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津軽海峡冬景色

ふと思ったのですが私はこの歌の冒頭の歌詞は「ゆうづる号」を想定しますが、みなさんはどの列車を想定しますか? あと、45列車に乗ったことある人いたら思いれ話などお聞かせください。 昔、祖父と乗ったことが懐かしく思い出される今日この頃です。

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  • coco1701
  • ベストアンサー率51% (5323/10244)
回答No.4

上野発の夜行列車といえば、急行「八甲田」ですね 対面の座席シート(シートが堅いし背もたれが直角)で寝て、朝がた青森に着いて、青函連絡船に乗って(一人なので椅子席)函館へ、函館から函館本線に乗って、夕方に実家に着いていましたね (その頃はお金がなかったのでより安く) 以後は、寝台特急「はくつる」になって、その後は飛行機になりましたね

noname#148416
質問者

お礼

ありがとうございます。 海峡ラーメンという生温いラーメンを召し上がったことありますか? 函館本線は山線が素敵ですよね! すごく田舎に古びたレトロチックな列車・・・

その他の回答 (5)

回答No.6

ずばり急行「十和田2号」でしょう。この歌が発表されたのは1977年。この当時に、上野~青森を結ぶ列車には「ゆうづる」「はくつる」「八甲田」「十和田2~3号」(1号は季節列車)「あけぼの」「津軽1~2号」「みちのく」「はつかり1~5号」がありました。 青函連絡船の利用のピークは1975年、したがってこの歌の頃の青函連絡船はまだまだ利用が多く、短時間で接続する特急が着くと、連絡船でよい席を確保するために、一斉に小走りや早足で乗換え、とても「海鳴りを聞く」ような余裕はありません。「北に帰る人はだれも無口」というようなもの静かな光景は無く、運動会状態。私も、「はつかり」から走って乗り換えました。比較的、接続に余裕があるのは急行からの乗継です。急行「八甲田」は、臨時便がない場合は1時間15分後の5便接続なので、乗継客は限られていました。その点、「十和田2号」は接続時間が43分と比較的良好な接続でした。これが「十和田3号」となると25分接続とさらに良好ですが、到着が11時40分と昼になってしまいます。これではムードがないですね。 なお、この時代の定期急行にはまだ12/14系は入っていません。また10系座席車は配置が少なかったので主力は43系でした。 ※私自身が「八甲田」の乗継よりも「十和田」乗継の方が多かったことが影響してますね(笑)

noname#148416
質問者

お礼

色々な思い出がよみがえり懐かしい気分にさせていただきありがとうございました。

noname#109588
noname#109588
回答No.5

上野発の夜行列車で青森行きでさらに北(北海道)へ向かう人がいるということですから「ゆうづる」「八甲田」ですが、 この当時、座席急行で都心へ向かい、都会で成功して寝台特急で帰って「故郷に錦を飾る」ということが行われてました。 しかし気になるのが、「北へ向かう人の群れは誰も無口で」という部分で、夜行だからかとも解釈できますがが、 私は、列車全体が暗く重いイメージがあり、都会で失敗した人が「ゆうづる」で帰ることができず、「八甲田」で舞い戻る風景を思い浮かべました。

noname#148416
質問者

お礼

都会に戻ってリベンジしたい気持ちが含まれているのかもしれませんね

  • ultraCS
  • ベストアンサー率44% (3956/8947)
回答No.3

やはり、夜行の座席急行だと思います。 夜行急行には八甲田(東北線経由)の他に、津軽(奥羽線経由)や十和田(常磐線経由)もありました。いずれも、10系客車時代から乗りました。旧客や10系客車は一段上昇窓の上部からすきま風が入るため、結構寒いときがあります。まあ、ワイド周遊券のあった時代には使い勝手のよかった列車達です。その後、10系から12系や14系になって消えていきました。 多客期には、それぞれ臨時が出て上野~青森で夜行急行が七~八往復もあったんですから隔世の感です(その他に秋田行きの男鹿や仙台行きの松島といった夜行もあった)。 それ以前には青森まで長距離鈍行もありましたが、当時はまだ子供だったので乗ったことはありません。 青函連絡船では、大晦日に連絡船から初日を見ようと青森の連絡線待合室で泊まったことがあります。その頃、青森の待合室は長いす、函館はホームに良くあるような一人ずつのプラスチック椅子でした。

noname#148416
質問者

お礼

現在ではありえない光景だけに価値があったのですね。

  • URD
  • ベストアンサー率21% (1105/5238)
回答No.2

急行「八甲田」ですねぇ。ただ 14系座席車で運転されていた時期で、青函トンネル開通前 という狭い年代に限定されちまいますけど。 10系客車はスキマ風でとても寒かったそうですが、そこまで古い時代は知りません

noname#148416
質問者

お礼

やはり座席急行ですか? 確かに出世列車でなく庶民派列車でしょうか?

  • tetu758
  • ベストアンサー率58% (810/1390)
回答No.1

 私の場合は「はくつる」です。上野発以外では「日本海」、「白鳥」がイメージにあります。  直接乗る事は私はありませんでしたが、青森駅から乗継の光景は凄いと思ったイメージが今でも忘れません。私は「みちのく」、「はつかり」の利用が多く、後は「青春18キップ」を利用する旅人です。  連絡船からの乗継での北海道からの接続列車は「北海」のイメージが強く、サッポロビールの味を覚え、飲み過ぎて小樽下車を乗越して札幌まで行ってしまったのも良い思い出です。この後に函館に行った際に乗った「おおとり」では知り合った人にラーメンをおごってもらった事が20代の思い出であり、これらの列車は消えてしまい残念です。

noname#148416
質問者

お礼

現在は食堂車を持っている列車は非常に少なく、あなたも当時のよき思い出になっていますね。 懐かしい思い出話ありがとうございます。

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