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戦争時代?日本が貧しい時代の教師って
戦争時代?日本が貧しい時代の教師って 進学とかしなくても簡単になれたんでしょうか?ドラマで簡単に教師になってるので 疑問に思いました上手く説明できなくて スミマセン
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初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関が師範学校(高等師範学校・口頭女子師範学校)で、1872年(明治5年)に公布され、1886年に、師範学校令が制定され師範学校は高等師範学校と尋常師範学校に分けられました。 正教員は、師範学校卒業証書がその資格とされましたが、明治七年学業試験により小学校訓導の証書を授与する教員資格検定制度を開始しました。 これは「無試験」と「有試験(単に試験と言われていたようです)」があり、 無試験検定の対象者は、中学・高等女学校の卒業者で、小学校本科准教員・尋常小学校准教員以上の免許状の場合は教職経験が必要でした。 それと、知事がとくに適任と認める者(教職経験年数と官公私設講習会の一定以上の受講時間を修了した者)でした。 有試験の対象者はそれ以外で(当然ですが)、学科試験と実地検定(実地授業・身体検診)を受ける必要がありました。 代用教員は無資格者で、准教員の代用で、元は授業生・雇教員などと呼ばれていたのですが、明治33年の第三次小学校令において、「代用教員」と呼称統一されました。 准教員と同じく、本科正教員の指導を受けなくてはならなかったそうです。 代用教員になるのは比較的簡単だったそうですが、小間使いのごとく扱われていて、 代用教員が受け持つ児童にまで侮蔑が及んだこともあったそうです。 大正期では月給5円位だったそうです。 代用教員は正式な教師ではないので例外として、正教員や準教員はそれなりのステイタスのある職業でした。
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- publicpen
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ちなみに今日の新聞にあったが、ノーベル賞受賞者の益川敏英(1940年生まれ)さんは 父親は元家具職人の砂糖問屋で当然学歴はなく(しかし独学で大学の通信教育を受けるなど、 教養はあったようだ)、ふつうに大学進学に反対だったそうだ。 そして「現役・帝大のみ」の条件で名大理学部に合格したら、 おめでとうとも言われなかったそうだ。 また彼が論理的に理屈をこねると職人の父親にぶん殴られたそうだ。 要するに、彼は1歩間違えればノーベル賞どころか、高卒になってたわけだ。 日本ではどこでもほんの少し前までは、そういう時代背景であったってことだね。 もちろん益川氏はそういう父がいたからこそ、真剣に生き生きと大学で研究を続けられたそうで、 感謝してるそうです。 そういうのを聞くと、今みたいに誰でも大学に行けるようになると、ありがたみがなくなって 勉強しないし、逆にダメなのかもしれないですね。
- kei74
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進学とかしなくてもなれましたが、エエシのボンでかつ優秀な人か、ビンボーでも家柄が良くかつとっても優秀な人しかなれなかったようです。 あるグループ(富裕層等)の師弟は簡単になれるが別のグループ(被差別層や極貧層等)の師弟はまず無理ってとこじゃないですか。 現在とは異質の社会システムですからこの時代に限らず、現在の感覚での「簡単」は当てはまらないと思いますけど。
- tanuki4u
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http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz199201/hpbz199201_2_011.html http://202.232.86.81/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_222.html 戦後もふるさと出身の高学歴者を食わせるために、代用教員にしておくというのが結構あったようです。 有名な例では、竹下登元首相 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%8B%E7%99%BB あるいは、戦前でも東急を作った五島慶太 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E6%85%B6%E5%A4%AA http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%81%96 創価学会を作った人もそうみたい http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/251_300/267_02.htm 戸田城聖や上の書き方を見ると、校長が自分の権限で任命できたようですね。
- publicpen
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いや、当時の大学進学率は5%程度だったからめちゃめちゃ優秀な人しか大学に行けなかった。大学も帝国大学と師範学校ぐらいしか無かったし定員も今よりずっと少なかったから。代用教員も14-19歳ぐらいでやる人が多かったが、それも地方で教員が足りなかったからであり、今で言う中学で1,2番にできる秀才が貧困の中で「大学に行くまでのお金稼ぎ」でやるケースが多かった。 実際、秋山好古や五島慶太なども中卒の後に代用教員をした後、 当時、最難関であった陸軍士官学校や東京帝国大学に進んでいる。 医師もそうだけど(当時は専門学校の医学部もあった)、資格として整ってないだけで、誰でもなれるものではなかった。むしろ、今のように確立されてない職業だからこそ、権威と名声があったようだ(特に田舎では)。
- gameragomora
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たしか代用教員といってそれにはかんたんになれたらしいです。