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「べし」?
今晩は。いつもお世話になっております。 …夏目漱石の『三四郎』の中で、 【三四郎はこの槌抛に至って、とうとう辛抱が仕切れなくなった。運動会は各自勝手に開くべきものである。人に見せべきものではない。】 …上の文で――なんで「見せるべき」ではなく、「見せべき」なのか??? 『集英社国語辞典』に、「べし」は、「時に、「勉強すべし」のように、文語活用の終止形に接続する用法も見られる」と出ているものの、 僕の考えでは、「見せるべき」のことを、「見せべき」としたのは、一種の音便ではないか、(使役形なので)……。 日本の皆様、どうもお知恵を貸して下さい。
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ここでは「べし」の前に来る形が、終止形か、連体形か、という問題と。古典語の二段活用から、現代語の一段活用に変わる過渡期の問題が重なっているように思います。 1。接続形の問題。 辞書には「(1)上代・中古では、上一段活用の動詞に付く時、連用形に接続することがある。「我がやどの萩咲きにけり散らぬ間にはや来て見〈べし〉奈良の里人/万葉 2287」(2)中世後期以降、一段活用・二段活用の動詞にも連用形に接続する例が多くなる」とあります。 2。過渡期の問題 古典語の二段動詞「見す」の連用形は「見せ」終止形は「見す」 現代語の一段動詞「見せる]の連用形は「見せ」終止形は「見せる」 そうすると 見すべき(古語) > 見すべき/見せべき(中世以降の古語) > 見せるべき(現代語) という図式が見えてきます。書き言葉(文語)から離れて、口語体が「書かれるようになった」過渡期の漱石の文はそういった揺籃期の形態を示しているのではないでしょうか。 3。音便 音便は音韻配列のある条件が揃った場合起こる現象で、使役といった文法上の範疇に影響されませんので、これは音便ではないと思います。 ご参考までに。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/174616/m0u/%E3%81%B9%E3%81%97/
お礼
SPS700さん、今晩は。 アハ、古語から現代語への過度期的な現象ですね。 詳しいご説明、本当にありがとうございます。 これからもよろしくお願い致します。^^