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「自尊心」と「プライド」の違い
カテ違いならごめんなさい。 ”好きな人に告白したいが振られたらかっこ悪いから 相手から告白してくれるまで待つ” というのはプライドが高いのか、自尊心が高いのか どちらでしょう? 私は「プライドが高い」に分類すると思うのです。 そうなら「自尊心がある」とはどんな例えがあるでしょう? こちらはなかなか難しくて思いつきません。 よろしくお願い致します。
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No.8、9です。丁寧なお礼をありがとうございました。 普段、私はプライドと自尊心を明確に使い分けていたことがなく、自尊心の方がややプラスイメージがあるぐらいにしか考えていませんでした。 文化や精神医学といった立場から、言葉の意味も違ってくるということで、もう少し調べて、今回は別の参考資料を基に見解をまとめてみたいと思います。 内容は、前回の自分の回答や他の回答者の方と被っている面もあり、長文ではありますが、よろしくお付き合い願います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B0%8A%E5%BF%83 自尊心は、自己肯定感を持つためには必要不可欠な感情であるといえるようです。 なので、自尊心がしっかりとしていないと、嵐の中の小舟やマストの折れた船のようになってしまうといえると思います。 逆に、自尊心がしっかりしていれば、マストはたやすく折れず、舵取りもこなせて、目的地の港にたどり着けるといえましょう。 自尊心は、その人がその人らしくあるために必要な感情で、自尊心がしっかりしていると、逃避や依存に陥らずに重責に耐えたり、達成意欲も湧くのだと思います。また、そのような状態にあれば、心が大きく乱されたりすることもなく、余裕が持てるので、自分自身も他者も受け入れていくことが出来るのだと思います。 言い換えれば、「自尊心がある」とは、“自分はこの世界に受け入れられていて、自分自身もこの世に必要な存在であると自信を持ち、自分を取り巻く他者を含めた世界をも受け入れること”を言うのだと思います。 それは、自尊心の定義に“傲慢、自惚れ、驕りとは異なるもの”だとあるからです。この感情が強いと他者を受け入れることは出来ないと思います。 また、「自尊心があれば」何か行動を起こすときも、状況判断能力も当然ながらあると言えると思います。自信がなければ判断は付きかねるものだからです。 ただ、上記サイトに拠れば精神医学的な「自尊心」とは、“ありのままの自分を尊重し受け入れる”ということであり、世間一般でいう「向上心」や「上昇志向」とは異なるのだそうです。 ですから、“身の丈を知ると言う感情を伴う言葉”なのだと私は解釈しました。 自分を大きく見せようとすると、それは、「自尊心がある」とは言わないのだと思います。 また、自尊心が欠如すると、鬱病のような精神疾患になりやすいのだそうです。 逆に考えると、自尊心があるから意欲が湧き、自分を信じることも出来、目標を持って何かを達成したり、人生を楽しむことも出来るのだと思います。 その時その時の自分を大切に思い、過去の自分、今の自分、未来の自分、それぞれを大切に思うことが出来ると「自尊心がある」と言えるのだと思います。 また、プライドについてですが、No.10さんが仰るように、キリスト教の影響が濃い英語圏では、「pride」 は、キリスト教における「七つの大罪」の一つ(和訳では傲慢・高慢)であり、肯定的な意味として使われないことがあるということです。 また、「七つの大罪(七つの罪源)」とは、「罪」そのものというよりは、“人間を罪に導く可能性があると(伝統的にキリスト教徒により)みなされてきた欲望や感情のこと”を指すのだそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA 傲慢と和訳されることもある「pride」ですが、傲慢とは、 “高い自尊心、他人より重要、魅力的になりたいという欲望、賞賛をそれに値する者へ送ることの怠慢、過度の自己愛などを指す”とあり、 キリスト教においては、 “旧約聖書の『箴言』に「奢る者は久しからず」(Pride goes before a fall)という言葉がある。*pride(或いは虚栄心vanity)は、自分の能力に対する過信(それは、神の恩恵を理解する上でのさまたげとなる)を意味する” とあります。 〈 *注釈:参考資料の原文には自尊心とありましたが混乱するので「pride」としました 〉 傲慢は、仏教では、 “煩悩にあたるもので、慢とは自ら他を比較して軽蔑し、みずからを恃み高ぶることと、戒められている”のだそうです。 キリスト教における「pride」にも通じるものがあると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%B2%E6%85%A2 結論として、やはり「pride」には“他者と競って勝ってこその自分”という側面があると思います。適度な競争心なら良いけれど、自分に都合の良いように事実を歪めるような方向に進むと、自尊心を失う危険性があると思います。 何故なら自分を過信しすぎると、プライドが激しく傷ついて、自分を見失うことがあるからです。 「自尊心があれば、自分は自分だから、本当の自分は変わらずそこにあるので過度に人を貶めることもなく、プライドが傷つくこともなく、自分を失わない」のだと思います。 そして、No.8 の回答ですが、結末を書いていませんでした。 “好きな人に告白したいが、今の自分では充分ではない(身の丈を知っている)から、自分自身の精進(=自分との戦い)を怠らずに相手を振り向かせることが出来るよう、努力をし続けよう。そして精一杯やれたと感じたら必ず打ち明けよう。結果はどうなろうとも受け入れよう。努力した自分を認めよう” 精神医学的に行くと模範解答ではないかもしれませんが、自尊心があれば、自分で自分に納得していなければ打ち明けることは出来ないと思い、前回はあの様な回答になっています。 相手の人を大切に思うのなら、打ち明けることが相手にとって負担になることは避けたいので、自分に納得した上で打ち明けたいと思うのではないかと考えたからです。 現実には一目惚れをして、いきなり打ち明けるということは滅多にないと思います。 自分も相手も大切にしたいという思いが、バランスが取れた段階で告白できるのではないかと思います。
お礼
ありがとうございます。