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科学と真理について
人が、もし科学によって真理を見つけ出すことが出来るのだとしたら、現代科学において採られている科学的手法(帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築)は、本当に真理を求めるに足るものなのでしょうか。 なお、既にプラトン、アリストテレス、ベーコン、デカルト、マキアヴェッリ、カント、クーン、クワイン、ポパー、カルナップ、ファイヤアーベント、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、シュリック、ヘンペル、ハンソン、ラカトシュの哲学書籍については、既に読んでありますので、これら著作を読んだことを前提にご回答戴いても差し支えありません。 恐縮ながら、ご回答お願いいたします。
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質問者が選んだベストアンサー
証明できる問題は数多くあるのですが、全てを証明しうる『真理』は 科学手法においては"存在しない"ことになっています。その真理が 自分自身に言及した時点で、矛盾を引き起こす為です。 ・・・・と、これじゃあ何を言っているのかわけ解らんですよね。 実は証明できない問題があるということは数学的に証明されています。 数学的証明、というのは一切の矛盾や言い換えを認めないので、 これが覆ることは少なくとも現代において科学とされるものの 中では考えにくいです。 20世紀初頭、今まで"自明"や"前提"としていた多くのことを証明する 計画である『ヒルベルトプログラム』が始まったのですが、 クルト・ゲーデルによる『不完全性定理』の登場によって完全に 頓挫しました。内容は・・・ 第一定理 自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、 ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。 第二定理 自然数論を含む帰納的に記述できる公理系が、 無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。 この証明については現代数学か、簡単な論理学の教科書にもほぼ 間違いなく書いてあると思いますので、そちらを参照したほうがいいです。 あるいは質問者さんの読まれているヘンペルの本にも書いてあるかも。 証明できない問題がある、というのは非常にショッキングな事実です。 単一の論理では語れないことから、数理学や論理学は"メタ"(より高次から) の視点を持つようになりましたし、実証に因っていたはずの物理学ですら いわゆるEPRパラドクス(相対論と量子論の矛盾の論争。アインシュタインが 出した問いに対してボーアの回答は観念的なものとなった)以後、 "形而上学的"と揶揄されるほど、観念的な世界の根本を描き出す哲学思考へと 変わっています。これは長い間"実証"を伴わない論争でもありました。 一方で、こういった中から一応の定式化を行い、一部を証明してをして 量子テレポーテーションや量子暗号などの新しい技術が産業的には生み出され ているわけです。証明できないものがあったとしても、完全に証明できている ものが覆るわけではありません。 紙に火をつければ燃えますし、水をかければ消えます。 雲の上にヒゲの神様はいないので、飛行機で雲を突き抜けても大丈夫です。 太陽の活動が活発になれば気度は上がりますし、静まれば下がります。 少なくともこういった事実の積み上げが、生活を便利にしていることは 間違いないのではないでしょうか。科学はこういった方向へ特化している ように思えます。(研究費的な意味で!・・・余談でした) 一方で、科学者が"清教徒的な"真摯さを持って真理を探究できる時代は 70年前に終わったのかもしれません。できたとしても、それは"形而上学的" にならざるをえないと思います。
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トートロジーになるかも知れませんが、現在のパラダイムの範囲では「因果律」=「科学」なので、因果律に基づいて演繹されない「理論は」出てこないと思われます。 パラダイムの転換があって「因果律」が否定されることがあるとすれば面白いですが、パラダイムという考え方自身が因果律に基づいているので、あまり期待は出来ません。 なおご存知の様に非常に短時間に限れば因果律が成り立たない、もしくは時間が逆転可能であることが知られているので、この辺が突破口かも知れません。^^
- never-ness
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質問のご主旨がよくわかりません。 >科学によって真理を見つけ出すことが出来る これが前提ですよね。そうだとしたら >現代科学において採られている科学的手法(帰納、演繹による観察と、統計学的手法に基づく結果、考察による理論構築)は、本当に真理を求めるに足る のは当たり前ですよね。 だって、現代科学によって「真理を見つけ出した」のだから、「現代科学の科学的手法は真理を求めるのに足りて」いる、ことになります。 何か解釈の仕方が違っていたら捕足でご説明ください。 本当は、「現代科学の科学的手法で真理を見つけ出すことが出来るのでしょうか」という問いだったのでは。 これだったら、「その時点での科学的手法で分かる(すなわち説明できる)現実のあり方」として「有効」だということで、「究極の真理」の解明などではないという話になりますね。 それともこちらの比喩が有効でしょうか。 ただの棒にタコ糸をつけて紙に餌の絵を描いて魚を釣ってみた。周りの人間の中には「そんなもので釣れるわけはない」と言う人もいた。しかし、なんとそんな手法で見事に魚を釣り上げた。この「棒にタコ糸と餌の絵」も釣り上げるのに有効であった(=求めるに足るもの)。 いずれにしろ補足をお願いします。
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補足
ご回答ありがとうございます。 質問が判りづらいものであったことに、重ね重ねお詫び申し上げます。 私の質問は、ご指摘の通り、現代科学の科学的手法によって、真理を見つけ出すことが出来るのかというものです。 観察一つをとっても、観察への、実権者の主観の介入は排除出来ないと思いますし、そもそもその観察は、特殊な事例しか見ていない可能性も捨てきれないと思います。 それとも、そもそも科学では、真理を見つけ出すことが出来ないのでしょうか。 改めまして、よろしくお願い致します。