私の場合、過去にあった酷い仕打ちについて、やはり、許せないことは、ゆるせません。あまりにも、非人間的であり、それを行った人たちの、人間性は、過去のものとして、彼らはかんがえているでしょうが、やられた方の立場にたてば、ゆるせるものではありません。彼らがやった行為よりも、それらの基本となっている、考え方、情報収集などの方法など、あまりにも、自然の真理に反している、とかんがえられ、そのこと自体が、たぶん、自然、宇宙の真理は、ゆるさないでしょう。だんだんと、そのことが、分かってくる、と思いますが、現実問題として、一番最初にその始めに到達した存在が、すべてを握るのは、当然であり、現在の我々がいくら努力しても、すべては、始めに到達した存在が、われわれの行うこと全てを把握しているのは、当然のことであり、彼らの考えに反したことを、われわれがやれば、それは、必ず、われわれの身に、かえってくるでしょう。いくら、それらを覆そうとしても、すべては、彼らによって、モニタリングされ、すべて、彼らにとっては、われわれの行動は、予定の行動だったと、考えられるでしょう。その、始めの存在とは、いわば神ともいえると、考えられます。いくら、現代の科学の進歩がすごくても、すべては、この始めの存在である,神の予想通りのことであり、ある一定のところまでいけば、われわれの科学の進歩も止まらざる、をえないでしょう。なぜなら、その必要がなくなるからです。それ以上を追及しよう、とするのは、云わば、神への冒涜であり、必ず、なんらかのしっぺ返しをくらうでしょう。もうそろそろ、そのあたりを、考える時期にきている、と考えられます。なぜなら、私がひどい仕打ちを受けた原因を、私自身が無力化できたからです。つまり、私への仕打ちを、私自身が、理解し、それを乗り越えられる、知識と経験を、掴むことが、できたからです。つまり、その仕打ちは、完全無欠であると、わたしは、かんがえていたのですが、それに、穴が開いたのです。もう、その穴は、どんどん広がっていくことになるでしょう。そうなれば、もう、社会の秩序や、常識は、維持していけなくなってしまう、かも、しれません。現実問題として、そんな穴のあいた、秩序にいつまでも、しがみついても、意味はみいだせないでしょう。そこで、私の中で問題となってくるのは、私に対して、酷い仕打ちをした人たちの、人間性となってくるわけです。あまりにも、狂信的で残酷であり、彼らの本質は、変えられない、と、私には、思えます。結局のところ、私自身としての妥協は、私らしい生き方を貫く、私みたいな人たちを助けていく、そして、彼らは、彼らなりに、彼ららしく、生きて行く、ということになる、と、思えます。本題に戻りますと、結論は、周囲がどうであっても、穴があいたものに、縛られても、仕方ないし、私らしくいきていく、そして、地球、宇宙、世界環境等の推移を見守って、私なりに、考えていく、みたい、になる、と考えます。社会一般の秩序・生活を大切にして。抽象的ですが。
お礼
ありがとうございます。ビリヤードいいですね。久々やりたいです。