• ベストアンサー

心の拠り所

気持ちの拠り所がないとうまく暮らしていけません。 私が思う限り、幸せに恋人のいる人や宗教信仰者等は、人生をうまく切り抜けているというか忍耐力がある人が多いです。また、何故か自分の周りも殆どの人がどちらかまたはどちらともに該当され、仕事も趣味もうまくいっています。 現実味帯びてませんが、まずいことに、もう苦しい際も乗り越え、うまく世間を渡っていく方法ってこの2点じゃないかと思ってきました。 私にはどちらも該当しませんが、最近、自分はすがるものがないから、失敗も多く、失敗してもなかなかうまく考えられず、気持ちがぼっきり折れてしまうのではないかと考えるようになりました。 私は、資格に向けて頑張っています。しかし、何度も失敗しているので更に自分が信用できなくなりました。それからは自分の向上心をあげてくるためにも自信が付くような本やDVDもみました。ここ1ヶ月はこれを毎日心がけました。しかし、資格勉強に向けてやっても、以前のように奮起出来ません。このままでは資格問題どころでなく、これから様々なことで壁にクッションなくぶち当たり凹むのが目に見えています。 私もすがるものがあれば違うのかと思いはじめました。なにより、苦しい時に自分はメンタル面が弱い(すがるものがないからかもしれませんが)ので、本当挫折感を感じたとき生きていくのがすごい苦しいです。すぐ凹んでたらうまくいくのもいかなくなりますし。頑張れとくいしばっても凹んだときになかなか這い上がれない性格なんです。こんなに弱い自分には、人生に限界がくるとか被害妄想してきます。しかし、心底自分を信じてやりたい自分になりたいと切実に思っています。 宗教といえど、そんな簡単なもんではない、危ないものだと思ってますし、いまいち気が乗りませんが、やっぱり自分からすがるものを探すしかないんでしょうか?。すがると、やっぱり人生変わるものなのでしょうか?。意見を是非ください。恋はおちないと出来ないものなので考えていませんが。または、他にすがる拠り所があれば教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#107497
noname#107497
回答No.11

回答No4のRF2244です。 お礼の文章、ありがとうございます。 私の信仰している宗教を書いて置きます。実際は、過去の回答履歴を見れば解ることなので、極力、勧誘あり気と思われると嫌なので、書く理由がない限り書いていません。 仏教系、日蓮系、日蓮正宗という宗派です。 最近になって、気付いたことです。(自分で悟ったことだと思っています。) 凹んでしまって自信喪失。 私なりの言葉で置き換えると、人間が苦しなり、身動き、行動ができなくなる状態、つまり、憂鬱でうつ状態になる状態。 その原因は、「弱さ」です。人は、いろいろな弱さを持っています。 その弱さが恐怖となり、辛くて何もできなくなる。正常に状態で物事をすすすめられなくなる。 また、弱さ故に、その弱さを克服するために、強さを求める。でも、それは強さと言っても、とにかく自分を守るためのもの、落ち着きが無い。怒り、憎しみとなって相手を傷つける。 私は、それが仏教では、「執着・渇望」ではないかと思います。 その執着・渇望から逃れられない故に、苦しいことに対し、憂鬱になる。 その執着・渇望が消える。そうなると、そういったことに拘らなくなる。自分は○○だから、ダメだ~と思わなくなる。 しかし、それだけでは、無関心という状態。 この宗教をやっていて、気付いたことは、拘らなくなる時に、大切なものが見えてくるということ。 (文章の書き方の順序が悪いと感じますが、お許しください) 大切なものが見えてくると、そういったものを感じられるようになってくると、そういったものが最も大切と気持ちが生じてくると、拘らなくなる。 私は、これは解脱の1つではないと思っています。この解脱の1つ1つの積み重ねが完全な仏となり得るのではないかと思っています。(あくまで思っているだけの推測の話、経験とは無縁) この大切なものが見えてくる、拘らなくなる時には、大抵、悩みます。苦しいことや悩み事あって、悩んでいると見えてきます。 でも、悩めば見えてくるとか言えば、そうではないという感じが過去の経験上強く感じます。 私が、自分の宗教の修行をする前もかなり悩みましたが、こういったことはほとんどありませんでした。 この宗教で自分ができる範囲で無理をしない修行をまじめにして、悩めば答えが見えてくるというようになりました。 私はすべてを悟っている人ではありませんから、こういったことが他のことでもできるのもしれませんが、私は知りません。 私は、いろいろ考え、可能性を見出します。逆にいろいろ考え可能性を見出せない時もあります。見出せないというより、「無理」と思うことがあります。 自信というのは、そういうものではないでしょうか。 私は自信は、あくまで自分で考えた推測のものでしかありません。 物事に取組む時に、自信がある、ないというのは、けっこう重要なパラメータです。それは、自分が上手くいくか、いかないかというものですから。 自信がなければ「無理」と思います。それでもしなければならないという時は、その自信がない理由を探します。そういう状態になれば、嫌な気持ちや恐怖が強くなりできないのか、 それとも、技術や頭の思考能力的にできないことなのか、 考え見つけ、それをどうにかします。その繰り返しです。 自分ができないと思う理由から目は反らしません。 でも、そうやって無理という理由を克服したり、対処している内に、できる可能性が見えてきます。 無理なら諦めがつきます。 >自己愛がないと勇気も出ないと思うんです 質問者さんの愛とはなんでしょうか? 私の愛とは、「未来において確実にプラスになることをする」です。私はそれを一言で言うと、「大切にする」と言っています。 未来においてプラスになるためには、幸福と苦という試練の2つがあります。 幸福は、苦を生き抜く活力となる。 苦という試練は、自分の愚かさやいたらなさを知り、幸福とは何かを探し出す。というものです。 大切にするということは、状態に応じて使い分けなければならないです。疲れているときは、幸福を与え、癒し、活力を。 活力がある時は苦を。 こういった生活をしていると、勇気というものは必要ないです。 無理して勇気を出すということはしない。というか、一時の勇気なら、出しますが、長く続く時に勇気は出しません。だって、疲れるから。 勇気を出すというのは無理をするっていうことだと私は思います。本当は臆病なのに、がんばって臆病を封じ込め、がんばる。 これは、体に相当なストレス、疲労です。こんなことを長くしていては、疲れ果てますし、癒すことにもかなり力を入れなければなりません。 できないことは、無理と思って諦めます。開き直ります。でも、完全に諦める訳ではないです。余力が出てきたり、それをやる優先順位が上がれば それに取組みます。 大切な事は一歩一歩、未来に続くために今できることをできる限りするだけです。失敗しても構いません。なんでも上手くいくなんて期待していませんから。未来を完全に推測できる訳でもないので。無理に期待するのも疲れるし、無理に期待して失敗したら落胆するだけです。 期待はしないが、できる限りのことはする。できる限り可能性をあげることはします。 >モチベーションを高く維持できる人たち 私は、モチベーションを高く維持するためには、 なぜ、それをしているのかを自分に問いて見る事、その価値観を再確認する。 肉体的、身体的疲労の度合いをチェックし、癒す。癒しきれない場合は、生活習慣や、癒し方法を変えて見る 今の自分にできるレベルなのかどうか、考えてみる。 ことで自分はだいたいモチベーションは維持できます。 特にゆっくり休めればやらなければいけないことはやれるようになります。 また、回復することを軽視することは、食べる、眠る、安らぐということを軽視することです。 私は食べるために、眠るために生きているとは思いません。人間の体上、そうせざるを得ないからだと思っています。 せざるを得ないのであれば、軽視はできません。 病気なりたくないから、予防接種をするのと同じです。 >自分は守られている、味方がいる(信じることで自己愛を満たされる)というものがあると人は強いと思うのです。 守られているのが欲しいのは、安心感が欲しいからだと思います。 その安心感を求めるのは、不安で一杯だから。 味方がいるというのも同じ理由。 結局、それは他人に依存していることです。 自分で落ち着いた境地に至っている訳ではありません。 その不安が対策を生み、対策を生み、その不安な気持ちは隠れても、消えることはありません。 逆に、どんどん自分を弱くして、そういったもの無しに生きられなくなると思います。 それが、質問者さんが望むことなのでしょうか。 以上、何か開くカギになれば幸いです。

hoshifuru2
質問者

お礼

親身に回答ありがとうございます。 特に活力と勇気のお話、参考になりました。 活力のある時とない時とで自分をコントロールしないと、自分も苦しくなるし、物事うまくいきませんよね。そのとうりだと思いました。 勇気はストレスが溜まるから無理して出すものではないとのこと。そうなのでしょうか?。確かに無理して出すと私自身も多大なるストレスが溜まります。恐らく、自分が壊れない程度で勇気を出すということかな?と思いました。 >>自己愛がないと勇気も出ないと思うんです。>質問者さんの愛とはなんでしょうか? 私は、弱い面が大いにあります。自分を守れないと人を守るというか、まともに接することも出来なくなります。人を信用しきれなくなって、自分に絶望しぎみになったこともあります。絶望する時自分が大嫌いになりますね。そんな時、特に自己愛がないと自分で感じます。 愛は、どうなんですかね?。よくわかりませんが、(すみません)私は悪い意味を除いて、守りつづけることだと思いますかね。 たまにお見かけする言葉ですが、自分の気持ちにまっすぐに暮らしていれば、人も自分も愛せるようになれるのかもしれないですね。実行できる自分になりたいです。 >勧誘あり気と思われると嫌なので、 私自身、この考えは大事だと思います。何故か安心しました。 強制するから信心が生まれるとは違いますよね。その人が信じることが信心ある宗教だと思うし、一番大事なんじゃないかなと私は思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (11)

  • minumteh
  • ベストアンサー率21% (43/196)
回答No.12

こんにちは。 能力がある人の中に食い込まなくてはいけないんですか、それは厳しいです。 私は消去法の話は、純粋にあなた個人が向上する範囲において、 お話していました。特に資格取得などは、他の人とは関係なく、 あなた一人の問題と思っていたのですが、思い違いがありましたら、 すみません! ところで私も、最近資格取得に失敗しました。 今のところ、取り組み方を改善する余地は、かなりありますので、 次回に向けて、今までのやり方を消去したいと思っています。

hoshifuru2
質問者

お礼

再度、回答ありがとうございます。 仕事がかかっているので、また頑張ろうとは思うのですが、やっぱりすぐうまくいく人にはなかなか勝てないですね。そんなに負けず嫌いではないので個人的に勝ち負けでがらっと変わるようなことは好きではないので、余計自分の中で苦しく感じているのかもしれません。 ただ弱音を吐くだけでは、ただの依存になってしまうので、最近、改善の余地を探して頑張りたいと少し思えるようになってきました。 お互い資格を取れるよう、向上できるよう頑張りたいですね。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.10

>完璧を仏として拝むとは 仏話を聞く場合最後はその僧侶の自分の宗派の自画自賛になりますからその時点で退席する必要があります。 本で読む場合も同じです。自分の宗派の宣伝の時は神や完璧以外の仏の話をやり始めます。つまり洗脳を始めるのですが、気をつけてください。 洗脳されないためには反論にも耳を傾けることです。

hoshifuru2
質問者

お礼

>最後はその僧侶の自分の宗派の自画自賛になりますからその時点で退席する必要があります。 なるほど!。そうなんですね。これは気をつけなければヘタすると、良さも悪さもわからなくなりますね。私は、自分から進んで信じようと思えない宗教は信仰しているとは言えないと思っているので。参考になります。 >反論にも耳を傾けることです。 反論は大事ですよね。悪い面も許せたり、その面も含めて信じられないとこれまた違う面で苦しくなりますよね。 ありがとうございました。

  • minumteh
  • ベストアンサー率21% (43/196)
回答No.9

一言、伝え忘れてしまったことがあります。 この質問をするのに、だいぶエネルギーを使ったのではありませんか?

hoshifuru2
質問者

お礼

前々回の回答(消去法について)から感じたことで追加します。 能力がある人も消去法を使うので、余計そこに食い込みにくくなってくるんです。私が能力不足というのが結局いけないのですが・・・。 エネルギーは多少使いました。しかし、このまま放置より自分も向上したいですし、何より苦しいので質問しました。私と同じように考えている人もいるかもしれないですし、そういう人の為にもなれたら嬉しいですかね。

  • minumteh
  • ベストアンサー率21% (43/196)
回答No.8

そうでしたか。ずれた回答をしてしまいました。すみません。 そういうお話でしたら、私から意見できることはありませんでした。 なぜなら、あなたが探している答えは、 私が探していてまだ見つけられていないものと、 同じかもしれないからです。 ただ、もし一つ、参考になさってもらえることがあるとすれば、 私は、すでにある信仰を持っているということです。恋人はいませんが。 もちろんあなたは、私とは違います。

  • f5system
  • ベストアンサー率8% (79/896)
回答No.7

宗教とはすがるものではなく、自分の内面にある、自発的な可能性を追求し正しく開き、社会に精力的に参加することなのです。ですから、すがるという発想自体が、あなたの行動から社会を閉ざす要因となっています。 人生とはうまく切り抜けるものではありません。これは、安易な発想です。本当の生き方とは、常に、苦難から逃げずに立ち向かう勇気の連続のことを指すのです。 宗教とは実は勇気を持って人生を切り開いていくことなのです。つまり、どんなスポーツ選手も、会社の社長さんも、目指すものは高い山の頂にあるのです。 宗教家や僧侶などは教養が豊富でも、宗教ではありません。観念だけでは死んだ宗教なのです。 常に自己を追求し向上させることが人生の本当の生き方であり、宗教といえるのです。

hoshifuru2
質問者

お礼

>宗教とは実は勇気を持って人生を切り開いていくことなのです。 おそらくそうなんだと思います。凹んでしまって自信喪失しても、人生そんなに甘くないのですぐ切り替えが出来ないとうまく渡っていけないんだと思います。そんな時に力になるのが、信心なのではないのかと思いはじめました。自己愛がないと勇気も出ないと思うんです。それを満たしてくれるといえば、以上の2点が代表だと思いました。すがるという表現がまずかったのかもしれませんが、自分は守られている、味方がいる(信じることで自己愛を満たされる)というものがあると人は強いと思うのです。だから、勇気もでる。モチベーションも高く維持できる。活力が出てくる気がするのです。 >観念だけでは死んだ宗教 私自身が知識不足なのでよく意味がわかりませんでした。観念でなく、ちゃんと自分の内面に響くものが無いと宗教とはいえないということだったのでしょうか?。 参考になりました。ありがとうございました。

  • jinseiwalk
  • ベストアンサー率23% (372/1603)
回答No.6

心の拠り所に注目したのはいい着目点ですが、宗教というのはもれなくいもしない神や証明されない霊等を信仰の対象物=本尊としていますので危険です。 信じた時点では悩みを乗り切れたかもしれませんが、やがて来る大きな問題には解決できないという難点があります。 そこで釈尊はまず神や霊魂の話をせずに解決する方法を取りましたが、弟子はそれを守らず仏教は全て神を祭っています。 本当の仏法とは神を拝まないもので、その意味での仏を信じればいいのではないでしょうか。完全完璧という仏です。 最初の仏教は神を拝まないから根本仏教が正しいといって小乗教を拝む人がいますが、残念ながら小乗教全ての宗派も神を拝んでいます。この人たちは自己矛盾に気づいてないのが哀れです。 ですので今のところ個人で完璧を仏としてそれを拝むのが一番のようです。

hoshifuru2
質問者

お礼

>宗教というのはもれなくいもしない神や証明されない霊等を信仰の対象物=本尊としていますので危険です。 科学的に証明されずあまりにも現実帯びてないので、疑いがあり信じられないし、価値が感じられないということなのでしょうか?。 私も、どちらかというとあまりにも現実帯びてないものに対して疑ってしまう面はあります。しかし、実際今の世の中は苦しいことも多いし、人って9割型失敗するものだと私は最近思っています。ただ、やはり失敗してはいけない面で失敗すると将来が危うくなることも起きて来るのも事実です。そんな中で耐え切れる精神力があればいいのですが、直そうとしても私には弱い面があるので、時には凹んでモチベーションが続かず物事がうまく進まなくなってしまいます。 >今のところ個人で完璧を仏としてそれを拝むのが一番のようです。 仏法って仏教系は大体いいますよね。完璧を仏として拝むとは、仏話を聞きに行って、自分自身の中で仏様を信じることが大事ということでしょうか?。宗派とかに縛られ、会員になるとかではなく、自分の中で信じればそれでよいということでしょうか?。すみません。知識不足でわかりませんでした。コメントありがとうございました。

  • minumteh
  • ベストアンサー率21% (43/196)
回答No.5

「すがる」という捉え方の一点だけが、ちょっと気になりました。 私の感覚で申し訳ありませんが、もし率直に言わせていただいてもよければ、 違うのではないかなと思います。 そこで、恋人や信仰を持っている人たちを、よく見直してみてほしいのですが、 本当に、それらにすがりついているでしょうか? あなた自身も今、奮起しようと取り組んでいるわけですが、 それは、すがる心とは反対向きの、心の動きではないかと私には思えます。 自分の中に、奮起を妨げるものが、あるように思われませんか? 私も、失敗を繰り返している人間なのですが、私たちのような人間にも、 拠り所・根拠にできるものがあります。それは失敗経験です。 資格取得を目指していらっしゃるから、よくおわかりになると思いますが、 正解がわからない場合の手段といえば、消去法ではありませんか? 失敗経験を、今後の選択肢から消去すれば、成功に近付くことができるはずです。 応援します!

hoshifuru2
質問者

お礼

「すがる」については私自身、言葉足らずでした。すみません。 弱いから、全面的に頼りにして甘えたいわけではありません。ただ、信心があることで、自己愛が満たされ、モチベーションを維持したり、自分を信じつづけられる=自分が強く維持できるのではないかと思いました。自分が強くないと物事うまくいかないし、それは私自身感じています。 >拠り所・根拠にできるものがあります。それは失敗経験です。 失敗してすぐ立ち直れる強い方ならよいのですが、失敗が今後の人生に関わってくるなどになると、私は弱い面があるので凹んでしまってモチベーションや自分の強さが保てなくなってしまうのです。甘いと思われるとそこまでなのですが・・・今の私には出来ないのです。 応援、コメントありがとうございます。

noname#107497
noname#107497
回答No.4

質問者さんの文を読んでいて思ったのですが、 質問者さんは、自分のことを過大評価、過大な可能性を見出していません? 資格などに失敗するのは、質問者さんが、それだけの力しか持っていないからだと思います。 それを踏まえ、人生を歩んでいるようには見えません。 そういったを無視して、無謀なことに挑戦して、失敗して、悩んでいるように感じます。 質問者さんは、失敗の中で、人ってやってもできないとか、人は平等でないとか学ぶべきだと思うのですが、学びましたか? やってもできないこともある。しかし、それでも挑戦するというなら、苦しいことでもできる限りがんばれますし、そこで挫折しても、後悔はそれほどしません。 世の受験や就職に、東大に入る人もいれば、中学生でも解る漢字が読めない人もいます。人それぞれに能力や経験の違いによって、現時点の能力に差があるでしょう。 で、なければ、麻生総理が良いとか悪いとか言われませんから。 >宗教に~すがると、やっぱり人生変わるものなのでしょうか?。 私は、とある宗教にすがり、今に至っていますが、変わりました。でも、入った当初の思いが叶ったかと言えば、そうではありません。やって、考え方がかなり変わりました。 でも、大きく、見て、宗教は危険です。 でも、問題は宗教自体は危険ではないです。 問題なのは、それにすがる人の問題です。 言い方が失礼ですが、きちんとした人間性を持っていないと危険な宗教に魅了してしまいます。 それは、人は、苦しいことがあれば、幸せよりも、楽を選ぶ傾向があるからです。楽が幸福となり、幸福が絶対となる。それが、その宗教は絶対となり、盲目となり、修行とか言って、とにかく実行する。そういった人を何人か見てきました。 重火器を持ったり、有事になれば人を傷つけたり、殺す勢いの人でしたよ。 まあ、それで、本人は欲を満たして満足しているから、仕方が無いという言葉で終わらして言いか解りませんが、人間はそういうものです。 生きるっていうことは、苦しいことや辛いことが付き纏います。 また、確定された未来もありません。そこには、可能性というレベルでしか未来は推測することはできません。 何か大きなことを実現しようとする人は、 実現するという強い気持ちと、 実現の可能性にかける気持ちと、 実現の可能性の確率を少しでもあげようとする努力をする人 だと私は思います。 なんて、いうか、壁にぶち当たることが当然だと思い、その上で実現しようと思っているから、そうそうめげませんし、めげるようだったら、自分には不可能と思ってしっぽを巻きます。巻かない人は、泥沼にはまっていく。 現実は苦しいので、何かにすがるのではなく、 その現実に立ち向かえるように日々、自分を調整していくことが大事だと思います。 >本当挫折感を感じたとき生きていくのがすごい苦しいです 何かにすがっても、苦しい時は苦しいですよ。むしろ、すがっているものなんて、役に立たんとさえ思います。だから、あまり、意味がないような気がします。 それでもすがるとすれば、狂信的な道を行くような気がします。苦しみから逃げるために、それを信じて誤魔化す。私はそれが幸福だとは思いません。 個人的、考えですが、苦しい時は、苦しい時で、とことん悩みます。自分の弱さと直面して、胸を痛めつけます。それで強くなりたい、強くなるためにできる限りの行動していく、そう胸に刻んでいます。 そういった繰り返しで、自分は強い自分を作ってきました。それ以外にも、今、信じてる宗教の部分がけっこうありますけど。 最後に、質問者さんの質問文は、苦しみに耐える強さよりも、「楽になりたい」という気持ちが強く感じます。それでは、たぶん、上手くいかないようが気がします。 楽って、人間を弱くしますから。 以上、参考になれば幸いです。

hoshifuru2
質問者

お礼

>やってもできないこともある。 人によって適性がありますし、そう思います。 >しかし、それでも挑戦するというなら、苦しいことでもできる限りがんばれますし、そこで挫折しても、後悔はそれほどしません。 自分を信じぬく強さ(=私は自己愛が関係していると思うのですが)があれば、頑張りぬけると思います。モチベーションの高さや、精神の図太さは性格等で一人一人違いますが、なんせ恋人に自己愛を満たしてもらっている方や宗教信仰者は私が見る限り、その辺が強いんですよ。 人によれば、学生時代に一番なりたくなかった職業に従事して数年活躍されている方もいます。続いてきたのは宗教と恋人のおかげだと言われてました。 私自身、現実帯びないものに頼るというものもどうかと思いましたし、じゃあ恋人いない人は強くないのか、それはおかしいとも思いました。 しかし、実際、私自身は苦しいことに直面すると自分だけでは自信が持たないというか自己愛がなくなる状況に陥り浮き上がってきにくい時がよくあります。 そんな時、モチベーションを低くしてしまうと、モチベーションを高く維持できる人たちに負けてしまうのです。弱肉強食の厳しい世の中ですしね。そこをうまくクリアするためにも、自分が信じれるものと同時に守ってもらえるものがある人は強いと思います。 >楽になりたい 「すがる」について言葉足らずでした。すみません。強さや自信が欲しいのです。弱くなって甘えるつもりではないです。 >何かにすがっても、苦しい時は苦しいですよ。 味方がいる、一人じゃないと思えるものがあれば人間強いと思います。一人で全て抱え込める強い人って世の中いないと思うんですよ。そんな中で苦しみに耐えていける人と耐えていけない人の違いは、やはり何らかの支えがあるのだと思います。 >楽が幸福となり、幸福が絶対となる。それが、その宗教は絶対となり、盲目となり、修行とか言って、とにかく実行する。そういった人を何人か見てきました。>楽って、人間を弱くしますから。 この2点はかなり参考になりました。そうなっては駄目ですね。一番危ない点だと私も思います。自分も何人かお会いしたことがありますし、被害に巻き込まれたこともあるのでよくわかります。 楽に流されず、人生の支えとなるものが見つかればと思っています。 コメントありがとうございました。

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.3

カナダ在住 キリスト教徒です。(プロテスタント) カナダの人々の視点から見たら、大半が無神論者の日本は特殊です。 が...日本の人はTVに思考操作され気味で、集団催眠みたいに見えます。 TVの内容も、子供の女性ばかりたくさん出てきたり、子供の教育によくない内容が何の事前警告もなく流されていたり、海外の日本人の大きなニュースが完全にシャットアウトされていたり、なんだかおかしいです... こちらでは、何らかの信仰を持っておられる人が多いです。 キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教などが多いです。 もちろん、無神論者の方、信仰の浅い方もたくさんおられます。 宗教の信仰は、法律だけでなく、国民の意識のレベルで尊重されています。 教会のサービスの例 日曜礼拝、聖書の勉強会、悩みを祈りあうグループ、 聖歌隊、持ち寄りパーティー、バーベキュー、旅行、 クリスマス・イースターなどのイベント、 独身者の集い、無料か安価の英会話クラスなど。 個人的に牧師さん、または勉強会の先生などに、悩みを聞いてもらったりもできます。 依存症克服の12ステップ、という勉強会などもあります。 心のよりどころです そして、生き方がわかるようになりました どんなに他人に非難されようが、病気になろうが、 神さま、イエスさまを信じて、安心して生きていけますし、 安心して死んでいけます。 そして、自分がくじけたときも、助けてくれる仲間がいるので心強いです。 宗教はいろいろありますが、一つだけ言いたいのは、 やたらと勧誘?が激しいところは、あやしいと思います。

hoshifuru2
質問者

お礼

回答ありがとうございます。お礼が遅くなってしまいました・・・。 やっぱり、多少なりとも心の拠り所になるようですね。 >どんなに他人に非難されようが、病気になろうが、安心して生きていけますし、安心して死んでいけます。 強いですね・・・感心します。 この世に信じきれるものってない気がします。結局、自分が物事等に対して信じきれるかどうかだと思うんですよね。うまく転ぶのも自分次第というか。ただ、強い人間ならいいんですが、苦しい際とか、自分が弱ければ耐え切れなくなるんですよね。これは、大変悲しいことです。 だから、信心で強くなれるのは良いことだと思います。ただ、信仰心は、自分が信じたいから信じるわけで、特にノルマ制のある所、強制が凄い所(=やたら勧誘する所)は私も疑ってしまいます。 >日本の人はTVに思考操作され気味で、集団催眠みたいに見えます。 私は、日本にいてもそう思う時ありますよ。少し前の日本芸能界覚せい剤関連の話題は本当にマスコミに踊らされてると思いました。カナダでは特にそう思うものなんですね(汗)。それってバカに見えるでしょうね。参考になりました。ありがとうございます。

  • kyhr1688
  • ベストアンサー率20% (100/489)
回答No.2

はじめまして。 まあ、質問者さんのような状態に陥ったときのために宗教はあるのかもしれませんよね。 それは悪いことではないように思うのですが、問題は 「宗教にすがって生きていくこと」を質問者さんが「良し」と思うかどうかですよね。 もっと言えば、宗教にすがって生きていく人生を歩みたいのか? ってことで、それでよいのなら悪いことではないと思いますよ。 私ごときが質問者さんに明確な答えが出せませんが、私自身は、恋愛にも宗教にもすがって生きていません。 その代わり自分自身を過大評価せず、身の程を知って、自分の居るべき場所で気楽に生きているからなんでしょうけどね。 がんばっている人に「ガンバレ」とは言いません。 もうちょっと、肩の力を抜いて生きてみてはいかがでしょう?

hoshifuru2
質問者

お礼

お礼がおそくなりすみません。 >自分自身を過大評価せず、身の程を知って、自分の居るべき場所で気楽に生きているからなんでしょうけどね。 確かに自分の能力、体力、精神力にあった場所で過ごすと楽だと思うのですが、何処へいっても人間関係等で厳しいことにぶち当たるのは目に見えていますし、いつかまた凹みそして起き上がれなくなった時に失敗すると思うと怖いです。失敗出来ないことも多々ありますよね。そんな時に失敗するとやっぱり挫折感を感じて、自分が信用出来なくなりますね。 >もうちょっと、肩の力を抜いて生きてみてはいかがでしょう? そうですね。自然体の自分でやりたいように過ごすよう心がけると強いかもしれませんね。自分がこれだと思えるものを探したいです。 すがるとは、あまりいい意味で使われることばではないみたいですね。使い方を誤りました・・・。自分が強くなるためにも、優しい人であるためにも自分が信じれるものが欲しかったのです。それは、物とかでなくて信仰心や恋人の愛情なのではと周りを見てもそう思ったので質問しました。 回答ありがとうございました。

関連するQ&A