いま本棚にみあたりませんが,ある本で『古事記』を読んだとき,その校閲者が「語源・解釈がわからないことばである」としながら,No.2の方と同じ推定(ほ=秀)を書いていました。
これはヤマトタケルの望郷・臨終の歌として有名ですが,「当時の首都であった奈良が国中でいちばん秀でたところだ」という,いわばあたりまえの価値観を述べたんだろうと思います。
しかし,いまのわれわれにとって,あたりまえでない価値観も入っていると個人的には思っています。つまり,地形的には,当時の首都は奈良や京都といった内陸盆地に位置し,「河川下流部のような低湿で洪水の危険がある劣悪な自然環境ではなく,適度の水(谷口の川水や地下水)が得やすい内陸盆地にあり,周囲を山に囲まれていて防御にもいい」という利点がありました。当時の大阪平野は,まだ陸化が十分ではなく,河内平野も湿地でした。より標高が高い(この意味で「秀」を解すことも可能です)奈良盆地が,せいぜい人が住める環境だったわけです。