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普天間基地
普天間基地 今、普天間基地の問題が大きく取り上げられていますね。 一つ疑問を感じたのですが、普天間飛行場の周辺には、大学や高校・小学生など、学校が多く建てられているようです。 何故、危険であろう飛行場の周りに学校を建てたのでしょうか? 素朴な疑問ではありますが、回答宜しくお願いします。
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こんにちは 4日のニュースでまさにこの質問がありました。でその答えが・・・ 「普天間第二小学校は昭和44年開校ですが、その当時には既に周辺は宅地 などの開発が進んでいて、"まとまった広さで残っていたのは、基地すぐ 横のこの場所だけ"だったのです」 というものでした。 まぁ、それだけ聞いたら"致し方ない"のかもしれませんが、ちょっと違和感 持ったのが「・・・既に周辺は宅地などの開発が進んでいて・・・」って 部分で"危険、危険、と言いながら 何故そこに移り住んだのだろう? と いう事。沖縄返還前のことなので、まぁ行政はあまり機能しなかった事は 想像出来るのですが、昭和44年って、もろベトナム真っ最中ですよね、今 よりもガンガン飛行機飛んでいたハズなので、住民は充分"危険"が認識出来 たように思うのですがね・・・。
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- oki-kichi
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宜野湾市の人口は以下のようになっています。 宜野湾市人口推移 総数 男 女 世帯数 昭和15年国調(1940年) 12,825 5,921 6,904 2,896 昭和25年国調(1950年) 15,930 7,625 8,305 3,488 基地建設は1945年、朝鮮戦争は1950-1953 昭和30年国調(1955年) 24,328 11,626 12,702 5,363 昭和35年国調(1960年) 29,501 13,977 15,524 7,680 昭和40年国調(1965年) 34,573 16,475 18,098 8,269 昭和45年国調(1970年) 39,390 18,869 20,521 9,341 昭和50年国調(1975年) 53,835 26,472 27,363 13,967 昭和55年国調(1980年) 62,549 30,796 31,753 17,619 昭和60年国調(1985年) 69,206 34,455 34,751 20,929 平成 2年国調(1990年) 75,905 37,362 38,543 24,467 平成 7年国調(1995年) 82,862 40,782 42,080 28,109 平成12年国調(2000年) 86,744 42,728 44,016 31,942 平成17年国調(2005年) 89,769 43,879 45,890 34,738 つまり、基地ができてから、その周辺に人口が増え、学校を建設せざるを得なかった訳です。 なぜ、騒音や危険がある所と承知していながら、そこに転入してきたのでしょう。 普天間近辺では無く、南部の糸満市などに住めば、基地被害なども無く、快適なはずです。 なぜ、普天間に転入してきたか。それが基地問題の本質です。 沖縄では基地が最大の産業なのです。基地周辺でないと働き口が無いのです。 そのため、基地のある中部で人口が爆発的に増えて、現在では、例えば、佐渡島の10倍以上、淡路島の4倍以上となっています。基地の経済効果を県は5%程度と言っていますが、全く、理屈に合いません。 基地が縮小・撤去されたら、多くの人が経済破綻する危険性があります。ヘリの墜落の確率はわかりませんが、基地が撤去されたら経済破綻する確率は100%です。詳しいことはhttp://kichi.ti-da.net/をご覧下さい。
- 参考URL:
- http://kichi.ti-da.net/
お礼
基地の周辺に仕事を求めた人々が移り住み、今の状態になっているということですね。 基地で働く日本人も多いと聞きますから、そういう方々はこの問題に対して複雑かも知れません。 詳しいご回答、ありがとうございました。
普天間基地は宜野湾市の面積の1/4を占有、しかも中心部が丁度基地になっています。 この状況では市内のどこに立てても基地周辺になってしまいます。
お礼
どこに建てても、基地の周辺になってしまう。やむを得ないことなのですね… 分かりやすいご回答、ありがとうございました。
お礼
「当時、その場所しか空いていなかった」という点では、致し方ないのかも知れませんね。 確かに、当時の状況や子供達の安全を考えると、場所が無いにしろもう少し考えなかったのかと疑問も残りますが…。 ご回答ありがとうございました。