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本の題名を教えてください
食うことの昏がり 食べさせてもらうということほど、心を動かすものはない。感動という意味ではない。心がはげしく揺らいでしまうという意味でだ。 養ってくれるひとに、愛するひとに、看てくれるひとに、食べさせてもらう、あるいは最後の水の一雫で唇を湿してもらうというのは、それこそ腸に沁み入る想いがする。じぶんをほどいて、それこそ馬鹿みたいに口をあんぐりできる。あるいは、身を他者にゆだねきる、と言ってもいい。 が、じぶんが独力で食べられなくなってしかたなく食べさせてもらうというのは、どういうかたちでであれ、悲しいものである。面とむかって食べさせられるときはもちろん、横を向いて(なにかに気をとられて心ここにあらずという状態で、あるいは他の患者の様子が気になってそちらに眼を逸らしながら)スプーンを差し出されたときは、屈辱におもわず口を閉ざしてしまうのではないだろうか。いやいや、そもそも食べる姿をだれかに脇から見つめられるというのが、どこか辛いものである。おいしそうに舌鼓を打ちながら食べるのならまだしも、いのちをつなぐために、ただそのためにだけ食べているところを他人に見られるというのは、悲しさや羞ずかしさを通り越して、存在しているということの惨めさの窮みへとひとを追いやるのではないだろうか。 生きるためにはなにかを食べなければならない。食いつづけなければならない。これはだれをも縛っている、生の究極の条件である。とすれば、わたしが食べているところを見るひともまた食べつづけなければならない以上、食べるところを見られることを羞ずかしがる必要など毛頭ないはずなのに、それでも、その条件にじかに曝されている光景を他人に見られることが、悲しさ、羞ずかしさ、惨めさといった感情にひとを追いやるのだとしたら、いったいその理由はどこにあるか。存在するということじたいが羞ずかしいこと、惨めなことだとでもいうのだろうか。 もういちど言う。生きるということは食べつづけることである。ひとはときに、修行として、あるいは祈りとして、食を断つことはあっても、たかが数日である。たかが、と言ったが、もちろんそのダメージの深さは、そこから食を戻す過程に細心の注意が要ることからもうかがえる。食わなければ生きられないという。これは人間の核にある事実である。が、食うこと、味わうことに人間の存在や体験の意味が凝集しているというのが、さらにもっと核にある事実であるようにおもえる。だからこそひとは、食わなければ生きられないという絶対の必然をも、ときに頑として拒みもするのだ、と。 食を拒む あるうら悲しい話から ミルクの温度があまり高いか、あるいは低すぎるか、あるいは調合の具合が変えられている時、乳児は哺乳びんのミルクをのむことを拒むことがある。 ……発達初期の精神病理に関する多くの知見の教えることは、環境のごくわずかな昏い変動や、母親の態度の些細な冷たい変化が、すでに乳児に、彼を傷つける気分変調をおこさせ得るということであり、その最初の徴候は食物の拒絶ということである。乳児はもし彼が全く何もしたくない時には、あるいは愛情を失った時には、食べることへの関心もなくなることがある。……人間はわずかな感情の浮沈のために惑わされる。 その他に人間的な「吟味」のできないものとしては、老年性痴呆の患者などの「食べることしか楽しみのない」生活をあげることができる。また精神病院での食事時のもの悲しい光景は、ひごろはのろのろと動いている患者たちの恐ろしい速度の「早食い」である。また精神分裂病者や老年性精神病者における、食物に毒が盛られていると確信している被毒妄想は、人間学的には信頼というものの喪失のすさまじい表現に他ならない。(霜山徳爾『人間の限界』) 母親の気持ちがじぶんに向いていないこと、じぶんが粗末にされていることを、その存在全体で感知して口を開けることを拒む乳児。世界をその味わいによって、好悪によって分けるということを放棄し、その存在になんの「尊さ」もなくただ生きているだけという状態のなかにじぶんを封じ込めるかのように、食うことを逸って「済ます」老人。あるいは、食への関心を喪失し、食べ物を介護スタッフにスプーンで押し込まれ、そしてまさにそのさなかにそのスタッフの眼が別のひとに注がれていることにふと気づき、仕方ないとは判りながら、これまた仕方なくさらに食欲を遠ざけてしまう老人。 ================== この本のタイトルをご存知の方は教えてください。
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- bakansky
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鷲田清一・著 『感覚の幽い風景』 (紀伊國屋書店)