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ブッダの性愛観は 間違っていませんか?
ひとまとまりとなった次の発言をめぐって問います。 ▲ (スッタニパータ§§814-823) ~~~~~~~~~~~~ 814 長老ティッサ・メッテーヤがいった、 ──きみよ。性の交わりに耽る者の破滅を話してください。あなたの 教えを聞いて、われらも遠ざかることを学びましょう。 815 師(ブッダ)は答えた、 ――メッテーヤよ、性の交わりに耽る者は教えを失い、邪まである。 これはかれのうちにある卑しいことがらである。 816 かっては独りで暮していたのに、のちに性の交わりに耽る人は、 車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを卑しい凡夫 と呼ぶ。 817 かってかれのもっていた名誉と名声とはすべて失われる。このこと を見て、性の交わりを断つことを学べ。 818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、貧困者のように考えこむ。 このような人は、他人のとどろく名声を聞いて恥ぢいってしまう。 819 そうして他人に詰(なじ)られたときには刃(悪行)をつくり、 虚言に陥る。これがかれの大きな難所である。 820 独身をまもっていたときには一般に智者と認められていた人が、 ついで性の交わりに耽ったために、愚者のように悩まされている。 821 聖者はこの世で前後にこの患難のあることを知り、堅く独身をま もり、性の交わりに耽ってはならない。 822 (俗事から)離れることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のこ とがらである。(しかし)これだけで自分が最上の者だと考えてはなら ない。かれは安らぎに近づいているだけなのである。 823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて行い、流れを 渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛された生ける者どもはかれ を羨むのである。 と。 (中村元訳:ブッダのことば――スッタニパータ―― 第四 八つの詩句の章 七 ティッサ・メッテーヤ ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 疑問点です。 1. 説くべき理論は 一般の人間関係についてであり 両性のニ角関係については その特定の対(つい)関係に入るときの対話(口説き)のあり方までである。 つまりその中身をまづ別にしてそれでも 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか? 2. 断り書きです。ブッダの性愛観はその中身も間違っているように考えます。ただしそれは (1)の考えによれば 無記とすることが正解だと見ます。 つまり 回答の中で触れてもらってもかまいませんが そしてそれなりに応答するつもりでいますが そこに焦点を当てようとは思っていません。
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- magga
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ブッダの一般的(在家に語る)性愛観は「責任」と「貪り」の問題だと思います。 「相手の命に責任を持っているか。相手の許可があるか。」 「貪り、自分を落としいれてはいないか」 参考になれば幸いです。 ULRも参考になると思います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> 言いかえるなら もし仮りにこの詩句が ただ修行僧のみのための道しるべであるとすれば 一般には別の道しるべがあるのか。という問題にもなります。 修行者としての比丘・比丘尼は 在家の優婆塞・優婆夷よりも戒律が多いのでしょうか。僧団の決まりとしての律が余分に持たれるだけなのではないでしょうか? <<< 中村氏訳の「スッタニパータ」(岩波文庫)をお持ちでしたら、回答はすでに中村氏によって記述されています。 >>> 41の註p.256,および44の註p257-258 最初期の仏教においては、独り修行するということが、とくに尊重されていた。 (中略) 以上は 大体、仲間から離れて独りで暮らすことをたたえているのである。これはインド人の伝統的な思惟とも関係がある。(中略)ところが原始教典でも、一方では孤独なる修行を推奨しながらも、他方では共同生活も必ずしも否定すべきではないことを認めており(後略) <<< また、 >>>74の註,p.264 ここでは、真の修行者は愛著(raga)と憎悪(dosa)と迷い(moha)とを絶つというのであるが、(後略) <<< とあり、「真の」修行者という限定を課しているところもあります。 したがって、時代背景と風土および思想背景を考慮して読む必要があると思います。 また、私が購入した版では 814 ティッサ・メッテイヤさんがいった。---「きみよ。淫欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」 と「さん」付けになっています。 註をみると、用語から、ゴータマ・ブッダと同格の扱いが為されているとのことです。 「出家して修行したい」という意図がよみとれますし、そういった場合に限定してのやり取りとして(普通に解釈するならば)、(当時の背景を顧慮して)何ら問題ない記述だと思います。 そもそも、八つの詩句の章は、そういった(時代背景からも、出家して修行する)人々を対象にしていると思います。
お礼
k_jinen さん ご回答をありがとうございます。 k_jinen さん あなたとはここまでやり取りを重ねて来ているからには ほかの回答者や訪問者の方々にとって少々分かりにくくなっても ずばり表現してまいります。 ★ 時代背景と風土および思想背景を考慮して読む必要があると思います。 ★ そもそも、八つの詩句の章は、そういった(時代背景からも、出家して修行する)人々を対象にしていると思います。 ☆ だったら こうなりますか? 1. 最初期のおしえは ただ過去の遺産として・記録としてのみ遺されているという意味ですか? 2. つまり削除してもいいほど現代にとっては意味のないものだという意味ですか? 僧侶も一般には妻帯していますから 修行者専用というおしえも無意味でしょう。 3. 間接的な問題ですが ただしもしこのように原初のおしえが無意味だと見なされるものもあるとなれば このような無意味だという見直しは ひとによってまったく自由におこなうことが出来るとなります。それでいいのかという問題が起こります。 ――これは ブッディストや研究者のあいだで念入りに検討されるべきことでしょう。したがって あなたのように 時代背景や事情を考慮すべきだという意見は そうかんたんに言えばいいというものでもないでしょう。どうですか? 要するに今回のご回答は ○ ブッディスムは あいまいである。 ☆ と言っているのみです。しかもそのことは ブッダの出たときから分かっています。 ○ ブッディスムがいかにくだらなく だらしないかを証明するご回答である。 ☆ こう受けとめました。 * スッタニパータは 改訂がなされたようです。わたしの引用は 旧版からです。
>ブッダの性愛観は 間違っていませんか? はい、間違っていないと思います。 古代の外国で成立した宗教であること、他宗教との戒律の規定の差異などから申し上げている次第です。 まずは「間違い云々」ではなく「いかに信じ真理を見出せるか」、そして成立状況を十分に推察、理解することが大切ではないでしょうか。 この観点から、このたび河合隼雄×中沢新一両氏の対談の引用抜粋の許可をいただきたく、新たに寄稿のご了解を願い上げます。 前提条件:『人間の内面と外面とは 総合されうるか』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5006413.html?ans_count_asc=0 >ふたつあります。 >その後の経過を考え合わせても合わせなくても わたしの質問へのかかわりから訣別したという意思表示があったと受けとめます。そしてそのままを受け容れます。 >次の事柄をいっしょに捉えるなら これでいっさいのかかわりは無くなったと認識します。 >わたしはいつでもどこでも誰に対してでも《恩を売った》おぼえはありません。 >◆(No.13) ご恩は決して忘れません。 >☆ この意志表示は わたしにとって無効であると宣言します。返してくれ・あるいは覚えておけと言った覚えはないからです。 上述のご主張、確かに承っております。 したがってわたくしと致しましては、双方において無関係の姿勢を貫くつもりでおりました。 しかしながら、先日の別質問にて「のっぺらぼうのもやもや史観よ」と間接的に自らを揶揄されたため、大変困惑致しております。 第一わたくしはポスト構造主義などを「信仰」するはずもありません。 長男の嫁として共に曹洞宗の先祖のお墓に入ることは宿命かもしれませんが、これとは別に自らの真理と信仰を希求していきたいというスタートラインに立っております。 実際夫も家族も宗教的には大変寛容で、仮にクリスチャンになっても全然構わない、という鷹揚さです。 また、ポストモダンはむしろ現代世相や文化を考察する≪手段≫として個々のケースで都合良く利用しているに過ぎません。 おわかりいただけますでしょうか。 「答責性、明確性第一主義による対話の放棄」と「若輩者が目上の方を尊ぶ一心で行った挨拶とお礼」とのすれ違いが生じたのかもしれません。 はじめから何も見返りなど望んではおりませんし、インタムライスムを四方から攻撃していたのでもなく、僭越ながら1ミクロンでも発展を願って拙文を寄せた次第です。 わたくしは喧嘩がしたくて哲学カテに参加しているわけではありませんし、解ける誤解があれば解きたいと願っているに過ぎません。 これにより仮に引用文の寄稿を御了解いただけるのでしたら、2~3回に分けて上述の対談文を転載させていただくつもりです。 さもなくば双方がおのおのについて、他質問にて今後いかなる示唆、暗喩も行わないという最終合意の下、今後一切のかかわりをそちらのご希望通り叶える所存でおります。いかがでしょうか。 貴回答を願い上げます。 一部引用: 中沢──…日本では浄土真宗などが妻帯も肉食も認めてきましたし、戒律を否定するという方向で大部分の仏教徒がやってきました。そのために小乗仏教の戒律の問題は、それほど真剣に取り上げられてこなかったのですが、ブッダの頃もそのあとも、仏教の教団にとって最も重大な問題とは、実は戒律の問題であり、性の問題でした。 一つきょうはこれを取り上げたいと思います。 河合──ええですなあ。 中沢──ブッダの頃の仏教教団は、独身者だけの集団でした。この独身者たちの行動の基準として、いろいろな戒律が定められ、それを集めて『律蔵』がつくられました。 その内容たるや、あまりに面白いものなので、紹介しないでおくのはもったいないと思って、パーリ語のできる友人に頼んで、さわりを翻訳してもらったしだいです。 どう面白いかと言えば、内容がシュールレアリズムです。 初めてその内容を知ったとき、僕は思わず山上たつひこの『喜劇新思想大系』というまんがを連想してしまったくらいです。 若い青年たちがむんむんしながら、「空」の勉強をしていますと、勉強ばかりで運動をあまりしませんし、どうしてもエネルギーは性的想像力のほうにおもむきがちです。 すると、ふとオナニーのことなどを考えてしまう。 それもいろいろと突拍子もない方法のやつを考え出してしまうんですねえ。 たとえば、墓場へ行って、女性の骨を掘り出してきて、それを粉にして、こねて女性のものをこしらえていたしてしまう、なんて人もあらわれました。 で、かならずそれをたれ込む奴がいて、そのたびにブッダは実にくだらない告発に裁定を下さなければならなくなる。 そのやり方でしたのなら教団追放、でもこっちのやり方ならまあいいか、とか。 本当にブッダもご苦労様という感じなんです。 これだったら、初転法輪なんかしなければよかったのに、と思うくらい。 それにしても、インド人のこの方面の想像力は、われわれの想像力などにはついていけないほどのすごさがあります。 まったく木の股や地面の窪みを見ても思いついちゃうんですから。 あまりに奔放な内容なので、日本ではちゃんと紹介がされていません。 もったいないと思います。 いまの子たちにこれを読ませたら、仏教ファンがぐっと増えると思うのに。 「してはいけないセックスの方法集」とか、「こんなやり方もあったかオナニー集」とかやったら、仏教は古色蒼然としたものなどというイメージは、一気に吹き飛ばされてしまうと思います。 でもいっしょに、いままであった仏教まで吹き飛ばされちゃったりして。 河合──これはしてもいいというのもあるんですか。 中沢──何がですか。 河合──性に関して。 中沢──まあ、基本的にいいオナニーというのはないんですけども(笑)、その悪さに程度の違いがあります。 基本的には、それで気持ち良くなったかどうかが、判断基準になっているようです。 それを具体的にいちいち規定していくんですね。 河合──なるほど、なるほど。 それは面白いね。 上位概念というのはなかったのかなあ。 中沢──この具体性が仏教の一大特徴だと思います。 ユダヤ教の「十戒」などでも性の規定はありますが、大上段から決めていきますから、いちいちこの体位ならいいけれどもあれはだめというような決め方をしていません。 キリスト教の修道院の規律でも、こういう具体的かつ生々しい記述というのはありません。 そして仏教の場合には上位概念と言いますか、抽象的な規定というのはほとんどなくて、具体的なその場その場のケースごとに、判断をしていきます。 こりゃ一体何だなんだ、というのが、長い間の僕の抱えた謎でした。 河合──驚きですね。 具体的やね。 中沢──ところがある日僕ははたと気がつきました。 ある本を読んでいるときに、「これはどこかで見たな、ああ、そうだ、仏教の『律蔵』だ」と思ったことがありました。 それはシベリアの狩人が熊狩りなどのために山に入っていくときに、守らなければならない行動の決まりを記録した人類学の本でした。 感触がとてもよく似ているのですね。 河合──ええ、ええ。(ご了解がいただけた場合にのみ続く)
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
お答え申し上げます。 ★ 別質問にて「のっぺらぼうのもやもや史観よ」と間接的に・・・揶揄された ☆ この表現を用いたのはわたしに間違いありませんが 誰か特定のひとを《揶揄》してはいないはづです。記憶だけで述べますが むしろ特定と言えば 歌の中の人物に対して言っていたのではないだろうか。――つまりこれはそちらの誤解です。 ★ 第一わたくしはポスト構造主義などを「信仰」するはずもありません。 ☆ これも誤解でしょう。問題になったとは記憶していません。あいまいであったことが 《手段》としての扱いに落ち着いたと記憶しているのみです。 ★ 「答責性、明確性第一主義による対話の放棄」と「若輩者が目上の方を尊ぶ一心で行った挨拶とお礼」とのすれ違いが生じたのかもしれません。 ☆ これは ひとことでは言い表わせません。というよりもこれまでの経過がしっかりと残っておりそれがはっきりと問題とそのありかを示しているはづです。 ひとことで言えば。構造主義による無主体の理論ではないと思いますが 自然科学の理論(例の散逸構造ですね)に拠る自由放任〔と言いますか〕の思想にわたしは真っ向から反対しているという事情です。ひとの自由意志を取り上げない見解に反対しています。→この点については最後にも触れます。 ★ まずは「間違い云々」ではなく「いかに信じ真理を見出せるか」、そして成立状況を十分に推察、理解することが大切ではないでしょうか。 ☆ 近代の夜明けから《無敵艦隊》がどこの誰のもとに移っていくか 移って行った先を押し立ててそれだけで世の中を渡って行こうという〔敢えて言えば〕《性愛観》について ○ そのもとには 《「いかに信じ真理を見出せるか」》の並々ならぬ営為が積み重ねられて来ており ○ その《無敵艦隊》をめぐる彼我の差はいちじるしいものであるゆえ ○ かつては むしろ逆に大東亜の地に暴走したのは そういう《空気》のしからしめるものであったし その後もグローバリゼーションはすべて止むを得ぬ流れでありわれわれの選ばざるを得ない道である。 ☆ と帰結するようなご議論でしょうか。すなわち ○ しかも《古代の外国で成立した宗教であること、他宗教との戒律の規定の差異などから・・・成立状況を十分に推察、理解することが大切ではないでしょうか》。 ☆ という論旨として受け取りますが どうでしょうか。つまりもしそうであるなら 哲学はふふんと一笑に付すでしょう。むろんそういう論旨のもとに世の中を生きている人びとのほうが 責任ある地位についていろいろと社会に貢献しているというのも現実です。 (哲学からは これは揶揄ですし そうでない見地からは ただの犬の遠吠えだということです)。 ★ 中沢なにがしの議論 ☆ につきましてはわたしも読んで承知しております。二点につき反応しますと ひとつは この人間は 絶対としての無根拠としての神のことを知りません。その結果 基本的にブッダないしブッディスムについても何ら有効で有益な見解を持っているとは考えません。 もうひとつに ご紹介の《戒および律》についてそれが 質問にどうかかわるのかが分かりません。むしろ――かかわりがあるとするなら―― そういう笑い話が実際に現われてくるというのは ブッダが性愛観をめぐって 要らんことを説いたからだという質問趣旨を証明しているのではないですか。 ★ わたくしは喧嘩がしたくて哲学カテに参加しているわけではありませんし、解ける誤解があれば解きたいと願っているに過ぎません。 ☆ それがわたしの《誤解》ではないとはっきりしたというのが これまでの経過でした。中ほどで最後にも触れますと述べた点ですが この見方は変わっておりませんし 今回述べて来ましたように 変わる要素はありませんでした。
- Y Y(@yy8yy8az)
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投稿した後で、bragelonneさんが、貪りという表現を使っていることを知りました。
お礼
yy8yy8az さん 《中庸》説では ただの道徳であり 単なる世間話になってしまいませんか? 《欲望》の章がありました。掲げます。 ▲ (スッタニパータ§§766-771) ~~~~~~~~~~ 766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまく行くならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。 767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは矢に射られたかのように悩み苦しむ。 768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、諸々の欲望を回避する人は、正しい念(おも)いがあり、この世でこの執著をのり超える。 769 田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求める人がいると、 770 無力なるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。 771 それ故に、人は常に正しい念いをたもって、諸々の欲望を回避せよ。船のあかを汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、流れを渡り、彼岸に達した者となれ。 (第四 八つの詩句の章 一 欲望) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ やはり ▲ むさぼり(769) ☆ の問題であると知られるようです。なぜなら ▲ 766 欲望をかなえたいと望んでいる人 ☆ がおっしゃるような《ふつうの欲望》を言っており ▲ 767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人 ☆ が《耽る》の問題であるようだからです。 しかもただし ▲ 諸々の欲望を回避する人(768・771) / それらの欲望を捨て去って(771) ☆ とも言っています。微妙ですね。 と見てきたかぎりでは しかしながら きわめて平俗な内容に映るのですが こんな話でいいのでしょうか? 縁起共生・空観を生きるさとりなのでしょう?
- Y Y(@yy8yy8az)
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撒き餌にさそわれて、針に掛かってしまったような気分です。 bragelonneさん、こんばんは。 時間が時間ですから以下の感想は、感覚が麻痺して居るための考えになってしまっているかも。(ごめんね) 着目すべきは、‘耽る’という表現でしょう。 これは、過ぎたるは及ばざるが如し、と言う思いがこめられているかと思います。 ごく‘普通に持っている‘欲望’のことを指摘しているのではなく、過度なことについて、戒めていると受け止められます。 そう受け止めると、いらぬことではなくなりますよね。 どうでしょうか。 とりあえずは一点のみ、取り上げて感想を述べてみました。 反論、期待しています。“自信あり”
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
yy8yy8az さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 着目すべきは、‘耽る’という表現でしょう。 ☆ やはりこの点で突いて来られましたか。つまりNo.1で次のやり取りをした点です。 ☆☆ (No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ひとつに 注意すべきであるのにわたしがおろそかであったことは ◆ 人として歩むべき道を説いたのである。 ☆ と知られるのだけれども 精確には わたしの理解したところの ☆☆ 性愛観 ☆ とは厳密に言うと微妙に違っていて ▲ 性の交わりに耽る〔者の破滅〕 ☆ という主題ではありました。いわゆる ○ むさぼり ☆ の問題であるようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でしたら ここでわたしは趣旨説明に述べた立ち場を保って考えるところを述べてみます。 ○ 性愛論は その対の関係が成り立つまでの人間関係論までが理論であり議論であるから 要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか? ☆ この立ち場です。 ★ ごく‘普通に持っている‘欲望’のことを指摘しているのではなく、過度なことについて、戒めていると受け止められます。 ☆ というのであれば いわく。 ○ 《耽る》ことを戒めるにしても 性愛論としては余計なことを説いているのではないかというその意味は やはり他人の性愛関係に口をはさんでいるということになる。 ☆ からです。 ○ なぜブッダが戒めを説いたりふつうの欲望の充足を奨励したりしなければならないのか。 ☆ でもほんとうに ○ 欲望について ふつうの――中庸とでも言えばいいでしょうかその――程度なら だいじょうぶだ。 ☆ といったことを言っているのでしょうか? あるいはつまり 中庸説ならそれでもよいのですが ほんとうにそのような内容が ブッダのさとりなのでしょうか? ごくふつうの世間の知恵であると言うべき内容だと思うのです。 そこのところ 詳しくおしえていただけないでしょうか? もちろんのちのちには 不邪淫戒が持たれてくると思います。 ▲ (スッタニパータ§§795) ~~~~~~~~~~~~~~~~ バラモンは〔* という言い方がまだ残っている初期のものなのでしょう〕 (煩悩の)範囲をのり超えている。 かれが何ものかを知り或いは見て執着することはありえない。 かれは欲を貪ることなく また離欲を貪ることもない。 かれはこの世ではこれが最上のものであると妄執することもない。 (第四 八つの詩句の章 四 清浄に関する八つの詩句の内) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これなら たしかに《中庸》の徳のようですが。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
補足要求です。 <<説くべき理論>> とは何でしょう。 <<一般の人間関係について>> なぜその「説くべき論理」が「一般の人間関係について」であると判断したのでしょうか。ここは出家者(厭離を志し、実行に移したもの)について語られているところのように思いますが。 <<両性>> とはなんでしょう。 <<ニ角関係>> とはどういう関係のことなのでしょう。 <<その特定の対>> とは、何と何でしょうか。 <<対関係>> とはどのようなことでしょう。 <<入るときの対話(口説き)のあり方までである。要らぬことをブッダはここでしゃべっているのではありませんか?>> 「要らぬこと」とは、どのようなことでしょう。それを語ると論理が崩れる・語ってはいけないと言うことでしょうか。それとも語ってもいいけど、語らなくてもいいのでは、ということでしょうか。 あなたの思う「要らぬこと」でない「必要なこと」とはどのような範囲でしょう。 あなたの思う「要らぬこと」であるという論拠はどのようなものでしょう。 ● きっと回答者の回答する上で役に立つ補足と思います。 では有意義な回答が寄せられることを心よりお祈り申し上げます。
お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
みなさんのために ご投稿に感謝もうしあげます。 補足要求としては投稿したいというご要望のようで 応答せずには進まないようです。 ただし補足要求として有効なところは 次のひとつでしょうね。 ★ ここは出家者(厭離を志し、実行に移したもの)について語られているところのように思いますが。 ☆ 《厭離》というのも問題になるように思いますが 深入りしません。 ☆ まづ訳者解説をかかげて そのあと考えてまいります。 ◆ (中村元解説) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この『ブッダのことば(スッタニパータ)』の中では 発展する以前の簡単素朴な 最初期の仏教が示されている。 そこには後代のような煩瑣な教理は少しも述べられていない。ブッダ(釈尊)はこのような単純ですなおなかたちで 人として歩むべき道を説いたのである。かれには みづから特殊な宗教の開祖となるという意識はなかった。修行僧たちも樹上石上に坐し 洞窟に瞑想する簡素な生活を楽しんでいたので 大規模な僧院(精舎)の生活はまだ始まっていなかった。またこの書の中で尼僧に少しも言及していないのは 最初期の仏教のすがたを伝えているからであろう。 (前掲書〔=質問趣旨中〕1977第23刷 p.267) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ひとつに 注意すべきであるのにわたしがおろそかであったことは ◆ 人として歩むべき道を説いたのである。 ☆ と知られるのだけれども 精確には わたしの理解したところの ☆☆ 性愛観 ☆ とは厳密に言うと微妙に違っていて ▲ 性の交わりに耽る〔者の破滅〕 ☆ という主題ではありました。いわゆる ○ むさぼり ☆ の問題であるようです。 つまりは 見方によっては これも性愛論に入るという人もいるでしょうが わたしの見方としては 互いの合意を得るという対話までを扱うのが 性愛観であると述べましたので 行き違いが生じて来てはおります。 ただし みたび翻って そもそも対(つい)の関係に入ってからその二人のことに関しては 理論として触れないと言うのですから その見方とブッダのここでの振る舞いは対立しています。このことも明らかに見て取れます。 ですから その点で・つまりその対立点をめぐって 回答者の方がたはご見解を示していただければだいじょうぶです。その焦点に 質問趣旨に述べた(2)の断り書きを添えて 対処していただきたいと望みます。 言いかえるなら もし仮りにこの詩句が ただ修行僧のみのための道しるべであるとすれば 一般には別の道しるべがあるのか。という問題にもなります。 修行者としての比丘・比丘尼は 在家の優婆塞・優婆夷よりも戒律が多いのでしょうか。僧団の決まりとしての律が余分に持たれるだけなのではないでしょうか? ここまでを考えましたが さらに詳しいことがらは どうかご存じの方は おしえてくださるようお願いいたしておきます。
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お礼
ご回答をありがとうございます。
補足
magga さん 同情する性質(たち)の人間ではないのですが 参考URLの質疑応答を読み始めたら せずにはいられなくなりました。 次の質問とその答えを見てください。ほかの皆さんもぜひご覧になってください。目も当てられないとは このことだと思いました。 ▲ (【47】 不邪淫戒/慈悲の冥想 )~~~~~~~~~~~~~~~ Q:私自身は現在独身なのですが、この場合、配偶者という相手がいない以上、戒を厳密に守ろうとすれば、性欲を満たすには結婚する以外ないということになりますが、それ以外は果たしてダメなのでしょうか? 例えば風俗にいって性欲を満たす場合はどうなのでしょうか? 或いは、相手が人妻である場合は不倫ですからダメだとしても、相手が未婚の女性で、真剣なお付き合いの過程で、お互いを良く知るために関係する場合には、日本の法律上は一応許されると思いますが、仏教的にはどうなのでしょうか? A:法律で許される行為の場合は「不邪淫戒」を犯したことにならないのです。仏教の倫理から考えると、性交は「責任」と「権利」の問題になります。完全に独立している二人が「責任」の問題も解決しているならば、性交は道徳的な行為になるでしょう。 しかし、別の視点からいうと、女性の場合は「守られている」という概念があります。昔は女性は、結婚するまで、親に、親戚に守られたのです。いまも社会人になるまで女性を守っているのです。その女性に対する「権利」は守る側にあります。たとえ「守られている」女性の同意があったとしても、その人との性行為は戒律の違反です。 〔「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)=回答にある参考URL) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 考えてみれば これも現代日本の文化情況なのだと わたしたちはみづからに言い聞かせなければならないようです。 magga さん いいですか。よく考えてください ★ 「相手の命に責任を持っているか。相手の許可があるか。」 ☆ これが 《特定の対(つい)の関係をむすぶまでの一般的な人間関係論》のことです。わたしの見解としては ここまでを性愛論としても述べるけれども その先は扱う必要がないと言っています。 ですから ★ 「貪り、自分を落としいれてはいないか」 ☆ は 対の関係における倫理のようなものですから 触れないつまり無記とすべきだと言っています。じっさいこの程度の内容のおしえでは――つまり《中庸》説の程度では―― 誰でも知っていることでしょう。ブッダも落ちぶれたものです。 繰り返します。 ★ 責任 ☆ は 人間関係の一般にかかわるものです。 ★ むさぼり ☆ は 対の関係におけるものとしては 主観によります。だから規定する必要はなく 規定してはいけないのです。 ▲ (スッタニパータ§§795) かれは欲を貪ることなく また離欲を貪ることもない。 ☆ のごとくブッダの表現にも工夫が見られるのですが それは一たん触れたからいちいちあとで修正しなければならなくなるのです。対関係の内部のことは 無記がいいのです。 と考えますが いかがでしょう。