奈良時代は中国から入ってきた漢字を日本語の発音に当てはめた真仮名を使っていました。
今のローマ字みたいな感じですね。
平安時代になってそれでは使いにくいということで平仮名と片仮名が出来ました。
でも平仮名は女性・子どもが使うものという意識が強く、男性の貴族は日記は漢文(中国語)で書いていました。
当時の日記は私的なものではなく、公の記録的なものでした。
平安初期、醍醐天皇が国風文化を推し進めました。その時、たまたま急逝した従兄弟の代わりに勅撰集の選者に入った紀貫之が勅撰集の序文を真仮名から平仮名に変えました。(用意されていた真仮名の序文は巻末に付けられられました)
日本人の気持ちを表すのは平仮名を基調にした和文しかないのだとした紀貫之は日本で最初の仮名日記も書きました。これで女性が文学をしやすくなりました。
はずみがついたのは藤原道長の娘、彰子の入内からです。
ライバル、一条天皇の中宮定子の女房には清少納言おり、その文才が宮中では大評判でした。
一条天皇は聡明で美しい定子と打てば響く清少納言のいる定子のところに行きがちでした。
彰子のところに来て貰わないと道長は困ります。子どもが出来ないと外孫政治が出来ませんからね。
それで道長は清少納言に対抗出来そうな女房として、亡くなった旦那さんを偲びながら実家でボチボチ物語を書いてた紫式部をスカウトしてきます。
同じような理由で女性として初めて歴史文学を書いた赤染衛門、歌人、和泉式部・伊勢大輔といった錚々たるメンバーが一同にかいし、有力な男性権力者の庇護のもと筆を競うことになったのです。
ご存じかもしれませんが紫式部と「蜻蛉日記」の藤原道綱の母、「更級日記」の菅原孝標女の3人は親戚です。文才のある家系ですね。
ちなみに世が乱れると真っ先に出来なくなるのが文学で、特に女性は文学があまり出来なくなります。
女性の文学が盛んな時代は平和な時代なのです。