• 締切済み

学問と宗教は一体である

わたしの話に、皆さんとおそらく周りの友人や両親や家族は、どう思われるだろうかについてお聞きします。 わたしは、学問と宗教について止揚が可能だと思っています。 それは数学や物理化学などにおいてもそうだと思っています。 いや、むしろ弁証法を通さなくても、本来は一体なのだろう。 そう感じることも多いのです。 それぞれ思い思いの特定された宗教団体を頭に浮かべているかもしれませんが、 神という存在を信じることが「宗教」に属していることになると考えてもらいたいです。 年齢と、両親からよく言われた言葉と、自分が生きていることに感謝する瞬間、を 簡単に書いてくだされば、さらに幸いです。 素晴らしい意見を待っています。

みんなの回答

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (766/5722)
回答No.8

どう思うか。 正直、よくわかりません。 少なくとも、学問と宗教が一体である、とは思えません。 別物と言うのも妙ですが、関係があるのかどうかさえ不明です。 年齢は極秘。 両親からよく言われた言葉は、「元気?」と「馬鹿には魚は釣れない」。 自分が生きている事に感謝する瞬間は、これと言ってありません。

  • rojo131
  • ベストアンサー率34% (82/236)
回答No.7

まず、始めに。 質問者さまの、「学問」を「科学・数学」、「宗教」を「信仰」と言い換えさせていただきますね。 そのほうが、私の考えを説明しやすいと思いますので。 ※科学・数学は、森羅万象について把握し実用化することを指し、信仰は、特定の宗教ではなく、不可視の大きな力に対する畏敬そのものを指すとします。 私も、科学・数学と信仰は、ある意味で一体であると考えています。 二項対立(バイナリー・オポジット)とでも云いますか、一見すると相反するもの、矛盾しあう二項のように思えますが、実は互いに影響し合い、混じり合いながら共存しており、その境界は定かではない、と。 個人的には、どちらも源は「哲学」であったのではないかと考えています。 自らを取り囲む物事を理解しようという欲求を満たして行く過程(試行錯誤の実験であったり、形而上学的な思案であったり)で、「科学・数学」と「信仰」に分化したのではないでしょうか。 したがって、どちらか一方を突き詰めようとしても、どうしてももう一方の影が過ぎってしまう。 むしろ、一方を突き詰めようとすればするほど、もう一方の存在を認めざるを得なくなるのだと思います。 大本が同じなのですから、”切り離せない”のは当然と言えば当然ですよね。 上記のように云ってしまうと、物凄く古い時代(科学の黎明期)の話であるように思えてしまうのですが、もちろん、現代にも当てはまります。 これだけ医療技術が発展しているのに、生命に関して(生殖医療や尊厳死の是非)は、「倫理的な問題が…」だとか「神の領域を侵し…」だとか云われ続けるのは、ひとつの例かな、と思います。 親からよく云われたのは、「視野を広くもちなさい」「自分の意見を示しなさい」「他人の意見を聴きなさい」。 生きていることに感謝する瞬間は、こうやって人と「自分の意見」を述べあうとき。 他のどんな動物でもなく、ヒトとして生まれてきたことに感謝します。 (20代前半・女性)

noname#84210
noname#84210
回答No.6

形が出てきましたので、私が思い浮かべる形は「多面体」です。限りなく「球」に近い無数の面を持った「多面体」です。 学問や経験で得たものが面となります。 そして、それが増えれば増えるほど面は多くなります。 それが自分を形成してゆきます。 面が多ければ多いほど、様々なことに対応できる自分になれる。 面が多ければ多いほど、いろんなものを吸収できる。 そうして、それによって、さらに面が増えてゆく。 宗教や神と、「多面体」の位置関係については、はっきりとは認識していません。 「多面体」の中に、それがあるのかもしれないし、外にあるのかもしれない。もしかしたら、「多面体」をすっぽりと包む、目には捉えられないほど大きいものかもしれない。 姿・形を捉えられなくても、感覚として「そこにある」のだと思います。

noname#92301
noname#92301
回答No.5

お礼ありがとうございます。No.4です。 説明が下手なので、少し補足させて下さい。 表現の違いで、言ってることが被ってしまいましたら、すみません。 回答の最初に書いた、「~だけでは、~せず」は、それらひとつだけでは、成り立たないと言う意味で書きました。 またそれらの学問を想像するとき、私は立方体を思い浮かべます。 角、角に学問があり、哲学や宗教(神智学)などの学問と出会うことで、立方体は角を増やしていきます。 科学があり、対角に宗教があろうと、それらは線で引けるほど必要不可欠と感じます。 知れば知るほど、角は増え立方体内は線でいっぱいになります。 その線の交わるところがバランスであり、その立方体は私の中に内包されるものです。 極めれば、ひとつと書いたのも、私の中でのことゆえです。 私の「神」とは、「あってあるもの、なくてないもの」です。 私にとってあるもので、「存在」ではありません。 質問者さんのお礼文にそって補足させて頂きました。方向性は同じでしょうか?

--nayu02pe--
質問者

お礼

すごい!すごいおもしろいです! まず、わたしの考えをきいてください。 わたしは、世界の全てはいろんな意味で学問であるといえると思います。 人との接し方も、優しさを知ることも学問であると感じます。 先ほどは話がややこしくなると思ったため書きませんでしたが、 そういった学問にも、発展段階というのはあるように思えるからです。 そしてわたしは「ひとつ」という本質を「頂上」に表しました。 それは知識の専門化に伴い細くなっていくピラミッド型です。 それはわたしという存在によって成り立っているのではありません。 世界がそうなっているから成り立っているヒエラルキーです。 その世界のどこかに私は位置します。 頂上にはすべてをつかさどる存在があります。 それが神です。それは学問の本質です。つまり世界の本質です。 そういった理論的なプロセスを経て神の存在を感じました。 でも、回答者さまは立方体によって表したのですね。 それも、じぶんという存在によって成り立っているもののように思えました。 そういった意味で「ひとつ」と書かれたのでしょうか。 つまり、わたしの中にもひとつ、誰もがひとつ、ということでしょうか。 そしてそれは人によってかたちが違うようですね。 文系の人、理系の人、何かに秀でている人、子供、大人、と、ひとりとしておなじ立方体はないのでしょうね。 さらに立方体のかたちに関わらず、神はいるのでしょう。 理論的なものではなく、ただそこにあるもののように感じました。 わたしはこう解釈しました。 あまり自信がないのですけれど、わたしの解釈が正しければ、 たぶん方向性は似ているのではと思います。

noname#92301
noname#92301
回答No.4

神に祈るだけでは、人は救えず、科学だけでは、マットサイエンティストと変わらず、哲学だけでは、前には進まず、それらが重なるところに人がいなければ、バランスがとれない… 昔読んだ本に書いてありました。 どれも極めれば、道はひとつになると。 30代、両親からの言葉は「お前が良いと思う方を選べ」 生きてることを感謝する瞬間は、雨が降っているときと、朝目が覚めた瞬間です。

--nayu02pe--
質問者

お礼

追加の質問にも答えてくださりありがとうございます。 回答者さまの意見が掴みやすく、お礼が言いやすくなりました。 わたし自身は、とてもおもしろい意見だと思います。 わたしは、ひとつの科目を極めれば極めるほど、 ほかの科目の内容が必要になってくると思います。 英語には物理化学が必要になり、数学には国語が必要になる。 そういったことが普通に起こり得るのです。 単なるバランスの問題といえばそう説明できなくはありません。 しかし、もし学問全体をピラミッド型のヒエラルキーで表してみるとどうなのでしょう。 小学生の教科書にも書かれるような「当たり前」といわれる知識は、 ヒエラルキーの大部分である下のほうに位置されると思います。 その部分では、生活、国語、算数、道徳、といったように内容に則して明確な線がひかれているのです。 そして上にいけばいくほど、全体の占有率は減り、その内部でも、境界線はぼんやりとしてきます。 これは先ほどわたしが申し上げました、バランスの問題としても充分に説明がつく範囲内です。 例えば優秀な大学の入学試験はここにあたるのではないかという気がします。 しかし、ピラミッドには頂点があります。 その頂点への道が「ひとつの道」であると思うのです。 そして、そこには神の存在があると思うのです。

  • Nannette
  • ベストアンサー率26% (1499/5697)
回答No.3

お早うございます さる高名な科学者(誰だったか名前失念)が、学理を追求すればするほど、そこに神の存在を感じないわけにはいかなくなる・・・と。

--nayu02pe--
質問者

お礼

こんばんは。 返事が12時間遅れになってしまいましたね。ごめんなさい。 こういうことを知っている人がいると、とても嬉しくなります。 わたしも、そう思うからです。 そしてそれは真実だと思えるからです。 ありがとうございました。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.2

一体も何も古代宗教その物が当時の最先端科学ですよ。 古代は宗教に科学文化教養がセットでしたからね。 高僧を招いて取り入れてましたっけ。 何故昔の宗教が権威があったのかはここにあります。

--nayu02pe--
質問者

お礼

そうですね。 でも、わたしが言うのは今のことです。 昔と今の文明は科学の発達度が違うのです。 今の文明は、人間が全てを支配していると勘違いしてしまいやすいような文明です。 医療関係で考えていただくと、とても分かりやすいと思います。 残念ながら有史では今のような文明はないと思います。 なので、今のような文明の発展段階は踏んでいないと判断されます。 今の文明は、そのおかげで、人間が神をも支配しているように思いやすくなった文明です。 神の存在を自分の内のみに認めているひとも多いのでしょう。 現時代において、神を信じるというのは、変なことのように思われがちなのでしょうか。 ありがとうございました。

noname#84871
noname#84871
回答No.1

補足要求です。 神という存在を信じてない者はどうすればいいのでしょうか?

--nayu02pe--
質問者

補足

信じていなくとも答えられるのであれば、答えてもらいたいと思います。

関連するQ&A