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キャラクターの名前と出典と著作権の関係
- キャラクターの名前と出典と著作権の関係について、著作権の侵害に当たるかどうかについて質問します。
- 作品中で『ミッキーマウス』という名前のキャラクターが登場し、出典としてウォルト・ディズニーのミッキーマウスが明記されている場合、著作権の侵害になるかどうか疑問です。
- ビジュアルを持たないキャラクターをイラストとして描いた場合、著作権の侵害になるのか、その基準は何かについて質問です。特に、出典の明記やキャラクター名が特定の作品に結びつく場合について知りたいです。
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まず、第1のミッキーマウス云々について。 そもそも、「ミッキー」という名称自体に、著作権は、発生しません。なぜなら、わが国著作権法の規定によれば、著作物とは人の思想・感情を創作的に表現したものであるところ(同法2条1項1号)、「ミッキー」という名称からだけでは、何らの思想・感情も感得することができないからです。これは、「ベジータ」とか「ジャイアン」とか「ゴジラ」とかのキャラクター名に一般的な話です(もっとも、キャラクター名であっても、それから何らかの思想・感情を感得できるものであれば著作物たり得、したがって著作権の保護対象となり得る可能性はあります)。 しかるに、「ミッキー」という名称の(たとえばカエルの)キャラクターを独自に創作し、イラスト化して描いたとしても、それだけでは、少なくとも著作権侵害には当たりません(一般の不法行為あるいは不正競争防止法上の不正競争行為などに該当する可能性は、もちろん、否定できません。なお、「ミッキー」、「MICKEY」、「ミッキーマウス」などは、商標登録されているものが多数ありますから、その登録範囲では、商標権侵害を構成する可能性があります)。 なお、「別の存在であることの明記」は、単にこちら側の主張に過ぎず、裁判官が客観的に判断して「同じである」されたならば、著作権侵害が肯定されますから、法律上、特別の意味を生じるものではありません。 第2の、小説の登場人物云々の点について。 たとえば、夏目漱石の『坊つちやん』を、原作のストーリーに沿って漫画化すれば、その漫画は二次的著作物であり(著作権法2条1項11号)、したがって(著作権が切れていなければ)翻案権の侵害に当たります(同法27条)。 しかし、その中の「赤シャツ」だけをイラスト化した場合には、ただちに侵害ということはできません。『坊つちやん』の創作性は、その作品全体に対して感得され得るものであって、「赤シャツ」1人では、それを感得することができないからです。 「出典(と別な存在であること)を明記した場合」について、括弧書きの中身に特別な意味がないことは、前述の通りです。出典の明記については、著作権法上それが必要な場合もあり(同法19条、48条)、明記しないことは権利侵害を構成し得るものです。もっとも、訴訟法上の証拠という意味では逆に作用することもあります。すなわち、仮に明記したとしても権利侵害と判断された場合(作者名・出典の表示以外の点で侵害ありとされた場合)、出典を書いていることによって、「あなたの作品に依拠しました」という証拠になり得るからです。 第3のハリー・ポッター云々の点について。 「ミッキー」と同じく、「ハリー・ポッター」という人物名それ自体から、何らかの思想・感情を感得することはできませんから、同姓同名の別人物としてハリー・ポッターなる名称を与えることは、問題ありません。 もっとも、「ハリー・ポッター」は、商標登録されていますから(登録番号第4480056号)、その名称を付した商品等については、商標権の侵害となり得る場合があります。また、著作権や商標権の侵害の有無が、一般不法行為、不正競争行為等に該当する可能性を否定するものでないことも、既述の通りです。
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- Yorkminster
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>> 創作した教師風のキャラクターを ~ 彼が作中でどのような言動・行動を取っても著作権には触れない // まず、根本的な問題として、「これはxxxxをイラスト化したものである」という主張それ自体は、著作権法上、大きな意味を持たないことに留意すべきです。 著作権法において出所を明示する義務があるのは、48条の場合です。すなわち、代表的には「引用」がそうですが、著作権を法律上制限して一定の自由利用を認める場合に求められるものです。 したがって、もとより「著作物の利用」といいうる態様でない限り、同条の適用はありません。複製行為や翻案行為が、それら制限規定によって適法にならない限りいくら出所を明示しても無意味であり、また、複製や翻案とさえいえない独自創作の域に達している場合は、そもそも「著作物の利用」ではないため、これまた出所の明示は無意味です。 つまり、「これはxxxxをイラスト化したものである」と書こうが、書くまいが、実際の表現を相互に見比べて実質的に同一あるいは類似していると評価できるかどうかが、著作権法においての関心事といえます(著作権侵害にならなくても一般の不法行為は成立しうるので、醜悪なイラストを描くことである小説の評価を落とせば、もちろん問題にはなり得ますが、あえて著作権侵害に限定して議論する必要もありません)。 同一性保持権に関しては、性質が人格的利益の保護という主観的利益を含むものであるため、十把一絡げに論じることは危険ですが、しかし、第一義的には「当該著作物の表現」が対象と解するすべきでしょう。小説の場合は言語による表現ですから、それに対する改変が問題です。イラストと言語とは、もとより表現方法が異なりますから、そのイラストから想起される言語的表現をもって侵害だと即決するのは、飛躍があります。 >> 暗示的に『同一のキャラクターだ』と示す表現を明示的に『別物だ』と表記することで否定できうるのではないか // 先にも書いた通りですが、行為として侵害か非侵害かは、「自分がどう思っていたか」という主観的事情とは無関係です。 単純な例だと、「犬だと思って車で轢いたら、実は子どもだった」という場合、そう主張しさえすれば不法行為にならない、などということはあり得ません。行為者の主観的事情は責任レベルの問題であって、侵害論のレベルではほとんど意味をなさないのです。 そして、著作権侵害(著作者人格権侵害も同じ)も不法行為に他ならないため、これと全く同じ議論が当てはまります。「これはxxxxに依拠して作ったのだ」という認識を持っている以上、少なくとも過失の存在は認められますから、それを主張すること自体、失当といえます。
お礼
詳細な回答を何度もありがとうございます。 私の中では解決したように思いますので、補足に対して何かございませんでしたらここで締め切らせていただきたいと思います。 私の説明と理解不足のため、お手間を取らせてしまいました。 お詫び申し上げますと共に、重ねて御礼申し上げます。
補足
回答ありがとうございます。 お礼で書きましたように私の中では解決したように思いますが、 質問で言葉が足りなかった点を一応補足しておきます。 >>もとより「著作物の利用」といいうる態様でない限り~出所の明示は無意味です。 出典を出さなければ明らかに問題にならなそうなケース、Yorminster様の文を借りれば複製や翻案とさえいえない独自創作の域に達しているケースで、私が作品表現の一環として敢えて出典を出したかったため、最初にあのような質問になりました。 最初にそれを書いておくべきでした。お手を煩わせてしまって申し訳ございません。 出典の明示は、著作権の問題に限っては「引用」に当たらない限り、それがどのような表現かに関わらずプラスにもマイナスにもならなかったのですね。 >>「別物」の問題 私が前提として「これはxxxxをイラスト化したものである」という作中における主張が著作権に影響しうると思いこんでいたため、最初の回答が今ひとつのみこめていませんでした。 作者の主張が作品内で表現され、鑑賞者の作品の見方に影響を与えるならば、それは作品の客観性に影響を与えているのではないかというのが私の考えです。 しかしそもそもそのようなレベルの客観性は著作権侵害においては問題にされず、仮に他の点で問題になっていればそのレベルでどのような事実があろうと作者の一方的な主張と見なされてしまうと、今は解釈しています。
- Yorkminster
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>> 赤シャツが赤シャツたりえない行動を取った場合、それは同一性保持権の侵害に当たる // 一概にはいえませんが、ならないでしょう。なぜなら、「赤シャツたりえない行動」とは、すなわち「赤シャツというキャラクターの人格」の問題だからです。あるキャラクターにどのような人格を与えるかは、表現ではなく、既にアイデアの段階の問題です。著作物になるのは、アイデアではなく創作的「表現」ですから、そのアイデアに変更を加えても著作権の侵害ではありません。 もちろん、アイデアを変更した結果、表現も異なることはあり得ます。たとえば、赤シャツを、原作とは異なり「品行方正で教師の鏡」という設定にし、それを『坊つちやん』の物語に載せれば、『坊つちやん』という物語の「表現」に変更を加えることになります。 いいかえれば、アイデアを変えても表現が同じなら著作権侵害、アイデアが同じでも表現が異なれば非侵害、です。このことの例としてよく引き合いに出されるのは、『ロミオとジュリエット』と『ウェストサイド物語』です。これらは、基本となるアイデアや物語の骨子は共通していますが、具体的な表現は全く異なります。 同一性保持権との関係でいえば、「何の」同一性か、という点を考えなければなりません。この権利は、著作者の、著作物に対する人格的利益を保護する権利ですから、保護されるべき同一性の対象は、当該「著作物」ということになります。しかるに、「赤シャツという人物像」は著作物ではなく、「『坊つちやん』という小説」が著作物ですから、赤シャツ単体について議論しても埒があきません。 >> 赤シャツが「坊つちやん」を出典とはしているものの ~ 「裁判官の『同じである』という判断」に影響を与え // 訴訟法的にいえば、同じか、違うかは、「評価」の問題です。評価の根拠となり得るのは「事実」です。 端的に、ゴッホの「ひまわり」とミレーの「落穂拾い」が別物だというのを説明するとき、「俺が違う思うから、違うんだ」などといっても失笑千万です。具体的に、題材が違うとか、色使いが違うとか、筆遣いが違うとか、そういう「事実」を挙げることで皆が納得する訳です。 すなわち、「私は別物(同じもの)だと思います」という主張は、「当事者(原告・被告)が評価した結果」を述べているのであって、裁判官の採用の限りではありません。「ああ、あなたはそう思ってるのね。で、その根拠は?」となるだけです。 もちろん、「『別物だ』と書いておいた」という事実は、存在します。しかし、その意味するところは、けっきょくのところ「別物だと思っている」という評価を述べるに過ぎませんから、これを事実として取り上げる意味がありません。 ゆえに、「別物です」という主張は、裁判官の心証形成にとってほとんど無意味といえます。
補足
ご回答ありがとうございます。 >>> 赤シャツが赤シャツたりえない行動を取った場合、それは同一性保持権の侵害に当たる // >>一概にはいえませんが、ならないでしょう。 では極端な話、創作した教師風のキャラクターを「彼は夏目漱石作『坊つちやん』の『赤シャツ』である」と文章で明示しても、舞台が『坊つちやん』の外である限り、つまり「『坊つちやん』という物語の『表現』」に変更を加えることにならない限り、彼が作中でどのような言動・行動を取っても著作権には触れないということでしょうか? >>「『別物だ』という表記」について 暗示的に『同一のキャラクターだ』と示す表現を明示的に『別物だ』と表記することで否定できうるのではないかということを言いたかったのですが、上の例が問題にならないのであれば、そもそも『同一のものだ』『別物だ』と示すこと自体が著作権法上無意味なことであって、視覚または文章表現が元の著作物の表現の変更と認められない限り何の意味も持たない、ということでしょうか。
補足
詳細な回答誠にありがとうございます。 >なお、「別の存在であることの明記」は、単にこちら側の主張に過ぎず、 >裁判官が客観的に判断して「同じである」されたならば、著作権侵害が >肯定されますから、法律上、特別の意味を生じるものではありません。 この点についてですが、これは正確には「別の存在であることの明記」が裁判官の「客観的な判断」に関与し得るか否かが問題になるという解釈でよろしいでしょうか。 例えば漫画表現で「坊つちやん」の本から「赤シャツ」が抜け出してきたという表現があり、その赤シャツが赤シャツたりえない行動を取った場合、それは同一性保持権の侵害に当たるように思えます。 しかし他の箇所でその赤シャツが「坊つちやん」を出典とはしているものの「坊つちやん」に出てくる赤シャツとは別な存在であることの明記(実は機械である、実は他人の妄想である、など)があり、それが読者に対して十分な説得力を持っていれば、「裁判官の『同じである』という判断」に影響を与え、結果的に法律的な意味を持つのではないかと思います。 この解釈は合っていますでしょうか?