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神の認識
人間は不完全なものだという考えを根底に持っている上での質問です。 だったら、人間が知覚、認識した神という存在も不完全なものではないのかという疑問が湧いてきました。もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? 古今東西、神の存在を現した芸術がたくさんあります。音楽、美術、建築、文学・・・。それらに触れてなぜ美しく感動するのかと考えていたのですが、それが非常に人間的であるからという結論になってしまったのです。神は人間の知性で理解できる範囲にいるものなのでしょうか?
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思ったことを書いてみますね。 完全・不滅とするならば、認識することは不可能でしょう。 認識とは変化でしょう。 変化しなければ知られることも知ることも不可能でしょう。 変化しないなら関係をもてないでしょう。 関係を持った、認識したというなら、変化する不完全なものと公言していることにはならないでしょうか。 本当に完全・不滅なら我ら変化する生命とは一切関わり無いのでは。 「在る・無い」の思考などは、どのような思考をとってもかかわりが無いのだから、それによって完全・不滅によって何かしらの影響も受け得ないし与えられないのでは。 その選択によって変化が在るなら、完全・不滅とは一切かかわりが無く、人間の作り出した言葉と人間の心理面と現実との兼ね合い・軋轢の量によって数多なる結果がつむぎだされているに過ぎないのではないか。 私もそのような疑問を持っています。 参考になれば幸いです。
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- mmky
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>>もし神があるとすれば我々の五感や思考を超えたものであり、人間が理解できる範囲のものではないのではないか? そのとおりですね。人間が理解できる範囲のものではないのですね。それを人間が理解できるものと浅はかに考えるから完全とか不完全という言葉を使っているだけですね。 仏教では摩訶不思議観と呼んで人間が理解できる範囲のものではないと明確にしています。 このカテにも法華経に関する質問がいくつかありますが、法華経にあるように人間の浅知恵では到底理解不能の存在、それが神、とか久遠実情の仏と呼ばれるものですね。
お礼
>仏教では摩訶不思議観と呼んで人間が理解できる範囲のものではないと明確にしています。 仏教に関してあまり知識が無いもので、 そのように「人間が理解できる範囲のものではない」と明確に言っているとは知りませんでした。理解するために道を求めて修行を積み、そして悟りに到るのかと思っていました。 回答ありがとうございます。
- seinnzeit
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人間は不完全であると前提するとあなたはおっしゃりますがなぜ不完全なのでしょう? それは完全なものが存在すると考えるからでしょう。 不完全というのは文字通り不・完全であり、完全の否定、完全ではないものです。 したがって「人間は不完全である」ということは「完全なものが存在する」と言っているのと同じことなのです。 このような考え方、つまり人間は不完全であるという考え方はどこから来たのかといいますと、 明らかにキリスト教からです。創世記に「神は人間を自らの姿に似せて作った」とあります。 つまり人間は神の被造物であり、神は人間と世界の造物主です。 キリスト教によれば神は完全者です。では人間はなぜ完全ではないのでしょう? キリスト教によれば完全なものは唯一、神のみであり、人間は明らかに神ではない、したがって不完全なのです。 しかし人間は神に似せられて作られたものですから、あらゆる生き物の中で最高度に完全に近いものです。 デカルトは不完全なもの(人間)の中になぜ神という完全な概念があるのかと問い、これは神のコピーである われわれの精神の中に神の理念(理性)が宿っているからだと考えました。したがって人間は理性的なのです。 また完全な概念が不完全な人間に宿っているということが同時に神の存在することの証明とされました。 この証明法は中世のスコラ哲学までさかのぼることが出来ます。デカルトはこれを引き継いだわけですが、彼が スコラと異なるのは理性の中心を最も完全性の高いしたがって神の理念に近い数学に定め、これによって世界を理解することの 基本原理としたことにあります。人間は完全に近いものですがやはり不完全なので誤った認識をする可能性がある。 したがって出来る限り完全性の高い数学に依拠すべきだというわけです。 あなたは簡単に「人間的」とおっしゃいますが具体的に「人間的」とはどういうことでしょうか。 ギリシャ時代から人間は「ゾーオン・ロゴン・エコン」つまりロゴス(論理)的な生き物とされていました。 それが中世ではアニマル・ラチオナーレ(理性的な動物)と訳されました。 理性とはデカルトが言うような数学的・論理学的認識なものです。したがって人間は理性的論理的な、完全なる神にもっとも近い存在なのです。 このようにヨーロッパの歴史では完全なものある神と不完全なものである人間というこの対立概念は本質的なものです。 人間がヨーロッパ人が考えたように本当に不完全か否かはあなたがご自分で考えてください。
お礼
丁寧な説明ありがとうございます。何度も読みました。 自分の中に「完全」とか「永遠」とか「絶対」などの概念があることに、今更ながら驚きました。確かにこの世の中にも地球上にも、宇宙にだって「完全」も「永遠」もないであろうに、人間の知性は完全というものを捉えることができるのですね。 そして神の存在の証明について、古来からいろいろな人が考えているのですね。勉強してみようと思います。 回答ありがとうございました。
多分ですが…人間は不完全で弱い生き物だと思います。だからこそ、「神」という完全で絶対で究極の存在を認めようとしたのではないでしょうか。 天使とか悪魔とかも、人が善になったり悪になったりするその不安定さ、それゆえに偏った存在を認めようとしたのではないでしょうか 実際はどうかなんてわからないですが、自分はそう考えています …失礼しました
お礼
>人間は不完全で弱い生き物だと思います 私もそう思っています。 回答ありがとうございました。
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お礼
とても哲学的な考察で参考になりました。私の疑問が疑問として明確に把握できました。 回答ありがとうございました。