感を持つわけです。
ということで、誠実と安心感はつながっているわけです。
お礼
ご丁寧にありがとうございます。 確かに人のために最善を尽くせる人は誠実かもしれませんが、もしその人が人に信頼されたいとか、尊敬されたい等、誰にも分からない様なスケベ心を持っているとしても、それは誠実と言えるでしょうか。