• ベストアンサー

自殺はなぜ悪いのでしょう。

自殺は、悪いこと。 なぜでしょう? 残されるほうの身になってよく考えて。 生きていれば良いことがある。 神様が与えてくれた大事な物だから。 等、色々な意見があると思いますが、 残されるほうの身になって、断念して23年程経ちますが、 残される側の方たちに、酷い目にあわされています。 生きていれば良いこと、無いわけではありませんが、 その良いことが、最終的には耐え難い苦痛に、関わっています。 神様は、なぜこんなつらい人生を、与えたのでしょう? メンタルクリニックに、通いだして23年 医師の方々は、「とにかくだめ。」としか言ってくれません。 最近本当に、疲れてきています。 あと何年がんばれば、許されるのか、気が遠くなります。 何か、良いご意見をお持ちの方、宜しくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

後始末がとても大変だからです。 あなたはできますか?自殺者の後始末。 自分ではやりたくないことを他人にさせるというのは 非常に迷惑きわまりないことだと思いませんか?

kobito05
質問者

お礼

なるほど、確かに後始末は迷惑ですね。 私の最初の自殺は、飛び降りだったので、 ものすごく大勢の方に迷惑をかけたでしょう。 思いとどまった理由の一つが、「迷惑だな・・・」でした。 他人に迷惑をかけるのは、本意ではないので、 心に、留めて置くことにします。 ありがとうございました。

その他の回答 (13)

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.14

途中での中断すみません。 その間にも早々と返答を頂き、ありがとうございます。 しかしながら、あなたの補足文を読ませて頂き、あなたとあなたのご両親のこと、あなたの辿ってこられた不幸な境遇には、同情を禁じえない思いです。 肉親の親は知っていながらも、親の愛は知らない立場に立つあなたに悲しみの影を見る思いです・・・ これ以上書くのはつらいものです。 親の愛を知らないあなたに、愛の素晴らしさをどう話してあげればいいというのでしょうか? あなたの悲しい境遇の一部を知ってしまった今、何を書いたらいいかわからなくなりました。 でも、続けます。 男女がいくら愛し合っても、幸福な家庭を完成させるには、必ず家庭の囲いとなる父母がいて、大切にする子供がいなければなりません。 家族という囲いがしっかりしている時、その家庭は初めて幸福になるからです。 いくら大きな社会的成功を収めたとしても、家族の囲いが崩れてしまえば、不幸になってしまいます。 愛の土台となるのは、お互いがお互いのためにすべてのものを捧げる犠牲の心です。 父母の愛が真の愛であるのは、持っているものをすべて与えても、もっと与えたいと思う愛だからです。 子供を愛する父母は、与えたことを覚えていません。 「おまえには、何月何日に革靴を買ってやり、服も買ってやった。おまえのためにこれまでさんざん苦労したが、その代価はいくらだ」と帳簿に書いておく父母は一人もいません。 かえって、自分の持っているものをすべて与えても、「これ以上与えることができなくて本当に済まない」と言うのが父母です。 自分の命が尽きても、子供に対する愛を放そうとせず、子供のために命を捨て、さらには命を捨てたことさえ忘れるのが父母の真の愛です。 いくら道が遠く険しくても、子供のために、父母は喜んでその道を行くのです。このように本来の父母の愛は、世の中で最も偉大な愛なのです。 さて、自分とは何か、自分がなぜ生きなければならないかを、いくら考えてもわからないのが人間です。 したがって、自分が生まれた動機や目的が自分によるものではないように、自分が生きるべき目的も、やはり自分のためでないことを悟らなければなりません。 ですから、人生いかに生きるべきか、ということに対する答えは簡単です。愛によって生まれたのですから、愛の道を求めて生きなければなりません。 父母の果てしない深い愛を受けて生まれた命なので、生涯その愛を返して生きなければならないのです。 それこそが、私たちが人生において自分の意志で選択できる唯一の価値なのです。 あなたの場合は、不幸にも父母の本当の愛を知らずに生きてきました。従って、本当の愛を知る者以上に、その愛がより一層強い願望の対象となって残されたのです。 健康な人が健康であることを望むこと以上に、病気になった人が、より一層強く健康を切望するようになるのと同じです。 「人生八十年」と言います。喜怒哀楽が入り乱れる八十年という歳月は、本当に長く見えますが、 その中で、眠る時間、生活の資を得る時間、遊ぶ時間、諸々の雑事に追われる時間を差し引くと、わずか七年しか残らないといいます。 本当に自分自身のために使える時間はわずか七年だけなのです。 我々に与えられた七年という時間の中に、どれほど多くの愛を満たしたか、ここに人生の勝敗がかかっているのです。 さて、人は誰でもが、やがて死を迎えるのです。 自然現象の全てが循環活動しているように、人も同じです。本来いた所に帰るのが死です。 人が死んで帰る所はどこでしょうか?心と体から成る人の命から体を脱ぎ捨てるのが死なので、本来、心がいた所に帰るのです。 死を語らないまま生を語ることはできません。 生の意味を知るためにも、私たちは死とは何かを正確に知らなければなりません。 どのような生が価値あることなのかは、今すぐにでも死ぬかもしれない窮地に追い込まれ、 一日でも長く生きようと天にすがりついて、泣き喚く、そのような人こそが知り得るものです。 それほど貴い一日一日を、どのように生きればいいのでしょうか? 誰もが、渡っていかなければならない死の境界を越える前に、必ず成し遂げておくべき事は何かと言う問題です。 最も大切なことは、罪を犯さず、影のない人生を送ることです。 何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争のテーマになりますが、 はっきりしていることは、良心が躊躇することをしてはならないという事実です。 良心に引っ掛かることをすれば、必ず、心に影が残るようになるのです。 その次に大切なことは、人よりももっと多くの仕事をすることです。 人に与えられた人生が六十年であれ、七十年であれ、時間が限られていることには変わりはありません。 その時間をどのように使うかによって、普通の人の二倍にも三倍にもなる豊かな人生を生きることができるのです。 人が一本の木を植えるとき、自分は二本、三本の木を植えるのだ、という勤勉で誠実な姿勢を持って生きるべきです。 自分のためや自分の給料のためにそのように生きよというのではありません。 自分よりも人のために、自分の家庭よりも隣人のために、自分の国のためよりも世界のために生きなければなりません。 世の中の大概の罪は、「個人」を優先する時に生じるからです。 個人の欲心、個人の欲望が隣人に被害を与え、社会を滅ぼすのです。 世の中のあらゆるものは、通り過ぎていってしまいます。 愛する父母、愛する夫と妻、愛する子供も通り過ぎていってしまい、人生の最後に残るのは死だけです。 人が死ねば墓だけが残ります。その中に何を入れれば価値ある人生を生きたと言えるのでしょうか? 生涯かけて集めた財産や社会的地位は、すでに通り過ぎてしまった後です。死の川を渡っていけば、そのようなものは何の意味もないのです。 愛の中に生まれ、愛の人生を生きたのですから、生を終える墓の中に残るのも愛だけです。 愛によって生まれた命が、愛を分かち合って生き、愛の中に帰っていくのが私たちの人生なので、私たちは皆、愛の墓を残して旅立つ人生を生きなければならないのです。 あなたの人生は、いろいろとあっったため、まっすぐな道を歩みたくても歩めなかったのです。 愛を感じることのできなかったご両親の生き様やご主人からの仕打ち・・・ それによってあなたの心に刻まれた計り知れない深い傷・・・ 枯れ果てたあなたの心・・・ だとして、彼らや誰かをを責めることはできるでしょうか? ご両親も・・・ご主人も・・・ 彼らでさえ、自ら望んであなたに傷を与えたはずではないはずです。 彼らもあなたと同じ愛に飢えた犠牲者であることは変わりません。 誰か一人でも信じ続けることができていたら・・・そこに愛の種は植え付けられていたのです。 友達でも夫婦でも一緒ですが、最初はどちらか一方がもう一方を大切にすることから始まります。 しかし、もう一方は、自分が大切にされていながらも、相手を同じように大切にしないかもしれません。 そんな時、大切にしてきた側が、その大切にしてきた気持ちを崩してしまいやすいのです。 しかし、ここで忘れてはならないのは、人間が心と心のつながりで生きることのできる存在だということです。 相手が自分を大切にしていないことがわかっても、あなた自身が相手を大切に扱う気持ちを捨ててはならないのです。 何故なら、必ず心は通じるものだからです。 あなたが相手を大切に思い続けるなら、いつか通じるのです。 そして、あなたが相手を大切にしてきた以上に相手もあなたを大切にするのです。 あなたの傷も、痛みも、悲しみも、苦悩も、今はわからなくとも、あなたから大切にされ続けた相手は、そのことにいつか必ず気づく時がくるのです。 ご両親のように、両方が崩れてしまえば、救いは難しくなりますが、あなたが崩れなければ、きっとご主人の目が覚め、あなたの犠牲が報われる日が必ず来ます。私は愛を信じています。 苦しくとも、ご主人を大切にし続ければ、いつかその苦しみが幾万の喜びに取って代わる日が来ると!! 何故なら、人の心は通じるものだからです。 神様は、お互い愛し合うことを前提に高次元的存在として人間を創造されたのです。 あなたは、自分は汚れてしまったと思うかもしれません。 しかし、あなたから出た愛はあなたのものではありません。 愛は、万人共通の幸せになるための共通要素なのです。 たとえ汚れたあなたからでも、あなたから放たれた愛が、相手を思う愛である限り、愛には何の罪も汚れもないのです。 あなたがたとえ自分を信じられなくても、あなたから出た愛だけは信じてあげて下さい。 あなたが生きる自信を失ったとしても、最後の砦までは捨てないで下さい。 人は、心に悲しみや寂しさ、傷を負った分だけ人には優しくなれるのだから・・・ 愛が愛らしくあるために・・・あなたの人生に祝福があらんことを!!

kobito05
質問者

お礼

カトリック系の方でしょうか。 ご説法をありがとうございます。 (言い方が判りませんので、表現が間違って居たら申し訳ありません。)

  • aston2000
  • ベストアンサー率20% (203/986)
回答No.13

あなたが自殺すると、家族の人は周りの人からいじめられ、同じように精神的に耐え難い苦痛を受けます。 ただでさえ、子供が自殺して悲しいのに、他人からも責められるわけです。 これはあなたが自殺することによって、家族に迷惑をかけるひとつの例です。 動物は生まれながらにしてだらける生き物です。 人も同じです。動物のように伸びやかに暮らせたら幸せでしょう。 でも、どこに暮らそうとも食べ物を食べられなければ死に絶えます。 神様は何故あなたにつらい人生を与えたか?という命題は正解ではありません。 正しくは、何故あなたはつらい人生を自分自身に与えたか?です。 あなたはつらいつらいと言って何をこれまでしてきたのでしょうか? 何もしなければつらいのは決まっています。 頑張るとはがむしゃらにやることではありません。 目標を達成するために様々な手段を工夫してやることを頑張るといいますが、 精神科医もうつ病の方々も頑張れという言葉の意味すら知らず、頑張るなと言いますね。

noname#210007
noname#210007
回答No.12

>夫婦愛の結晶じゃなくても、 >子供は生まれるし、どんなに愛し合っていても、子供が出来ないこともありますよね。 >愛の結晶な子供じゃない場合、どういうことになりますでしょう。 今でこそ恋愛結婚が主流ですが、私が結婚した頃(36年前)は、まだまだ恋愛は不謹慎な物でした。 もちろん恋愛結婚をした私達は、親世代から不良と言われました。 苦しい思いを通り越して結婚した私達は、今の時代に産まれたかったです。 それも人間には選べません。 当時の真面目な婦女子は、親が決めた相手と結婚をし、家を継ぐ男の子を産むことが使命でした。 そしてそれこそが女の幸せであり生きる道とされていました。 今では考えられないことですよね。 結婚した女には自分の楽しみなど何も認められなかったんですから。 愛する人の子を産めないなんて当然の事でした。 でも今でも昔と同じ様な結婚をしたり、相手に巡り会えない人も大勢います。 私の感覚では、それもこの世での、その人の修行です。 「人間の命は地球よりも重い」なんて言われる様になったのは、ほんの少し前です。 戦前、戦中の人の命なんて、殿様や天皇陛下の為には無条件で差し出すレベルでした。 また「飲む・打つ・買う(酒・バクチ・浮気)は男の甲斐性」と言われ、夫の浮気なんて当たり前の事。 今のように夫の浮気を責めるなんて、世間が許しませんでした。 何事にも耐えるのが戦前、戦中の女の美徳、あるべき姿でした。 それを思えば、今の時代の日本に生きられる事の、何と幸せなことか。 子供が親や国や貧富を選んで生まれる事も出来ないけれど、親も子供を選べません。 何処に生まれ落ちるかは、全てこの世に生まれて来る人其々に課された、修行の度合いで決まると思っています。 出来れば誰だって富豪の家に産まれたいし、美人に産まれたいし、親の愛もいっぱいに受けて育ちたい。 でも、そのどれも自分で選ぶ事は出来ません。 もちろん今の質問者様の苦しみは、質問者様の修行ですから、誰が変わる事も出来ません。 自分が乗り越えるしかないのです。 お母様はお母様の、お父様はお父様の修行があります。 そして質問者様には質問者様の。 それをちゃんと終えれば、死にたく無くてもひょいと摘まみ上げられ、あの世に行けるでしょう。 この修行は人間の力では回避出来ないのです。 逆らえば逆らうほど、逃れ様と足掻けば足掻くほど、現状から逃げられない事に苦しみます。 今私は衣食住が足りて、良くも悪くも関わりあえる家族が居て、一人孤独で無い事に感謝しつつ生きています。 愛の結晶で生まれて来られる子供ばかりはいません。 幸せな人生を歩める子ばかりもいません。 自分の出生から親元を離れるまでは自分の自由にはなりません。 でも成人した後の自分の幸不幸は自分の責任です。 自分の幼少時代は不幸でも、自分は親に恵まれなくとも、やがて生まれて来る我が子を、自分の愛で育て幸せにする事は出来ると思います。 自分が親に持つ恨み心を絶たないと、質問者様の苦悩は永遠に子孫に受け継がれる気がします。 私は今迄無神論者で来ましたが、今この歳になって夫を亡くして初めて、 万物に平等に厳しい神のような力が存在するのではと思うようになりました。 望む望まぬに関係無く、私もやがてはその力の元に帰って行く(死ぬ)日が来るんだなと思っています。

  • kazu9981
  • ベストアンサー率24% (73/301)
回答No.11

考え方の問題だと思いますが… >神様は、なぜこんなつらい人生を、与えたのでしょう? 神様が与えたのだとしたら、何かしらの意味があるのでしょう。 それを探してみても良いかもしれません。 意外と自分から神様に言ったのかもしれませんし。 また、意外と意味は無いのかもしれません。 自分の選択の結果、今に至っただけかもしれません。 まぁ…それがわかれば、今頃皆ハッピーでしょう。 少なくとも、自分の選択の結果今に至るのならばそのツケを払う必要があるでしょう。 好き放題やって、嫌なことがあったら「放棄」って我侭では? で、何で自殺は良くないか?ですが… 「周囲に迷惑がかかる」 っていうのが、最もな理由かなぁ…って思います。 建物から飛び降りだとしても、後片付けの問題もあるし、その建物の所有者も気分は良くないでしょうし、飛び降りた下に誰かいるかもしれないし。 部屋で自殺しても、片付けの問題・その部屋の所有者の問題等があるし。 電車・車に飛び込みだとしても、不特定多数に被害が及ぶし。 海・山に入っても、捜索するが大変だし。 そもそも、自殺をすることによって「悲しむ人がいる」ってのがあると思います。 何に問題があるか良くわかりませんが、同じように悩んでいる人もいるはず。 その人達の為に何かする、っていう役目があるのかもしれませんよ。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.10

学校などで生徒の自殺が起きると、全校集会の場で、校長先生などが必ずといっていいほど「命の尊さ」を訴えているシーンがありますが、 では、命がなぜ尊いのかが、言及されていません。 命が尊い・・・確かに誤りではありません。 しかし、それだけでは、答えになっていないのです。 命がどういう過程を通して生まれてくるかがわかれば、答えは自ずと見えてきます。 新しい命が生まれてくる前に何があるかを考えてみましょう。 人の命は、単なる物や生産物のような工場や手芸で創られるのではありません。 二人の男女が結婚し、夫婦になって、その愛し合った最高点で生まれてくるのです。 生まれてきた子供を「愛の結晶」と呼ぶのはそのためです。 愛し合ったその結果として、子供という新しい生命体が初めて世に誕生するのです。 よって、命という結果が尊いのは、それを生み出した原因である夫婦愛がそれ以上にもっと尊いからです。 校長先生が、命の尊さの根源に言及しなかった理由があるとすれば、その校長先生自身の夫婦愛の素晴らしさを人に言えなかったことを意味します。 夫婦愛が素晴らしかったなら、文句なしの実感として命の尊さの根源的理由が口から出てこないはずはないのです。 そこからわかることは、校長先生ご夫妻の間で築かれるべきはずの愛がそこまでに至らなかったことは容易に推察できるのです。 愛がいい加減なら、その結果として生まれた命の尊さが実感として語れないのは当然の帰結です。 しかし、本当は愛こそが全てなのです。その性関係までも許された特別な男女関係、即ち夫婦という唯一の関係から、最大の夫婦愛を通して生まれた命が、どれほどの価値があるかは、単に「命の尊さ」などという表現では、言い表すことができないほどの、いわば絶対的価値を有しているのです。 すみません、今急用が入ったため、結論は一端中断させて頂きます。 では、また後で!

kobito05
質問者

補足

愛の結晶ですか。 母は、一番好きな人ではなく、 成り行き上無理やり父と結婚させられました。 (母の短慮な、行動が原因ですが・・・) そして、嫌いなところがいっぱいの人と夫婦になったわけですが、 今、母を拒食症に、追いやっているのが、父です。 私の、人間不信的な感情もそこから来るんです。 それと今、社会不安傾向なんですが、私の旦那に、原因の一端があります。 今では「もう絶対にあんな事はしない。」と言ってくれてますけど、時々、不安になるんです。 さらに、私は風俗嬢の経験があります。 出来ちゃった結婚で、子供を生んでから、奥さんには女性を感じられないので、遊んでる人がとても大勢いました。 と言うことで、夫婦愛の結晶じゃなくても、 子供は生まれるし、どんなに愛し合っていても、子供が出来ないこともありますよね。 愛の結晶な子供じゃない場合、どういうことになりますでしょう。

noname#210007
noname#210007
回答No.9

>自殺はなぜ悪いのでしょう。 >自殺は、悪いこと。 >なぜでしょう? 別に悪い事とは思いません。 今の苦しみから逃れる為の手段ですから、それも有りかなと思います。 ただ自殺を試みた人全てが死んで逝けるかと言うと、どうも違うみたいです。 死に損なって、今以上の苦しみを背負い込んでしまう可能性も大いにあると思います。 飛びおり自殺は下半身麻痺や半身不随で車椅子生活が待っているかも知れません。 首の骨を折れば、首から下が全く動かなくなる可能性も有ります。 飛び込み自殺や炭火での自殺は、脳死で一生ベッドの上の可能性だってあります。 また自殺で死んだ後の世がどんな所か、 お花畑か、はたまた地獄絵か、本当に行ってしまった人は帰って来ないので、本当の事はわかりません。 全くの無の世界かも知れませんしね。 ある説によると、 人間はこの世に修行に下りて来ているから、どんなに幸せそうに見える人も、必ず何らかの苦難苦悩を抱えているそうです。 ですから修行半ばで命を絶とうとしても、修行が終るまでは何度でも、この世に引き戻されるそうです。 >残されるほうの身になって、断念して23年程経ちますが、 >残される側の方たちに、酷い目にあわされています。 なぜその人達から逃げ出す手段が自殺なのか? 私には其処のところが良くわかりません。 未成年者ならともかくも、もう成人した立派な大人なのですから、敵から逃げだす選択もあると思います。 北朝鮮とは違い、日本人は世界中何処に住もうと自由ですよ。 何十年掛けようと、周りに翻弄されている間は同じだと思います。 自分で奮起しなければ、事態が変わる事はないでしょう。 自殺する勇気があるなら、何も怖いことなど無いはずです。 私は、人間は死を恐れるから、思い切った事が何も出来ないと思っていました。 死ぬ勇気があれば怖い物なんて無いのでは? 死ぬ勇気を生きる勇気に変えて、思い切って其処を飛び出してはどうですか? 何も自分を傷つける人達と暮らし、その人達の所為で自分を自殺に追い込むなんて。 あまりにもバカらしいではないですか。 良く生きても地獄、死んでも地獄と言う言葉を耳にします。 どちらを選んでも地獄なら、私は実際に見えている今生での地獄の方が安心ですね。 とにかく現状維持では一生変われる事は無いと思いますよ。 メンタルクリニックに通いだして23年とあるので、私の回答が追い詰める結果になったらお許し下さいね。

kobito05
質問者

お礼

ありがとうございます。 残されるほうの人で、酷い人とはもう絶縁しているのですが、 あのとき、あんな人のことを気にしなければ、 これほどの苦しみは無かったかも・・・ そう思って後悔してしまうんです。 たしかに、生きても、死んでも、地獄なら 生きてるほうが分かりやすいですね。

  • domesso
  • ベストアンサー率27% (269/992)
回答No.8

私の父方の伯母と叔父が2人自殺しています。 叔父は20歳の時に排気ガス自殺。 伯母は10年前に海に飛び込んで自殺。 どちらもうつ病が原因です。 叔父に関しては私が生まれる前なので知りません。 伯母は元気な人で、友達も多く仕事に趣味に楽しく毎日を過ごしていました。 家族はそんな伯母が更年期から来るうつ病にかかっているとは全く気付かず、伯母はある日仕事に出かけたまま行方不明に。 警察に捜索願を出すと、似たような遺体が海から上がったと警察から聞かされ確認したそうです。 2人の母に当たる私の祖母の悲しさは相当なものでしたし、 何より2人がそんなに悩んでいたのに気付いてあげられなかったと、家族も後悔する日々です。 でも2人の病気に気づけたとしても、自殺するな、と言ってあげたとしても、 じゃあ2人の苦しみを私たちが何とかできるのかと聞かれれば答えられません。 自殺を否定することは2人を否定するような気がして、私にはできません。 たまに今でも伯母の自殺のことを考えることはありますが、きっと答えは出ないんだろうな、と思います。 答えにならなくてすいません。

kobito05
質問者

お礼

残る人の苦しみですよね。 伯母様は、たぶん衝動系でしょうね。 私も記憶に無いんですが、いきなりかみそりで、 手首を切ろうとしたりした事があるそうです。 やはり、答えは難しいですよね。 ありがとうございました。

noname#171468
noname#171468
回答No.7

自死念慮が来たなら妥当な権利と思うのはうつ病を持つなら無意識で来ますよ。  それは病気がそうさせるだけで、実際出来ないと言うか、出来ても成功率を考えると出来ない所です。  未遂者ですので、未遂で終わる事の方がきついですよ。  自分が死に切れにない負い目で来る自暴自棄です、それを考えると死にたいと言う思いは何時でもある気持ちが自死念慮の本質なんです。  生きる辛さも死んで楽になりたりと言う思いが常に動く情動出来ますから、かなり厳しい現実を送る者です。  未遂者と言う過去歴を知る者には誹謗中傷の嵐で追い込まれる、目線がそう言う目線で来るなど、これはこれで辛い実感です。  貴方が自死したいと言う思いはメンタル疾患を持つ者は誰しも常に悩む葛藤です、しかし未遂で終わるならしない方が無難ではないかですよ。  確実に出来ると言う確信があるなら、誰もが行うけど確率論では成功出来ない所もあるから、未遂もあるから、ボーダーラインで苦しむのは仕方がない現実です。  病がそうさせると言う自死念慮を一度ぐぐってくださいよ。

kobito05
質問者

お礼

逆転の発想ですね。 生きるのが辛いから、病気が良くならない。ではなく、 病気だから、そう思う。 そう考えれば、納得かもしれません。 ありがとうございます

回答No.6

>自殺はなぜ悪いのでしょう。 自殺自体が悪いとは思えませんが、まだ自殺をしなくても良い状況でしてしまうから悪いことだと思います。 自殺をしないで住む方法は必ずあるはずです。 まだ、見つかっていないだけです。 >神様は、なぜこんなつらい人生を、与えたのでしょう? 神様に頼っても何もしてくれませんよ。 私は神を捨てました。 仏の方がすごいです。 自殺する前に少し勉強してみてはいかがですか? 何で辛いのかが分かると思います。 抜苦与楽

kobito05
質問者

お礼

仏ですか。 全般的な感じでもわかるでしょうか? 調べてみます。 ありがとうございました。

  • tent-m8
  • ベストアンサー率19% (724/3663)
回答No.5

23年ですか。 よく頑張ってきたと思います。 『あと何年がんばれば、許されるのか』 これは、だれにもわかりません。 何年か先になるかもしれませんし、明日いいことがあるかもしれません。 生きてみなければわかりません。

kobito05
質問者

お礼

ありがとうございます。 生きてみないとわからないのが、最大の問題ですが、 いいことあるといいな・・・。

関連するQ&A