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なぜ姦淫してはならないのですか?

イエス様は「姦淫してはならない」と言ったそうですが、僕はSEXがしたくてたまりません。 他の戒めは良心と突き合わせても「まぁそうか」と思えますが、SEX禁止だけは「まぁそうか」と思えません。 何でSEXしちゃいけないんですか? なんで素晴らしい女性の肌を楽しんではいけないのですか? なんでオナニーしちゃいけないんですか? もう我慢できません。SEXさせて下さい。

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回答No.3

 こんにちは。  《性行為》と 《姦淫》とは 別ですよ。  《姦淫》とは ひとの自由意志を侵すものの場合です。  《ひとの自由意志》というとき それは 相手の自由意志であることは むろんのことですが そこには 自分のそれも そして 自分や相手とそれぞれ深くつながりのある第三者のそれも 入ります。  あるいはまた 《深くつながりがある》という意味は 一たん おのれの自由意志によって 互いに相手の意志をとうとび 自分勝手に それを踏みにじらないし 裏切ることもしないと決めたもののことです。そのようにすでに成立している自由意志のことをも含むということです。  これを侵す行為は 一般に 倫理に違反するという言い方をします。平俗的には 不倫と言います。  わたしたちは 自分の・つまり人間の 能力と意志とで この世界における行動が どうにかなるというわけのものではないようです。《人生 思うようには 行きません》。  性行為にしても 同じです。あるいは 性欲にしても 同じです。それを 自分でおさえることも おさえないことも 思ったようにいくわけではないようです。  すべては ゆるされています。ただし すべてが 益になるわけではないそうです。すべてが ゆるされていると聞きます。ただし すべてが 益になるとは限らないもののようです。   すべて すべきことは ほんとうは こころが分かっているのではないでしょうか。  また たとえ すべきではないという一つの判断を持った場合でも その場の待った無しという情況に わたしたちは 屈服することがあり得るのではないでしょうか。あとで取り返しのつかない姦淫をおこなうよりは いま差し迫った情況にかんがみて たとえ破廉恥なことでも わたしたちは おこなうことがある。こうも思います。  さらにさらに この考察を練り上げていってくださいませんか?

noname#92298
質問者

お礼

さらに練り上げるって、哲学に縁のないこの、ただのHentaiにですか? 要約すると、つまり不倫は姦淫で、誰も傷つけないSEXは性行為であり姦淫ではないということでしょうか。それなら助かるのですが。 誰かを傷つけるようなSEXは自分の思い通りに行う事は出来ない。 誰かを傷つけるようなSEXはゆるされているけど益にはならない。 すべきことは自分の良心が分かっているのでその良心に従えばいい。 状況に応じて良心で取捨選択すれば良い。 こんなところでしょうか? 誰かを傷つけるような行為は、SEXにかかわらずしてはいけないと僕の良心は感じます。 誰も傷つけないSEXはお互いの身体の世話、欲求の解消であり善行だと思います。愛の交流だと思います。 しかし、誰も傷つけないSEXとしてもイエス様の目の前でそれが出来るでしょうか。 そもそも、なぜそれを人に見られたくないと思うのか。それはSEX自体悪と感じているからでしょうか? いや、僕的にはSEX自体は善だけれども、見物する者が悪しき感想を抱くようだから警戒して見せたくないのではないでしょうか。 見物する者の悪しき感想とはひやかしたり怒ったりするわけですが、それが何故なのかは僕にはよく分かりません。イエス様にも怒られるかも知れませんが、それが何故なのか僕にはよく分かりません。わいせつ物陳列罪ということが。 僕はただのHentaiだからそれを見かけたら一緒に興奮してあとでオナニーをします。世の中これしか無かったら僕は別に見られても平気だと思います。一緒に興奮することは悪なのでしょうか。 ありがとうございました。

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回答No.22

 No.18&16&14&3です。  次のわたしの文章を補う意味で 引用をいたします。  ☆☆ (No.3)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また たとえ すべきではないという一つの判断を持った場合でも その場の待った無しという情況に わたしたちは 屈服することがあり得るのではないでしょうか。あとで取り返しのつかない姦淫をおこなうよりは いま差し迫った情況にかんがみて たとえ破廉恥なことでも わたしたちは おこなうことがある。こうも思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ (アウグスティヌス)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だから 魂は   善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(* 端的には 情欲のことです)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら   時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な判断によってその実践として)為すから――或る点で誤り  そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。  私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。  それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。  しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。  魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。  自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。  しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。  (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#92298
質問者

お礼

何度もご回答ありがとうございます。 やはり、僕には難解すぎてせっかくの補足も逆に分からないことが増える事態になってしまいました。切りがないのでそろそろ締めたいと思います。 内容はどうも、自分の肉体的な欲望を満たす目的の行為は恥ずべきことが、人の為にそういった行為をするのなら容易に許されると、そのような内容でしょうか。間違っていたら済みません。 僕は恥ずべきことと思うとさらに燃えてしまいます。 ありがとうございました。

noname#96756
noname#96756
回答No.21

そもそも「姦淫」とは一体何を意味するものでしょう。 イスラム教の一夫多妻制はキリスト教からみたら「姦淫」にあたるのでしょうか。 それとも3Pでなければそれにあたらないのでしょうか。 そしてそれを質問者様ご自身でお考えになったことがおありでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%A6%E6%B7%AB 人間の歴史上「結婚制度」というものがどのようなニーズに応じて方々で成立してきたのでしょう。 自らの子孫を確実に残したい、または我が子ではないかもしれないという不安や懸念を払拭するための男性側のニーズ。 子供を産んだあとこそが重要で、いかに安心して子供の養育を安定化させたいと願う女性側のニーズ。 以上の2つは最低限な理由として挙げられるかと思われます。 先史時代以前ならいざ知らず、日常的に姦淫を行うという事態というものは、想像ないし欲求するよりも案外「実現しにくい」ものなのかもしれません。 浮気というものがそれを容易に為し得る人にとってはさほど違和感を抱かない一方で、相対的にモテない人或いはそれを容易に実現しにくい人にとっては「倫理感」を理由に糾弾に走らせるものかもしれないのと同様に、 「安易に想像或いは欲求するほどには容易に実現しにくい」性質であるからこそ、初めから禁止規定に組み込んでしまったほうが「多くの成しえない人々の不満が解消し心安らかになる」とも言えるのではないでしょうか。 ただの一私見に過ぎません。失礼致しました。

noname#92298
質問者

お礼

現在の様に妊娠をコントロールできなかった頃に出来上がった習慣なのでしょうね。宗教によって色々「姦淫」の解釈は違うけれども妊娠をコントロールしにくいという問題のため、昔から簡単にはSEX出来なかったかも知れません。 なかなか出来ないことの気休めとして、SEX自体を悪いものとしてしまったのかも知れません。 ありがとうございました。

回答No.20

>何でSEXしちゃいけないんですか? 全然、いけなくありません。 強姦はダメですがもっと過激にお考え下さい。 むしろ、人間は間違ってしまいましたね。 つまり、逆だったということ。 ゴリラと人間の違い・・・でしょうか。 ゴリラは姦淫の嵐、やたらにSEXしますから、膣の中で 複数のオスの精子が切磋琢磨して、元気なのが残り、 弱い精子のオスは淘汰される。 人間は、イエスの遥か前から、嵐のような姦淫はしてなくて、 膣の中で、複数のオスの精子が争うことは無かったんですね。 と言うことの結果、ゴリラと人間の精子の元気さは プロサッカー選手と杖ついた老人くらい異なり、 人間は、女性が妊娠しにくいレベル、つまり、精子が卵子に到達しない 萎えた男が増えていると言うことになっているそうです。 あまりに、戒めすぎました。人類、滅亡の危機です。 >もう我慢できません。SEXさせて下さい。 常に3P以上にすることを代々の家訓として下さい。

noname#92298
質問者

お礼

あのボノボの群れはすごいですよね。僕は道端でちょっとイイ女性がいたらすぐに飛びつきたくなるので、ああいう群れは憧れです。みんなもっとおおらかにやればいいのに。 ただ、子供がなかなか出来ないというのは僕にとっては好都合ですけどね。ある程度中出ししてもいいよというなら。 人類は滅亡しても構いません(笑) ありがとうございました。

回答No.19

 回答番号:No.15  日本の伝統的やりかたの中には、基本的に自然体があるようですね。  その自然体って、何か偈汚れることもおあるけれど、そのままであれば、秩序的にも、結果的にもしんらいできるものではないでしょうか。  無論成文化したり、意識化したりするのが難しいのですが。  むしろ不可能なのではないでしょうか。空気をお椀に入れようとしても、つかみ処が無いですよね。  そんなものでしょうか。  ところでオナニーって、セックスが快感をもたらすなんてことがなければ、しないでしょうね。  そしてセックスって快感だという観念がもう底の底であるのでしょうね。  でもセックス以上の快感ってあるのでしょうね。そんな気がしますが。  貴胡桃さんが回答番号:No.17でいっていることは、面白いだけでなく、(信者ではないが)イエスを実在としている私にもとても有効な、友好な知識です。  斬新という思いがするのは、今まで知らなかったからでしょうね。  何か立川流やタントラ仏教を連想しました。  江戸時代には帯びとけ仏教というのも流行したそうです。  人間の悲しいさが(性)ですね。気持ちいい、遂行感というのでしょうが、それによる暗示が根底にあるのですね、性というものには。  そんな冷静を装っていられるのは、もう傘寿になるからかな。  こんなことをいうなんてなにか自分がアウグスティヌスの次亜物みたいですね。  やりたいときは押さえられないからね。結局そうでなくなったのかな。

noname#92298
質問者

お礼

日本の伝統的なやりかたというか文化だったら、最近増えている中年になるまで童貞の人とか居なかったんじゃないかという気がします。もっと女性もSEXを受け入れ易かったのではないかと。今みたいにそこまでこぎつけるのに大変な思いをする事はなかったんじゃないかと。それでいて、別に昔のそういった性の文化が世の中の混乱を招いたという話も知りませんし。 >ところでオナニーって、セックスが快感をもたらすなんてことがなければ、しないでしょうね。そしてセックスって快感だという観念がもう底の底であるのでしょうね。 そうなのでしょうか。 どんなに頭で禁止しようとしても身体の仕組みと違うのだから難しいですよね。僕は精神的なことよりかは具体的な生殖器の苦痛が大きいと思っています。またそれは本能的に女性に反応するようになっていると思います。精神が出来あがるのはそれありきででしょうね。 肉体にとっては、快感はSEXが1番、食が2番という気がします。 精神的な感動とかがそれとはまた別の話で存在すると思いますが、比べることは出来ませんが場合によっては肉体的な快感より素晴らしいこともあるのではないでしょうか。いやむしろそうだと思います。 ありがとうございました。

回答No.18

  No.3&14&16です。  もう練り上げてもらっていますので だいじょうぶなのですが 蛇足です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) 絶対的なものに包まれた絶対的でないものの行動・・・のようなイメージが湧いてきたのですが。  (β) それが不自由と感じる問題でしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (α)のとおりだと思います。したがって――したがって です―― (β)は ぎゃくになると考えます。  ○ わたしたちの心のおもむくところは 《絶対的でないものの行動》であるのですが それは 《絶対であるものに包まれて》いるゆえに 安心して 自由を自由に享受することができる。  ○ 無根拠だからこそ 絶対なのであり それが 自由をあたえている。  ○ 《真理は きみたちを 自由にする》と 《わたしは 道であり真理であり生命である》と言ったひとが 説明しました。  ★ 絶対的な愛なる霊のちからのもとに、絶対的でないわが心のおもむくところの・・・でしょうか。  ☆ はい そうだと思います。  ★ 自分の心の中の自然な良心が、神と思われる《無根拠=霊》とは違うみたいな感じで、ちょっと残念な気もしますが。  ☆ 愛なる神は 光ですが 人間の自然本性としての良心や理性なる光は いわば薄暮の明かりではないでしょうか。包まれ 照らされていれば だいじょうぶです。  * アウグスティヌスは 《わたしは 閨(ねや=寝屋)の信実を尽くしました》と言っています。同時に 複数の相手を持ったことはないという意味です。  * また 歳を取ってからも 朝起きてみれば 布団が汚れているのを見て 困ったものだと――かれは 聖職者の道をえらびましたから――嘆いています。  * ただし わたしは キリスト・イエスを教祖とし そのおしえを教義とし 集団として組織をつくって 信徒があつまるところのいわゆる宗教は 個人の信仰が すでに その内面から外に出かけてしまっているので――信仰の対象である《無根拠》が あたかも単なる精神的な根拠となってしまったからには―― 信仰の自殺行為だと考えます。この宗教が 《姦淫するなかれ》という禁止命令を 後生大事に抱いています。自分のあたまで どうにかできると思っているのでしょうか。

noname#92298
質問者

お礼

薄暮の明かりが愛なる神の光に包まれている・・・ 僕に湧いてくるような良心や理性は絶対的でなく薄暮の明かり。 絶対的な愛なる霊の光には包まれているけどそれを感じる事はできないのでしょうか。感じる事が出来たらそれは自分の心にあらわれたもの=自分の良心や理性ということになってしまって、自分の中に神の絶対的な光があるという事になってしまいますもんね。 人間は自由に行動しているがどんなに自分の良心に従っても不完全なので過ちも起こすが、それすら神の完全なる良心の元での営みであるので、いつかは必ず良きにはからわれることになるということでしょうか。だから全ては自由であると。 だとしたら、僕もそのような考えを持っています。 形とか儀式とかにこだわった現在の組織が間違った教義を温めているのでしょうか。 ありがとうございました。

  • kigurumi
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回答No.17

No.6です。 >イエス様が良いと言ったのなら。 イエスが姦淫は善い事だと言ったというのは、私の記憶には無いです。 えっとですね。 聖書はイエスが書いたものじゃありません。 イエスはもちろん実在の人物じゃないので当然ですが。 あっちこっちから集めた物語をまとめあげ編集した人がいて、その人の所属する一派が「これが唯一の聖なる経典じゃ それ以外は間違い。俺たちが編集したものだけが本物」ってしちゃって、ほかの別のストーリーを真実だと言う派閥を異端として迫害していったんです。 人間が編集したものですから、ミスはつきもので、あちこちミスっています。 たとえば山の上の教訓。 他の文章の言葉を、山の上の教訓に挿入するということを故意になのかわかりませんがやっており、その一文のために文章全体の意味合いが違ってきてしまっています。 信者の人たちは山上の教訓をすばらしいと褒め称えていますが。。。 先日悪魔の遺伝子って本を読んでキリスト教の聖職者を思い浮かべた。 悪魔の遺伝子を持つ者。 表向きは慈悲深いが、実際やることは冷酷で無慈悲。 だが人々から愛され敬愛される。 これが悪魔の遺伝子を持つ人の特徴。 悪魔の遺伝子という障害ではなく、通常は別な名称で呼ばれている。 宅間死刑囚も同じ障害だった。 本では、この障害を持つ人々の話が遺伝学的な見地もからも見つめられ考察されていた。 まるっきり内容を支持するつもりはないが、遺伝子が絡んでいるという作者の意見は参考になった。 たとえばスターリンとか毛沢東とか、麻原とかがこの部類。 冷酷で残忍。でもすごく人気があり愛された人々。 ウイリアム症候群ってのだったかな? 嘘だとわかっているが、その自分に嘘をつき、害を与える人の言葉を支持し、嘘をつく人を崇拝してしまうって障害。 両者は依存関係にある。 聖職者と信者の関係もそう。 キリスト教が病的なまでに潔癖主義になったのは、アウグスティヌスがいたせいだと思う。 彼はセックス中毒で(障害)、そのために若いうちに結婚をした。 愛じゃなく性処理目当てで結婚をしたわけですが、(結婚すればいつでもできるということ?)、ただそれだけでは決して彼の欲望はおさまらず、妻だけじゃなくいろんな女と交わりを続けたのだそうです。 不倫の限りを尽くしたってわけですね。 この障害を持つ人は、善悪の判断ができる。 だが、困ったことにブレーキは正常に機能するが、ブレーキとアクセルの両方を踏み込んでしまうため、衝動が抑えられない。(脳のせいでそうなる) アウグスティヌスはこの障害に苦しんだが、自分ではどうにもならなかった。 宗教にすがったがだめだった。 ところが、精子には限界があり、人の何倍も性処理をしたために、人より早くインポテンツになった。 やっと性の奴隷から解放されたわけです。 すると今度は、自分を苦しめていた病的なまでの性欲に対し、病的なまでに敵意を持つことになり、信者に禁欲を推奨させたのだと思えます。 自分が苦しんだので、性欲はとんでもない悪魔だと思ったわけです。 で、聖職者はアウグスティヌスの望むとおり、性欲を克服できたのかというとぜんぜんでした。 それで、聖職者によっては自分を苦しめる性欲から開放されるために、去勢をしたりもしたそうです。 ある辞書によると、ある教皇は尼僧院を作りったが、それは実質は売春宿だったのだそうです。 聖職者専用の売春宿だったと思えます。 何故なら、そこで体を売っていたのは、今で言うならシスターなわけで、一般人が尼僧院にシスターを買いに行っていたという話を聞いたことがないから。 秘密裏に行われていたのだと思います。 このように、聖職者は一般信者には禁欲を説きながら、実際は自分たちはちっともやっていなかったわけです。 その聖職者たちは信者から敬愛された。という事実。 嘘だとわかっていてもその嘘をつき自分に害を与える人を愛するウイリアム症候群的な一般信者。 でも、、、見方を変えれば、ダ・ビンチ・コードにも登場しますが、地上の女神の体現者と交わることで地上で権力を得られると思って、聖なる儀式として尼僧たちと儀式として交わっていたのかもしれません。 じゃなければ信者から集めた金を、教皇が実質売春宿であった尼僧院の建設・運営に使わないでしょうから。 オウム真理教においても教祖と交わった女性信者はたくさんいて、彼の子供を生んでいます。 麻原には入籍している奥さんがいましたが、教祖自身はたくさんの女性信者と交わりをしていた。 麻原と交わった女性たちは、麻原を支持し熱愛していた。 女性たちはヒエロスガモスの概念をもって、儀式として麻原とセックスをしていたのだと思えます。 教団内では聖なる交わりとして、まっくらな中で全員裸になり、体が触れた相手とセックスをするという儀式があったのだそうです。 はたから見たら誰それかまわず一度にたくさんの相手を交わるスワップパーティー・乱交パーティーですが、宗教となると聖なる(性なる)儀式ってなるわけです。 そこまでは宗教だし大人同士の合意の行為なわけで、奥さんも了承していたのだから、他人がとやかく言う問題じゃあない。 だが、これがもしオウムが禁欲で性など堕落だと言っていたとしたら、口で言うことと実際やっていることが逆ってことになり、大ペテン師になってしまう。 大ペテン師にだまされていると知りながら、大ペテン師を愛したキリスト教徒たちと同じになる。 日本は、表向きは慈悲を宣伝文句にかかげながら実際は冷酷なあの宗教が入るまでは、性におおらかな民族だったんです。 たとえば夜這いって風習があった。 男が両親と住む娘のところに夜中忍び込んで娘と交わり、子供ができたら、結婚させてもらえたってくらい、女性の地位が高かったし大事にされていた。 キリスト教のように「女は糞尿のつまった容器である。なんでそんなものを抱かなきゃいけないんだ。」とはしなかった。 女性は悪魔だと嘯くキリスト教が日本にきて表向きの嘘の説教をまことしやかに言うようになるまでは、日本人は性に対しておおらかだった。 ということで、同意のもとならやってもいいと私は思うんですね。 ただし、責任を取れないのなら、やるべきじゃない。 乗り逃げする無責任な行為をしたら、当然集団から袋叩きにあう。 鬼畜として牢に入れられ動物として飼育され、自由などなくなりますから。

noname#92298
質問者

お礼

禁欲を説く聖職者が裏ではSEXをし、尼僧院が売春宿だった。なんという興奮するエピソードでしょう。この甘酸っぱさで抜けます。 性欲の処理については、今はキリスト教で「姦淫」とは本人たちまたは関係者が嫌な思いをするようなSEXのことだったわけで、それ以外のSEXが禁じられていたわけではないという流れです。これなら僕はイエスが説いたこととして信憑性があるなと思います。至って倫理的な話だと思うので。 そこで、別に聖職者がSEXしてもいいし、尼僧を売春婦にしても問題なければいいのかなと思います。しかし、本人たちはSEX自体いけないこと、と思っていて、その考えが真理とズレているので、自分の頭の中の考えと、正しき心でいるつもりでも実際にやってしまう行為の間で苦しんだということなのかも知れませんよね。 イエス自身は性欲をどうしていたのかと考えると、先の理由でべつに我慢していなかったという考えと、仏陀的に形あるものから解脱していたという考えがあると思います。しかし、解脱していたとしても生殖器の仕組みはあるのであり、必ず苦痛はあり、その苦痛を気にしない事が出来るという事に過ぎないのではないかと思います。僕は別にその苦痛に耐える行をする必要はないと思っています。 昔の日本はおおらかで良かったですよね。僕も別にSEXするのに罪悪感など感じません。誰も傷つかないならいいと思います。 ありがとうございました。

回答No.16

 No.3&14です。  ★ 自分の自然な良心にただ、従えばいいと。それが自由なのかなと。  ☆ そして しかも同時に その  ○ 《良心》は 絶対的なものではない。  ☆ という前提のもとに立てば よいのではないでしょうか?  《絶対》は 《無根拠=霊》のほうであるようです。  このことを キリスト・イエスが 指し示したと言われています。

noname#92298
質問者

お礼

>愛なる霊につつまれ おおわれ その無根拠なるちからのもとに わが心のおもむくところの最愛なるつれあいを探し求めるのではなかったでしょうか 絶対的な愛なる霊のちからもとに、絶対的でないわが心のおもむくところの・・・でしょうか。 絶対的なものに包まれた絶対的でないものの行動・・・のようなイメージが湧いてきたのですが。 それが不自由と感じる問題でしょうか。自信はないけど。 やはり難しいですね。 自分の心の中の自然な良心が、神と思われる《無根拠=霊》とは違うみたいな感じで、ちょっと残念な気もしますが。 僕などのために何度も回答して下さってありがとうございました。

回答No.15

 倫理観、道徳観で穢れることがいけないのだと思います。  美しい女性や、そういう人との性行為を自然だと思う意識であることが必要だというのではないでしょうか。  そのように神の作ったような意識で行うことだというのではないでしょうか?  そういう意識に為りなさいということ、穢れた意識をでることはとても難しいのですが、おろおろするものでもないし、問題を持つこと自体がもう困ったことだと存じますが。  結局、有り方の問題でしょう?

noname#92298
質問者

お礼

倫理観、道徳観ですか。 誰かが作ったような疑わしい倫理観、道徳観と 自分に自然に湧いてくる倫理観、道徳観がありますが、 前者に従うことなら苦痛ですが後者に従うことなら気持ちいいです。 なんでもかんでも無秩序にしていいとは思いませんけど・・・ 条件に合うSEXなら、自然だと思います。 これまでの流れだと、SEXが全面的に禁止されているのでなく、 問題がなければいいみたいなので、納得します。 もう苦しむこともないでしょう。 ありがとうございました。

回答No.14

 No.3です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエス様は「姦淫してはならない」と言ったそうですが、僕はSEXがしたくてたまりません。  他の戒めは良心と突き合わせても「まぁそうか」と思えますが、SEX禁止だけは「まぁそうか」と思えません。  何でSEXしちゃいけないんですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふたつの前提を――No.3の内容をあらためてですが 少しちがうかたちでも 述べつつ――確認します。  性行為と姦淫とは別だという第一点は はっきりしています。  もう一点は 《イエス様》を持ち出すこととか 《してはならない》というように わざわざ 禁止命令のかたちで表現されることとか そういったかたちで 或る種の仕方で 《権威》を わたしたちの思惟や行為に先立って 置くということについてです。  これは 言いかえると わたしたちの自然本性としての《自由意志》とそれの限界の問題になります。おそらく 人間の自由な意志行為は 限界があるでしょうから この自由意志を超えるものはなにかの問題にもなるでしょう。それが 証拠に 神としての《キリスト・イエス》が持ち出されてきています。  わたしたち人間の思惟も行為も まったく 自由です。なぜなら 上に触れた神ないし絶対者は 無根拠だからです。自由でないと言う人は 神ないし絶対者とは何かが分かった人です。あるいは 観念において この神を 自分の頭の中に 忍び込ませておいて それが ほんとうの神なのであると思いこんでしまう。そこから すべてを 自分の考えにのっとって 判断し裁いてしまう。  つまり おれは神を乗っ取ったと思い込む場合にしか 《人間は自由ではない》とは言わないわけです。  ところが それでも わたしたちは 思念や振る舞いの中で 性愛にかんする事柄に限っては  ★ 何でSEXしちゃいけないんですか?  ☆ というふうに 或る種の制限や禁忌をもうける傾きがあります。あるいは   ○ イエスの母マリアは 処女だった。とか  ○ イエスは じつは 妻帯していたのだ。とか  ☆ 言って おもしろがっています。興味が起こるようです。  イエスという男は ふつうの人間であって 大食漢の大酒飲みです。神は 無根拠だから 無根拠として このイエスという人間に 宿ったというおとぎ話であるに過ぎません。無根拠のことを 《霊》とも言ったりします。幽霊と同列にあつかうという意味です。  話を端折りますが このように《性関係に関して タブーをもうけたりするまでに ひとが敏感である》のは 一方で 人間の行為にかんして すべて 自由であるというのに その他方で 《無根拠ということが どういうわけか 現実的である》と感じているからではないでしょうか。  ○ 《霊》は 人間にとって 普遍的である。  ☆ というわけです。しかも  ○ この無根拠でありながら 普遍的な現実である霊に わたしたちの良心と呼ぶこころは どうも つながっている。  ☆ のではないかと感じているからではないでしょうか?  ところが   ○ この霊は 愛である。  ☆ と言われてしまいました。たぶん わたしたち人間の移ろい行く自分勝手な愛を 霊なる愛は つつんでいるということなのでしょう。  そうでなければ この世は すべて 飲めや歌えやとなっていることでしょう。言ったもん勝ちであり やったもん勝ちになります。  この情況の中に 自分も位置していることをはっきり確認して その上で  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なんで素晴らしい女性の肌を楽しんではいけないのですか?  なんでオナニーしちゃいけないんですか?  もう我慢できません。SEXさせて下さい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という叫びを わたしたちは 聞かなければなりません。  何がわるいのでしょう? 何が 歯車を 妙な方向に回転させているのでしょう? どこで わたしたちの人間関係は 狂ったのでしょう?  人間関係における両性の口説きという交通(まじわり)のあり方が 変わったのではないか。  ▲ (万葉集 巻一・1番)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))と解説されます。  このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられてしまった。  アマテラスの《天界》――お二階さん――に近いほど 《自由》だと思われている。つまり 人びとは 自由でなくなっている。  そもそもは 愛なる霊につつまれ おおわれ その無根拠なるちからのもとに わが心のおもむくところの最愛なるつれあいを探し求めるのではなかったでしょうか? その自由。この人間の自由。おのれの心のおもむくところに従って しかも 矩を超えずです。この自由の方程式が どこからか 故障してしまっています。  そういう問題ではないでしょうか? そういう問題ではないのでしょうか?

noname#92298
質問者

お礼

肝心の以下は本当によく分からないです(僕は素朴に自然の神様はいると思っているだけで…)が、また憶測で考えると… 高次の神様になる程自由だが低い所の人間は不自由である。 先に説明された無根拠な愛を根拠にして最愛の人を探すのではなかったか? 人間の自由。自由の方程式の故障… 難しいですが、人間は自由に自分の無根拠な愛なる霊に従って行動すればいいのに、なぜか不自由だと思われている。なぜこれで不自由に感じるのか…という問題でしょうか。間違ってたら済みません。 合っていたとしたら キリスト教で言われた「姦淫する事なかれ」はおとぎ話であり、勝手に人間が不自由を作り出しているだけだ、と思えて来ました。自分の自然な良心にただ、従えばいいと。それが自由なのかなと。 それくらいしか分かりません。 つたなくて申し訳ありません。 ありがとうございました。

noname#92298
質問者

補足

brageloneさん、熱意のこもったご回答ありがとうございます。 僕は素朴な認識しか持っておらず、即席で考えているだけで、brageloneさんの表現を理解する知識に乏しく、 ご期待に沿えそうもないので申し訳なく思います。 恐れ多いですが素人なりに考えてみようかと思いますが、とてもご期待にそえる内容とはならないと思います。すみません。 神は僕という人間が勝手に作りだしたもので、本来は人間は全くの自由である。人間は自分が勝手に作り出した神によって自分を裁いたり行動の自由に制限を設ける。つまり自分で自分を裁いている。自分の中の判断は神のものと思いこんでいる。 人間は本来全てにおいて自由なのに、性愛に関してはタブーを設けてしまう。 イエスは普通の人間で、神が宿ったというのはおとぎ話(無根拠だから無根拠として?…む、難しいです)。 以下は難解でよく分かりませんが、無根拠=霊で、人間はそれを現実的に感じ普遍的なもので、良心がそこにあると感じる・・・でしょうか。それによると性愛は制限されるものと感じられる。 霊は愛と言われた。自己満足的な愛を無根拠な霊=愛(良心)が包んでいる。(自分勝手を思いやりの理性で抑えているということでしょうか…間違っていたら済みません) それで、(ちょっとまた憶測ですが)霊とか冷静な愛とか良心とか神にまつわることは無根拠であり人間の勝手なイメージであるのに、その幻みたいなことを根拠にして性愛は制限されるべきとどうして言うのか? ・・・ということでしょうか。

noname#101110
noname#101110
回答No.13

NO.2 です。 昔、キングオブキングスという映画を観たことがあります。イエス役のジェフ・ハンター(だったよね?)の青い目がなんとも魅力的で(といっても私はホモではありませんが)、私にとってのヒロイン役のサロメ(の生脚)といい勝負でした。その映画ではイエスにからむ女は皆無だったと思いますし、そんなシナリオはまだ書けない時代だったのでしょう。私が想像したように最近の見方ではイエスはずいぶんもてたらしい(もちろん生前に)とされて、生なましいイエスの性愛を取り上げた映画まで作られていますよね。ま、ジェフのようなイケメンだったのならそれもあったに違いない、酒もたしなみ陽気な若い聖者がもてないはずもあるまいと私も思います。 一方彼は道を説くものであり、おおっぴらに娼婦を買うことなどできなかっただろうと思われます。砂漠での百日荒行にもかかわらず、イエスもなお若かったし、性には悩むこともあったのではないかと私は思います。その無意識な発露があのような極端ギレ発言になったのではないでしょうか。やはりセックスは求道者ならずとも上昇志向の若者には重い負担であることは昔も今も変わらないと思いますし。 「生めよ育てよ世に満てよ」という旧約の教えをイエスは否定してはいません。一方で娼婦の女を慰めはしてもその職業を肯定もしていません。彼はやはり人間として性をもてあましていたのだろう、それだけのことではないのか、そんな風にも私には思えます。 ご参考まで。

noname#92298
質問者

お礼

やはりSEXの全てを否定した訳ではない、というのは言えるのですね。 イエス様にも性の悩みがあったのかも知れません。 それとも、この形あるものが意味がなくて、 心の在り方だけが興味の対象だったら、 それを完全に実践する事が出来るのであれば、 欲情することもないのかも知れません。 いやはや、そんなことあるのでしょうかね。 男の肉体をまとっている限り、そんな筈はないという気がしますよね。 ありがとうございました。

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