- ベストアンサー
人間を含め、なぜ動物はすくみ上がるのでしょうか?
人間を含め、なぜ動物はすくみ上がるのでしょうか? 下記に疑問を箇条書きにして書いてみました。 ・元々生物の本能として不要なはずの捕食動物に対する自らの「すくみ」はなぜあるのでしょうか? ・すくみ上がる/すくみ上がらないの境界線は捕食動物と被食動物の関係のみに当てはまるのでしょうか? ・すくみ上がる元々の発端はアドレナリンの過剰供与という認識で合っているでしょうか? 質問攻めで大変恐縮ですが、どなたかご存知の方、あるいは関連する情報をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教授頂ければ幸いです。 宜しくお願い致します。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 被食動物に本能行動として備わった静止行動は「無条件反射」として発生するものであり、この場合は捕食者など「特定の刺激」に対応するものと考えて良いと思います。 猛禽類などの餌となる小動物は、その声や姿に対して一斉に動かなくなります。但し、これは動くと見付かってしまうからです。ヤマネコは500m先を見通すことができますが、相手が動かない限りそれを獲物と判別することができません。食物連鎖の頂点である肉食動物にもこのような弱点があり、ならばそれは「小動物の防衛手段」として必要に応じて獲得された脳機能ということになります。そして、これは「本能行動としての無条件反射」ですから、我々が体験する「竦み」とは種類がちょっと違います。 人間にもまだこのような反応が残されているかどうかは分りませんが、通常我々が恐怖などによって体験する「竦み」といいますのは、こちらは純粋な本能行動ではなく、そのほとんどが「情動性の身体反応」と考えられます。 小動物の静止行動といいますのは本能行動を実行するための生命中枢の指令によるものです。これに対しまして、我々の脳内で恐怖や不安といった情動反応を司るのは「大脳辺縁系」という、学習機能を持つもう少し上位の中枢です。 このような情動性身体反応といいますのは「ストレス対処反応」として発生するものであり、我々の脳は遺伝的に定められた反応基準ではなく、「過去の学習結果」や「生理的な苦痛」などをストレスと判定しています。ですから、ここでは特に捕食者など特定の刺激との対応関係はなく、生後環境から獲得された様々な学習結果に基づいてそれを危険と判定することができます。 大脳辺縁系の情動反応はそのまま運動神経や自律神経など、身体の末梢系に直接出力されます。これによって引き起こされる様々な身体反応を「情動性身体反応」というのですが、これがストレス刺激であった場合は直ちに交感神経系の方に活性の指令が下され、心拍・呼吸の増加などと共に「筋肉の収縮」が起こります。 筋肉といいますのは縮めるのと反対の側は伸ばさなければなりません。通常、運動筋といいますのは運動神経の命令によって交互に動いているわけですが、それが交感神経の活性化によって一斉に収縮してしまいます。当然、思うように動けませんよね。我々が「竦み」と感じているのは恐らくこれではないかと思います。 交感神経によって筋肉が収縮するのは立毛筋・汗腺を締めたり血管の血圧を上げるためです。そして、このような交感神経の活性化による一連の生理的な変化は、これはいざストレスに対処するための準備と考えられます。 では、我々は一瞬、次に何をしたら良いのか分らなくなってしまった状態も「立ち竦む」などと表現します。ですが、この辺りはもう精神的な要素がだいぶ大きくなると思います。また、高い吊橋を渡ろうとして腰が引けてしまいますと中々足を前に出すことができなくなります。果たして、次に何をすれば良いのかは分っているのに怖くてできないのです。 このように、捕食者に対する動物の本能行動と我々が普段に体験する「竦み」といいますのは構造が違います。ですから、「蛇に睨まれた蛙」などと良くいいますが、これは小動物の生物学的習性ではなく、我々人間の価値観に基づく単なる憶測だと思います。ヘビを怖がるためにはカエルは自分の死を意識することができなければなりません。ですが、常識的に考えてこのようなことはカエルには無理です。 >・すくみ上がる元々の発端はアドレナリンの過剰供与という認識で合っているでしょうか? どうなんでしょうか、このような話はちょっと聞いたことがないです。 自律神経系において交感神経の伝達に使われているのは「AD(アドレナリン)」です。「過剰供与」というのがどのような状況なのか良く分りませんが、これが「過剰分泌」ということになりますと、それは竦みの原因といいますよりは「自律神経の失調」ということになるのではないでしょうか。 では、ストレス対処物質としてのADは副腎髄質から分泌されます。身体末梢の交感神経伝達はこの副腎ADによって亢進されるのですが、これは体液循環を介して行われる投射ですので効果が現れるのに数分を要します。従いまして、咄嗟の竦みとはまず関係がないと思います。そして、最初に述べました小動物の行動抑制は、こちらはそもそも「統率の執れた本能行動」でありますから、ここで何らかの伝達物質の過剰分泌が起こっているというのはちょっと考えられないです。
その他の回答 (3)
- ruehas
- ベストアンサー率68% (816/1194)
こんにちは。 #3です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。 前回答では、被食動物の「防衛本能」と我々が体験する「情動性身体反応」の違いに就いてご説明致しました。 本能行動には危険から身を守るという明らかな生物学的利益が対応します。では、我々人間には逃げるとか身を隠すといったより有効な回避手段があるのにも拘わらず、どうして一時的な行動不能状態を執る必要があるのか、私はこの点に就きまして質問者さんの疑問にまだきちんと答えてはいません。中々難しいですね。 その前に、前回では説明が不十分でしたが、「情動性自律反応としてのすくみ」といいますのは我々人間だけの特徴ではありません。これは宜しいでしょうか。情動反応といいますのは大脳辺縁系で発生するものであり、これは哺乳類や鳥類では人間と同様に十分発達しており、他の高等動物にも「恐怖によるすくみ」というのはあるはずです。 質問者さんの要求とはやや異なるかも知れませんが、ここでは執り合えず「すくみの学習」に就いて整理をします。 生得的な「本能行動」と大脳辺縁系の「情動行動」の違いといいますのは、本能行動では「遺伝的に定められた反応基準(無条件反応)」に従って判定が下されるのに対しまして、情動行動では「生後の学習結果(条件反応)」を用います。 本能行動では入力に対する判定の結果が遺伝情報として予め定められているため、それ以外の反応を発生させることは絶対にできません。小動物はそのたったひとつの方法で生き残ることに成功し、それを遺伝情報として引き継いだのだと思います。これに対しまして、「学習行動」では生後環境から獲得した様々な体験を基に判定を行いますので、状況に応じたより多彩な行動の選択が可能となります。 簡単に伝達経路は以下の通りです。 「入力―情動反応―自律神経系」 「筋収縮」といいますのは交感神経系の亢進によって起こると述べました。これによる「すくみ」は「自律反応」です。 ここで、生後の学習結果に基づいて情動判定を行っているのは飽くまで大脳辺縁系であり、それ以下の自律系の神経配線は遺伝的に固定されているものであり、ここに条件反応は獲得されません。従いまして、大脳辺縁系にそれなりの反応が発生するならば「情動性のすくみ」は発生してしまいます。 これがどういうことかといいますと、つまり我々の脳は生後環境からすくみを学習したのではなく、「何に対してすくめば良いのか」という判定を学習していることになります。 生後環境において動物が何らかの苦痛を体験したとします。苦痛に対する遺伝的判定はほとんどの動物で不利益と定められていますので、ここでは無条件反射として確実に回避行動が選択されます。そして、これによりこの判定結果が大脳辺縁系に学習されます。 では、次に同様の事態に遭遇した場合、この学習結果に基づき大脳辺縁系に「恐怖という情動」が発生します。これにより、動物は自らが苦痛を味わう前に回避行動を選択することができるようになります。 本能行動では実際の苦痛が与えられなければ回避行動を選択することはできません。我々はすくみを学習するのではなく、恐怖を学習するのです。これが「恐怖の生物学的意義」ですね。 では、怖いと思ってすくんでいる暇があるならばすぐに逃げた方が良いのではないか。私もそう思います。 大脳辺縁系からの指令によって交感神経系が活性化されるのは、それは心身の生理状態を亢進させ、与えられた事態に対処するためです。残念ながら私はこれ以外の答えを知りません。「筋縮」はこれによって全身に起ります。 筋肉を収縮させることにより、血管の血圧が上がりますと、細胞に酸素や栄養分が供給されやすくなります。もしかしたら弛緩させるよりは衝撃に強く、次の行動も迅速なのではないでしょうか。 憶測はともかく、私の知る限り交感神経系の活性化は次の行動に備えるためであるというのは、これは一般的な認識として間違いないと思います。ですから、それで一時的に行動が制約されたとしましても、次に適切な行動が選択できるならばそれほどの問題はないと思うのです。 「筋縮」って本当に起るのでしょうか。 起ります。 車で、危ないと思って急ブレーキを踏むとき、手はハンドルを握り締め、身体は硬直しています。ブレーキを踏むことができるのは、脳がそれを繰り返し学習しているからです。 同様の体験が学習されている、あるいは何らかの解決手段が見付かる、このような場合は脳内に「動機」が発生します。つまり、脳内でも状況が変わるわけです。これは大脳辺縁系の判定に従って起ることですから、大脳皮質が無意識状態でも行動は実行に移されます。恐らく、これが切っ掛けになって行動抑制は解除されるのではないかと思います。ですが、何もできなければパニック状態です。極度の緊張でこれを体験するひとは幾らでもいると思います。 怖いと思ったら逃げるなり隠れるなりするのが動物の本質です。交感神経はこのために活性化されます。ですが、我々人間の社会では中々そういうわけにもゆきません。 何かの発表会で緊張してしまい、足がすくみます。この苦痛から逃れようとするならば発表会を放っぽらかして家に帰ってしまえば良いのです。ですが、そんなことはおいそれとできることではありません。逃げ出したい、脳内には既に動機が発生しているのですが、人間の社会ではそれを行動に移すことが許されないのです。自律神経系の活性化による緊張状態は出口のないまま継続されることになります。これが「社会性ストレス」ですね。 我々動物にとって「すくみ」とは元々自律反応として備わったものです。躊躇する必要があるからすくむのではありません。行動が抑制されるために緊張状態が継続するのです。 我々が生後環境から学習するのは自分にとって何が不利益であるかということです。これにより、与えられた状況に応じた適切な行動を選択することができます。ところが、我々人間の社会環境といいますのはたいへん複雑でありますから、これだけではとても対処できません。このため、しばしば情動行動と理性行動が対立し、不必要なストレスを発生させてしまうわけですが、これが人類の苦悩、即ち「悩み」であります。
お礼
再度の回答頂きありがとうございました。 私がかなり無茶な要求をしたかな・・・と反省していた所に回答頂きましたので有難い限りです(無茶ぶり申し訳ございません)。 頂いた回答から想像するに、危機に対する克服方法を幼少時に学習できなかった事が原因なのかな、とも思いました。
ずれるかもしれませんが、動物が対応できない事態に直面した時、現状を少しでも変えないのが最良の対処法であるというのはむしろ原理的な感じがします。逃げないと食べられてしまうというような場合でもおそらく下手に逃げるとさらに捕まってしまう確率が高くなるということがあるのではないでしょうか。また最後の反撃の準備という側面もあると思います。
お礼
回答ありがとうございます。 食べられる為、食物連鎖を保つ為にすくむ、という意味があるかな、と予想はしているのですが、そうではないとのご意見ですね。
- sanori
- ベストアンサー率48% (5664/11798)
こんばんは。 最近、何かのテレビ番組で 「怖いものに出くわしたとき、なぜ、鳥肌が立つのか?」 というのをやってました。 鳥は鳥肌を立てることにより、羽根などの体毛を逆立てます。 逆立てることにより、相手を威嚇します。 その名残りが、人類にも残っているということだそうです。 「すくむ」というのは、鳥肌を立てるためのことではないでしょうか。 ハズれてたらごめんなさい。
お礼
回答ありがとうございます。
補足
回答ありがとうございます&御礼遅れて申し訳ありません。 私がruehasさんに回答頂くのは三度目か四度目になるのですが、 度々の良質の回答を頂き感謝致します。 御礼内容とその補足が乱文となってしまい、大変申し訳ございませんが、何卒ご了承頂きたく宜しくお願いいたします。 「すくみ」が我々人間のDNAにプログラミングされている行動でない事については理解致しました。後天的な学習により獲得されたものだという理解をしました。生物学への質問として一番良い回答を頂いたかと思います。 ただ、頂いた質問から更に疑問が出てしまいます。「ではどうして、どうやって人間が『すくみ』を学習するのか」という点に頭の中で繋がっていってしまうのです。 1.どうして人間が「すくみ」を学習するのか。 社会的には不要な筈の「すくみ」を学習しない人間は見ないと言って良いくらい、必然的に人間の成長と共に備わる「すくみ」ですが、なぜ「すくみ」が人間に備わるのでしょうか。素人目には生物としての、あるいは社会に生活する人間としての学習の必然性が無いように思われますが、それでも獲得してしまう負の要素の性質は、どのような社会メカニズムにより形成されてしまうのかに興味が沸いて来ます。 2.どうやって人間が「すくみ」を学習するのか。 上記と重複する部分もありますが、すくみを学習するプロセスがどうなるかという事に興味が出てきています。これは児童心理学などが当該するでしょうか。 ほぼほとんどの人がすくむ事が可能だと思うのですが、ある社会的プロセスを経てこの性質が形成されるのであれば、逆に言えば、その機会を排除・あるいはワクチンのように克服と勝利を与える事によって、すくまず、困難を乗り越える力を獲得させる事も可能な筈です。 これはDNAにプログラムされていなくても、人間社会がひとたび構成されると、その結果として「すくみを学習してしまう機会」を必然的に生産してしまうからでしょうか? (そして、今の学校教育はそうした危機と克服を社会システム的に与えているように思いました)。 できれば、のお願いなのですが、ここにご意見などを頂ければ幸いです。 ※ご負担になるのであれば結構です。 とまで書いたのですが、これらは社会学的、哲学的な方面への質問になりますので、カテゴリー違いだから質問を切りなおすべき、というご指摘があるかもしれないのでいったんCloseさせて頂こうかと悩んでおります。 ※質問を切りなおした時に、ここのQAを引用させて頂いても宜しいですか?