こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
私が1番にあげたいのは、
木下秀長(豊臣秀長とも呼ばれた)
すでに、苗字でわかる通り、豊臣秀吉の弟です。
秀長は23歳まで、尾張国中村で、秀吉が武士となったため、農業をして、家族を養っていました。
天文9年(1540)、秀吉は織田家の足軽頭となっていましたが、秀吉の家来となった者は、すべてが「寄せ集め集団」でした。
誰にも心を許して相談できる者がいない。
そこで、秀吉は尾張国中村で百姓をしていた弟小竹(こちく)を説得して、秀吉の家臣とし、同時に、信長の家臣としても推挙しました。
この時、秀吉26歳、小竹23歳。
秀長は、戦国時代でしたので、数々の戦で兄秀吉を援けました。
(1)永禄10年(1567)8月、織田軍が美濃攻略をしようとしていた時、当時は「山賊」と呼ばれて、誰の支配をも嫌っていた「川並衆」を説得して秀吉の配下とし、これにより、あの有名な「一夜城」が完成し、信長は美濃の斉藤氏を滅亡させました。
(2)元亀元年(1570)4月、信長が朝倉氏を攻めた時、背後から浅井軍が挟み撃ちにしてきました。そこで、信長は一旦後退することとし、織田軍の「しんがり」を秀吉に命じましたが、実際には、弟秀長軍が一番最後尾で、4時間余り奮戦し、無事に信長を美濃まで退却させることに成功しています。
(3)天正10年(1582)6月2日、織田信長が討たれる。
秀吉は、まずは、山崎の戦で明智光秀を破り、その後は、柴田勝家を破り、天正11年(1583)大阪城を築城。
この頃、秀長は姫路城主として姫路城に入りました。
とは言っても、戦乱の世でしたから、姫路城で優雅に暮らしたわけではなく、城は城代に任せ、自らは大阪の兄のもとで働いています。
後の、家康や上杉景勝なども城主ではありましたが、大阪に住んで5大老などとしての仕事をしています。
(4)天正14年(1586)10月26日、家康が上洛をしましたが、秀長は、自分の住まいを提供し、接待をしています。
そして、密かに兄秀吉を呼び寄せ家康と対面させ、
「家康殿、明日は、名前を呼ばれたら、形ばかりで良い、頭を下げて欲しい」
と、頼みました。
そして、謁見の日(10月27日)、多くの大名が居並ぶ中で、家康が名前を呼ばれ頭を下げると同時に、
「上洛大儀!」
と、秀吉。
これで、家康が秀吉の臣下になったと言われていますが、ここでも、秀長の兄を事前に家康に引き合わせる、という作戦が見え隠れしています。
(5)秀長は、天正19年(1591)1月22日、51歳で亡くなっています。
(6)秀吉の弟ということもありますが、一介の百姓から武士、それも、いきなり指揮官になったわけですから、かなりの努力家だったと考えられます。
お礼
詳しいご回答ありがとうございました。 そうですよね!秀長もいたのを忘れていました。彼の功績は大きいですよね。bungetsu様のご回答を拝見して、よい弟の支えがあったからこそ、秀吉も天下人になれたと言っても過言ではないと、改めて思いました。おっしゃるとおり、秀長は努力家だと思います。