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ブッダ 手塚治虫作 について

質問のカテゴリが違っていたらすみません。 手塚治虫さんのマンガ、「ブッダ」を読んで思ったことがあります。 ブッダは、とてもすばらしい人であることは分かりました。しかし、奥さんとわが子を捨てて、修行の旅に出るという考えが理解できません。見方を変えると、ただの自分勝手だと思います。ただ自分の欲望を貫きたかっただけではないのかと思います。 たくさんの人々の迷う心を救ってあげたわけですが、一番身近な人(家族)を犠牲にしています。 ブッダも人の子、ということなのでしょうか? ブッダを全部読み終えて、何かすっきりしませんでした。 このことについて、どなたか詳しい方がいましたら、コメント等いただけたら幸いです。 よろしくお願いします。

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  • kigurumi
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回答No.9

No.2です。 >1人の命と100人の命はどちらが大切か? >2人の命と3人の命はどちらが大切か? >親の命と妻の命はどちらが大切か? >全て答えが無いですよね。 >そんな中、ブッダはブッダなりに答えを出したということなのでしょうか。 仏陀は実在した可能性が高い と言われますが、確かに実在はしていただろうけど、経歴全部が真実かというと、怪しい。。。とは思います。 で、、、、 上に挙げられた問いに関して、やはりどれが自分の将来にとってお徳かで判断可能なんじゃないかと。 中学の時の先生が、自分の子供と他人の子が同時におぼれていて、状況で一人しか助けることができなかった場合、他所の子を助けるって言ってました。 この先生の考えでいけば、一人の命と100人の命、二人と三人の命、親の命と妻の命は違うってことになります。 より自分の身近な人犠牲にした方が、その後生きる難易度が低くなるわけです。 世間の怖さを知っているので、他人の子を助けるわけです。 自分の子供を助けて他人子供が助けられなかったら、死んだ子供の親に恨まれるし、まわりも自分の子供だけ助けてって冷たい目でみられるでしょ? 他人の子供を助けて自分の子供が死んだ場合は、家族で痛み分けをすればすむわけです。 残りの人生、まわりから非難されて生きるより、お気の毒にと同情されたり、よくぞ自己犠牲を払って他人のために尽くしたと評価された方がマシってわけです。 執着を捨てることができれば、捨てられる。 家族への思いを切り取れば、家族が死んでも辛くなくなり、「よくぞ助けてくれた」とまわりから褒められて、<自分>が満足な人生になるわけです。 自分への執着だけは、捨てられないってことですね。 仏陀だってそう 自己愛が強かったと思えます。 解脱する直前に世間にはまだ救われていない人がたくさんいると思い、解脱を取りやめたとかいう話を聞いたことがあります。 大勢に感謝される自分を選んだ。 大勢の良い評価が、自分の人生の価値だと思うってわけです。 そこが、私が「結局この人もそうよね」と思ったところ。 確かに、その生き方は正しい生き方なのかもしれないが、正しいだけで完璧じゃあない。 まあ 完璧な人などいないですが。 人の価値は誰が決めるか、その人の周りにいる人です。 周りにいる大勢の人が益になったら「いい人だ」「存在価値が非常に高い」となる。 ええ その集団にとっては、存在価値は高いでしょうね。 逆にその集団に益をもたらさない人は「役立たず」「存在価値が無い」となってしまう。 世間という鏡は、真実の姿を映し出しているか? ノーですよね。 だけど 自分で自分を見れない以上、世間という鏡にうつった自分の姿を見るしかないわけです。 そうなると世間という鏡は、自分がどう振舞えば自分を美化して映し出してくれるのか となるわけで 鏡(世間)に益をもたらせばいいわけです。 現代人だってそうじゃないでしょうか。 世間という鏡の写った姿を見て 一喜一憂している。 つまり他人の評価に右往左往して、身体を捻じ曲げて、鏡に美しく映ろうとする。 鏡がゆがんでいたら、身体をゆがめないと、まっすぐ写っているように見えないでしょ? 鏡は絶対を写していない 相対的にしか写らないと気づかず、鏡に映った姿を真実だと思い込んでいるわけです。 で、そんな相対的な世界に我々はいるので、親は子供に「世間の役に立つ人になれ」と言うわけです。 世間を敵にまわすな 味方につけろ そのためには自己犠牲を払う周りが喜ぶことをしろ そうすれば犠牲を払った以上のものが手に入る ってね。 そんなもん いらんわ! ってきっぱりと言えたらすかっとするでしょうね。

pjdj
質問者

お礼

ありがとうございます。 中学の先生の話、ためになりました。 まさに、究極の選択に対しての答えを準備した、という感じですね。 ただ、本当にその状況がきた場合、先生は反対の答えの方(わが子)を選んだかも知れないですね。まあ、そこは考えても無意味なのですが、、、 No.8の方の意見の中に、「智慧」という言葉があり、意味をインターネットで調べてみたのですが、 ・物事の道理を判断し処理していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。「―を借りる」「生活の―」 ・ (智慧)仏語。相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧。物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。 と書いてありました。 まさに、ブッダも人も、日常起こる様々な出来事に対し、智慧を使って対応する。そして智慧を高める、ということのような気がしてきました。 家族を捨てたのも、家族と再会したのも、日常の出来事であり、修行を重ねた一人の人間がそれに対して、どのように智慧を使って行動したか、ということかなあと思います。

その他の回答 (13)

回答No.3

 詳しくはありませんが、  たぶん、  家族間の愛情、幸せ、それだけでは何か満たされない‘こころ’のある事に気づいていて、日々悶々としていたのではないでしょうか。  自分は人もうらやむ環境で生活しているけれど、世間を見れば、明日の食物にも事欠き、病気で苦しみ、住む家もない人がいます。  人の世はなぜこのように不公平なのか、なぜ人々は苦しまなければならないのかとの疑問が、釈尊を立ち上がらせたのだと思います。  家族を捨てる事には相当苦しんだことでしょう。  宗教的には、釈尊、イエスキリスト、モハメッドなどの宗教者を「応身仏(神、仏の心を伝えるためにこの世に現れた)」としているようです。        

pjdj
質問者

補足

ありがとうございます。 ブッダは家族を捨てましたが、捨てたられた家族はとても不幸だったと思います。捨てられた家族よりもブッダは苦しんだということなのでしょうか。

  • kigurumi
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回答No.2

ぜんぜん詳しくないですが、マキャベリーもそんな感じだったんじゃないかなって思います。 トップの人の究極の選択。 例えば、内戦の続くイラクに平和ボケした日本人がボランティアとかいって遊びにいって、人質になったとする。 交換条件として3人を取るか3人を捨てて日本国民を取るかの選択を迫られた。 マキャベリーなら、お気楽平和ボケした3人を犠牲にして、国を守ったでしょうね。 仏陀もマキャベリーと同じで、公益を重要視したんじゃないでしょうか。 小泉さんは、立場上、国民全体の益を重要視しなければならなかったわけです。 個人じゃなくてトップだったので、国益を考えて判断しなければならなかったわけです。 じゃあ 3人を見捨てるかというと、そうなるとダッカ事件と同じことが起こるでしょ? ダッカでテロリストの言うことを聞いたために、後に犯人は日本人を北朝鮮に拉致し、日本を攻撃する工作員を育ててしまったでしょ? だから、トップとなると、究極の選択を迫られ、国益を取らなければならないわけです。 小泉さんは人の命は地球より重いと思って3人を救出すべく奔走したのではなく、トップの果たすべき架せられた義務として、国益を守るために3人を救ったわけです。 仏陀の場合も、全体の益を考え行動したんじゃないかと。 そのために個の幸福を捨てたわけで、個の幸福は捨てても、全体が幸福になれば、自分も結局はプラスにになるってことじゃないかと。

pjdj
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かに、全体のことを考えた場合、少数の犠牲はやむをえない、というのは分からなくもないですが、こういうことは、永遠のテーマのような気がします。 1人の命と100人の命はどちらが大切か? 2人の命と3人の命はどちらが大切か? 親の命と妻の命はどちらが大切か? 全て答えが無いですよね。そんな中、ブッダはブッダなりに答えを出したということなのでしょうか。

回答No.1

漫画はだいぶ前に読んだので記憶にありませんが、 奥さんが浮気して産んだ子供がブッダの実子ではない 説もあります。 それが正しかったら浮気されたショックで出家とか。

pjdj
質問者

お礼

ありがとうございます。 そのようなうわさがあったんですね。 確かに、それが本当なら出家したのも納得できます。