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“死”ということ
“死”ということは、どういうことだと思いますか。 私は、“まったく無になること”だと思ってます。 でも、そう考えると、 “死ぬこと”って、すごくもったいないことですよね。 今までつちかってきた、全てが “無”になるんですよ? すごくもったいないことだと思います。 急に命が惜しくなってきました。 そう考えると、 自殺も思いとどまれそうな気がします。 みなさん、私の考え、 どうですか?
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あなたのおっしゃるとおり、死ぬことは無になることだと思います。 実は今月、兄が急死しました。 今でも全く信じられません。 実家に帰ったらただそこに兄が横たわっていました。 触ると冷たくなっていました。 しかしその冷たさは既に、ドライアイスの冷たさでした。 そこにあるのは、兄ではなく、ただ肉体が残っているだけでした。 自分が一体なにを見ているのか全く理解できませんでした。 大きな兄が、たくさんの人に抱えられ棺に入ったときも、命を感じませんでした。 命のないずっしりとした重み。 そして火葬され、灰になった兄。もう形として存在しない。 写真でしか思い出すことができない人。 小さな骨壷に入ってしまい、蓋を閉めたら、葬式は終わり、親族は帰る。 兄がいない世界は、それでも流れ続ける無情さ。 でも、 生きる私たちは悲しむことができる。生きているから。 今まで運よく、よく生きてこれたなあと、自分の命の不思議さを感じた出来事でした。 どんなことがあっても、生きているだけで素晴らしい。 ほんとにそのとおりです。 死んだら何もないのです。 何も持ってゆけないし、泣くことも苦しむこともできない。 いつも、生きることを諦めてはいけないと思います。
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- 雪中庵(@psytex)
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「死んで無になる」ということは、今は「無」ではないとお考えなわけですね? その「有」が実は、「無」と等しい時、「死」はどのような意味を持つでしょう。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事によって生じています。 自我仮説に対する相補的な時空仮説における、他我性こそが宇宙。 (無の無限の闇に対する自我の射影) 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完なのです。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、 相補的な時空仮説として生じています。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる 認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、 過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、 実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。 宇宙が認識に於いて生じるならば、生きるのは楽しむためです。 その「楽しみ」の原因をつくる欲求は、遺伝子によって発生し、また我々の生きた 結果が、淘汰として遺伝子に刻まれていきます。 もし、楽しくなくてイヤイヤ生きるならば、その個体は活性が落ちて淘汰され、 その状況でもイヤじゃない個体が増殖するだけです。 それは短絡的な快楽主義を意味するのではなく、生きるのに反したり、認識を 低下させる欲求は、人生を通算した充足量の総和の最大化に反します。 人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や 社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の 取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化” には、工夫が必要になります(短絡的な快楽主義には帰結しない)。 宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完 (時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性の他我化 =愛こそが死生を超えて、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を両立させ、 生きる真の目的である「人生を通算した精神的充足量の最大化」を果たすのです。
- lichimi
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死は誰にでもやってきますよね 生まれて死ぬまでの期間は人それぞれ 生まれる前に死んでしまう子供もいれば、100歳以上生きる人もいる。 病気で死ぬ場合もあるし 外的な要因で死ぬ場合もある。 1日1日が充実した日々で生きたいとは・・・思っています・・・がなかなか難しいですね。 私の場合は子供4人に恵まれて、若い頃の漠然とした死の恐怖は薄れてきています。 永遠の命って子供に引き継がれていくことなんだな~と考えるようになりました。 今は子供が人に迷惑をかけず、人にやさしく育ってくれ、将来幸せになってくれる事だけが希望ですね。 もっといっぱい子供がほしいのですが、奥さんがもう限界!とw 末娘が直2歳になるのですが・・小さな赤ちゃんをみると 「やっぱりもう一人ほしいかな?」とも・・どうなることやら
- morico1977
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あなたのおっしゃるとおり、死ぬことは無になることだと思います。 実は今月、兄が急死しました。 今でも全く信じられません。 実家に帰ったらただそこに兄が横たわっていました。 触ると冷たくなっていました。 しかしその冷たさは既に、ドライアイスの冷たさでした。 そこにあるのは、兄ではなく、ただ肉体が残っているだけでした。 自分が一体なにを見ているのか全く理解できませんでした。 大きな兄が、たくさんの人に抱えられ棺に入ったときも、命を感じませんでした。 命のないずっしりとした重み。 そして火葬され、灰になった兄。もう形として存在しない。 写真でしか思い出すことができない人。 小さな骨壷に入ってしまい、蓋を閉めたら、葬式は終わり、親族は帰る。 兄がいない世界は、それでも流れ続ける無情さ。 でも、 生きる私たちは悲しむことができる。生きているから。 今まで運よく、よく生きてこれたなあと、自分の命の不思議さを感じた出来事でした。 どんなことがあっても、生きているだけで素晴らしい。 ほんとにそのとおりです。 死んだら何もないのです。 何も持ってゆけないし、泣くことも苦しむこともできない。 いつも、生きることを諦めてはいけないと思います。
- lmint
- ベストアンサー率24% (183/738)
同感です、死んだらおしまいです、魂は残るとか、覚えてないだけで次に生き返るとか言われてますが嘘です、やはりあり得ません、1分1秒が大事が正解と思います
- rinberu
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苦しまずに死なないよう生きるしかない。
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