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病気になると感受性は鋭くなるのでしょうか?

 ボランティアとして、障害や病に苦しまれている方のお世話をしていらっしゃる方にお話を伺うと、障害や病に苦しまれている方は、私たちが日々の生活に追われ、見落としてしまう事柄を見る(感じる)ことができ、私たちはそのような方々と接することで、逆に、生きる力(生きるということに対する感受性)のようなものを分けてもらえる(そういうことに気づくチャンスをもらえる)のだ、とおっしゃっていました。  なんとなくそうだろうなと思うのですが、みなさんどうお考えでしょうか?  また、これは、どうしてなのだと思われますか?心理学・精神医学の範囲でなにかある一定の理解のされかたなどがあるのでしょうか?  漠然とした質問ですが、よろしくお願いします。

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回答No.6

お礼読ませていただきました。 少し補足です。下で書いた「もの」に対する執着心とは、『もの』=『もの=者(人間)』という意味です。限りある時間の中で、よりたくさんの人と語らい、お互いに影響しあいたいという思いが生れるのではないかといいたかったのです。付け加えて言うなら、自分が存在していることを人と語り合うこと(コミニュケ-ションをはかる)で自分という一人の人間がこの世に存在していたということを誰かの記憶にのなかにでものこしたいというおもいです。そのてんが『ものにたいする執着心』と書いた次第です。現実を受け止めるのは容易ではありません。他でも書きましたが、かえれぬ現実の狭間で人は悩み、もがき、はがゆさに唇かんでしまうことありますね。しかし、かえれぬ現実のそのもう一方には、『いま』このひととき とでもいえる別の現実があります。かえれぬ現実に立ちすくんで身動きできなくなったとき、『いま』このひとときの一瞬、一瞬に素敵に感じることにこころときめかせたいです。朝耳にしたすずめの鳴き声にすがすがしさをかんじたり、しかし、同じ泣き声を耳にすることできません。同じ鳥が鳴いたとしても今朝わたしが耳にした泣き声と同じものは聞くことができない。だから、かえれない現実にでくわしたとき、『いま』このひとときをあるがままに受け入れ気持ちおおらかにもちたいです。流れる時間の中でときどき立ち止まって周りの景色を楽しみながらゆっくりお散歩していくことも大事じゃないかと考えています。ゆっくりお散歩してみると気づかなかったいろんな景色があったことにまた、驚きに似た新鮮味かんじられます。お散歩はじめてみませんか?

motsuan
質問者

お礼

「『いま』という別の現実」によって現実にがんじがらめになっている時間とは違う「『いま』このひとときをあるがまま」受け入れ、『いま』を相対化して、つまり、現実を相対化して受け止めれるようになる、との意味なのかなと思いました。 春になりましたね。散歩(ジョギング)してみました。私の近所では梅が満開です。あふれ出る生が私の現実には無関心に、いえ、私のかたくなな現実を突き崩してくれるようです。littlekissさんがおっしゃっているように、「『いま』という別の現実」を受け入れることが、私のなかにある生命力のようなものの呼び水になっているのかもしれないなと思いました。(もしlittlekissさんが北国に住まわれていたらごめんなさい。私も北海道に住んでいたことがあって、そのときは、テレビなどで(したがって関東地方で)春!春!と騒いでいると、むっとしていました。いまはのんきに春だなぁと同感してしまいます。) いろいろ、ご意見やアドバイスをいただきどうもありがとうございます。

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noname#8665
noname#8665
回答No.8

風邪をひくと文章が無性に書きたくなるという変な性癖を持つ男です。 卑近な例で申し訳ないが、僕のこの場合の心理は、自己分析すると、 「風邪をひく→いろいろ不安になる→考え事をする→ 人生について考える(本題から逸脱)→重要なことに気がついた!→ いてもたってもいられなくなる→どうしても文章に書きたくなる →書いてしまう(無謀)」 というようなプロセスになっているような気がします。 これ、いったいどうしてなのかなと自分でも思うんですが、 一人っきりで寝ていると、自分の相手をするのは自分しかいず、 体を動かすこともできないとなると、考え事ぐらいしかない。 考えているのは最初は「明日、会社いけるかなー」ってなことですが、 だんだんそんなことばっかり考えていると気がめいってくるので、 いろいろ、あっちこっちに思考が脱線を始める、そんで、気がつくと、 人生について、などという方向にむかう。(これなら、答えなんてハッキリ とはないから、何時間でも潰せる)で、めったにない考える時間のなかでは、 当然のごとく、普段考え得ないことを思いつく。 まー、こんなことではないかと思うのです。 で、長々と卑近な例について書いたのは、これがちょっとしたヒントに なりはしないだろうか?と思ったからです。 いわゆる、ハンディキャップを持った方は、この僕の風邪の時間に相当 するものを、膨大に持っていたりします。なおかつ、自分の持つ ハンディキャップの苦しみに対する理解をどうやって持たざる人に、 持ってもらうかなどという難しい問題を抱えています。 ですから、感受性云々っていうよりは、普通考えようもない難題を考えざる を得ないことになっているハンディキャップを持った方は、 それを持っていない人とは突き付けられた問題の質と量が大幅に違うという ことになりますし、それが出す答えの質と量も違ってくるという現象を生む んではないかと思います。 余談になりますが、「無敵のハンディキャップ」というドキュメンタリー映画 を御存じでしょうか?障害者のプロレス団体を追ったドキュメンタリー なんですが、そのなかでいくつか、この件に関係しそうな話が出てきました。 一度御覧になることお勧めします。 ここで、僕が彼等、障害者のコメントを引用すると、差別ととられそうなの で、その部分については差し控えます。ですが、言っておきたいことは、 彼等の中には、「(よくも悪くも)特別な存在として扱って欲しくない」 というようなコメントが散見されました。僕もそうあるべきだと思います。 質問の意図はその辺にはないようなんですが、念のため。

motsuan
質問者

お礼

oniocさん、遅くなりましたがどうもありがとうございます。  ぐるぐるめぐる思考と難しい問題から通常とは質と量も違う感覚(考え)が出てくるということですよね(熟成されたお酒のようですね)。わかりやすい例で自分の身に置き換えて読ませていただきました。私は、(肉体的な)健全さはあるいみ猪突猛進というか「難しい問題」を突き飛ばして進んでいる部分があるのかなと思っています。多くの方からご指摘頂いたように、病気になられた方などに特有の感受性があるとすれば、必要により生まれたものなのだと思います。ですが、そこから生まれた「特有の感受性」のようなものは、健康なものにも必要なものなのではないかという気がしています(この問題意識は質問のタイトルと違いますね・・・ごめんなさい)。それは、「特有の感受性」が、健康なものにとっても、必要な心のパーツとしてある、ことが、病気の状態を「特別な存在」ではない、私たち自身のありようの一端として受け止めるべきものなのかなというような意味合いも含んでいると思います。oniocさんの回答を読ませて頂いて、じっくり自分自身を観察してみなくてはと思いました。(まず、風邪でもひかなくては・・・能天気なもので。) 「無敵のハンディキャップ」をレンタルビデオやさんで探してみたのですが、見当たりませんでした(こういう映画って、人から言われないと見ないので良いチャンスだったのですが)。書籍になっているようなのでそちらのほうで挑戦してみたいと思います。 どうもありがとうございました。

回答No.7

 「ストーリーらしいストーリーがない」とも言われる梶井基次郎ですが、『檸檬』や『冬の日』などを読むと、やはりその鋭い「感覚」に惹きつけられます。ふつうの文学作品では、基本的に「出来事・事象があり、それへの反応として登場人物の心情の変化が起こる」という流れがあるものです。がしかし、梶井作品には目立った事象なしに突然「悲しみ」や「痛み」が人物の心情に湧き上がる場面が多々あります。へんな喩えですが、お味噌汁をじっと見ていると火山の爆発のような「味噌の湧き上がり」が見られたりする、それと似た感じで、突然深く大きな悲哀が人物を襲い、圧倒する場面がよく見られるということです。  これを説明できる要件はたった一つ。「肺病」です。昭和初期、死の病だった結核です。常に「死」を傍らにたずさえて生を歩む人の、独特の感性。そうとしか言いようがない。  伊藤整も『小説の方法』でだったと思いますが、「死を前にした者の目には、森羅万象のすべてが新鮮な美に映ずる」と述べています。そういうこと、あるのでしょう。  また、「感覚」というものは優れて「身体性」に依拠します。身体の在り方によって、感覚は左右されてきます。ここから、ある種の障害を持つ人の感覚が、健常者とは異なったものになるということは、かなり考えられると言えましょう。それが時に新鮮な感動を覚えさせるものにもなる、ということもあると思われます。  なかなか見つからないかもしれませんが、解釈学の門は開かれているものでしょう。何人かの人はそこを通ることができました。異なった感覚へのブレイクスルーは、不可能なことではないように思います。

motsuan
質問者

お礼

 いつもありがとうございます。文学においてはほとんど自明に近いことなのかもしれませんね。  「死を前にした者の目には、森羅万象のすべてが新鮮な美に映ずる」ということばから、O・ヘンリーの「最後の一葉」(ほとんど記号ですね)を思い浮かべてしまいます。病床にあっては、自分の外に自己を投影し(逆にいえば森羅万象を取りこんで)「身体性」から離れようとするのでしょうか?私は自分が弱っているとき(落ち込んでいるときや悲しいとき、病気のときもそうかも)に確かに自分の感情のようなものを他のものに投影し、それに意味を持たせようとしているような気がします。たとえば、流行っている歌の詞を自分のことに置き換えて勝手にじ~んとしたり、夕日や夜空を眺めてふとため息をついたり。(のっているときや喜んでいるときは逆で外に向かって、感情を投げかけている/投げつけている感じがします。弱っているときは自分のなかのわけのわからないものを、一旦、外に投影して、それを取りこんで了解しているような感じがします。感覚を裏返せば外側が内側に内側が外側に。うーん、スプラッター映画の世界ですね。)  『檸檬』は若いころよんでなんかついていけないと思った記憶があります(当時は元気だっから?)が、もう一度読んで見ようと思います。どうもありがとうございました。

回答No.5

考えられることの一つに『時間』の捉えかたに何か関係するような気がします。こころに『ゆとり』とでも言いましょうか・・・こころの中でいろいろな思いが葛藤する中で『悟る=>ゆとり』が生れるのではないかと考えます。時間はこうして私がパソをカチャカチャといじっている間もそっと静かに流れています。書き込みに夢中になって文章綴って誰かに言葉を送る。夢中になると時間がどんどん過ぎているにも気がつかない。同じ時間の中で、パソをいじっている私がいる、また別の場所では・・・・あくせく働く人、顔つき合わせてケンカしている人、寝そべってTVみながら朝のワイドショ-みてゴシップ楽しむ人、いろんな人がいます。どこでも時間は流れています。『いま』、こういった瞬間から『いま』は『いま』でなくなります。時間の観念が人によってちがうかもしれませんが、障害や病を負った人たちは、時間に限りがあることをよくご存知です。そのせいか『いま』というこの瞬間をとても大事に思っておられるのではないでしょうか?先ほども書きましたが、障害や病をおったことで、健常である人よりも時間に対していろいろ考えられる機会がおおくあったのではないでしょうか?立ち止まって考える間には当然、こころの葛藤が起こる。そのことによって、『生』への執着心、『もの』への執着心が増幅されます。それが原動力となって生き生きしてみえるのかもしれません。その生き生きさが、こころのゆとりとして他人からは暮らしを悟った人であるようにまた思えるのかも?

motsuan
質問者

お礼

 どうもありがとうございます。  「時間に限りがあることをよくご存知です。そのせいか『いま』というこの瞬間をとても大事に思っておられるのではないでしょうか?」の「大事」というのは「『生』への執着心」という意味ですよね。  いまこの瞬間の生を手にしている、貪欲にありとあらゆる「いま」を吸収して感じている。 昨日への悔恨と今日と同じ明日への徒労感、あるいは、今日と違う明日にするための焦燥感が「いま」というちょうつがいにぶら下がっている私ではなく、かといって、「いま」という瞬間によって過去や未来を断絶するのではなく、「生」の自然な形として「いま」のなかを流れていく「何か」が私の思う「感性」のようなものなのかも知れません。それは、多分、私というものが、過去や未来に閉じ込められた存在としてあるのではなく、「いま」を通して、私が外の世界に開いている、閉じていない過去や未来を創り出すことができる、というところからくるlittlekissさんのおっしゃる「ゆとり」のようなものかもしれないと思いました。多分、私のような心の未熟なものは自分を変えるものを受け入れられない(受け止められない)のだと思います。何かを失って初めて受け止められるようになるのかも知れないと思いました。littlekissさんのご意見からちょっと整理できた気がします。ありがとうございました。

  • kaleen
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回答No.4

 訪問看護をしています。深い考察はできないのですが、一看護職の立場と、個人的な日々の感想から。  看護という仕事そのものが「全人的理解」(それこそ医学の方でホリスティックと言い出したことです。健康と不健康は連続体、病をもつ人と、疾患を切り離しては考えない、また環境ともひと続きである・・)「全人的援助」をモットーとしておりまして、あえて言えばそこが、他の療法士さんたちと違う特徴で、違った感性を我々が持つゆえんかなあ、と思います。(言い過ぎ?他職種の方ゴメンネ)  それで思うのが、生への感受性についてはmotsuanさんのおっしゃることにうなづける部分があります。特に、(先天障害の方は若干事情が変わりますが)「当たり前にできていたことがありがたいと思える」と、疾病をもたれた方はよくおっしゃっています。  ただ、わたしの個人的な感想では、生きる力を分けてもらえるのは、その頑張り、努力、(場合によっては)果てしない(でも必ず果てはある、人の時間は有限であることのありがたさよ!)疾病との闘争に見られる闘士としての雄々しさからでありまして、「当たり前のことにありがたみを感じる」感受性からではありません。  わたし自身いいもんを持ってるわけでもありませんが、その感受性は、ハンディを負わなくともわたしたちは養う事ができると思っていますし、「障害・疾病があると、そうでない場合より優れている(?)」という逆差別の根拠にもならないと思っています。この辺の表現は、身近でよく聞かれるものですから、個人的に疑問を投げかけた次第です・・・  障害・疾病があろうとなかろうと、感受性については、「その人個人」のレベルだとわたしは思っています。

motsuan
質問者

お礼

 どうもありがとうございます。実際に携わっていらっしゃる方からの声がきけて、とってもありがたいです。  みなさんのご指摘のように最後はやっぱり「その人個人」のレベルなんですね。みなさん患者さんと接している方は患者さん以上に「生きる」ことに向き合って一生懸命なのですね。そこまでいって始めて最後はやっぱり「その人個人」のレベルといえるようになるのかなと、だんだん分かってきた次第です。  「生きる力を分けてもらえるのは、その頑張り、努力、果てしない疾病との闘争に見られる闘士としての雄々しさから」という言葉を肝に銘じておきたいと思います(なんか既にパワーをわけてもらっちゃってますね)。どうもありがとうございました。

  • buran
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回答No.3

大学時代は一応心理学専攻でした。10年以上前の話ですが。 ただ、私の学部は実験心理学というものが中心で(知覚や認知など)、隣の福祉系の学部へ臨床心理学の講義や実践をしに行ってました。 そのときに聞いたことを総合すると、人一人ひとりが「生きる」ために、もし必要な「もの」が失われたり機能低下を起こせば、必ず代替機能が働いて補完するのだと。簡単に言えばそういうことです。 それは、「からだ」ならば他の部分の機能が亢進し、「こころ」ならば合理化や逃避などの防衛機制や感受性および感受指向性の変化があらわれるというように説明せざるを得ません。(明解な研究はなされていません。からだもこころもいずれにしても、脳が機能を司っていてそのメカニズムが分かっていないからです。) いま、からだとこころに分けて書きましたが、別々に動いているわけではなく、これらが連関して「人ひとりの全体」でそう「ある」ということが事実です。 それを見て、他の人が、普段意識に無い無意識の元にあるものに気づくわけで、元々みんな持っているのに100%は機能としては使われていないし、常に連関してフル稼働しているわけではない、ということだと思います。 学問や哲学的な面でいえば、最近出てきた「ホリスティック医学」や禅の哲学のなかでの「いのち」へのアプローチが、こういうことへの最前線にあるように、私には思えます。

motsuan
質問者

お礼

どうもありがとうございます。 > 人一人ひとりが「生きる」ために、 > もし必要な「もの」が失われたり機能低下を起こせば、 > 必ず代替機能が働いて補完するのだと。 前の方々の意見と総合すると、buranさんがまとめられているとおりになるのでしょうね。 ただ、繰り返しになってしまいますが、健常者が肉体的に破綻していないから健全な生き方をしているというものでもないですし、むしろ病気になられた人と一緒にいるときに与えてもらえるものがあるのかなと思うのです。そして、現代はそういう病気と肉体的健常者が隔離された状態であるということが、お互いに不幸なような気がして、そういう経験者の方の意見を伺いたかったのです。buranさんから > 脳が機能を司っていて > そのメカニズムが分かっていないからです。 というご指摘にあるように、人と人との関わりによる社会的な刺激により人の心がどう変わっていくのかがドラスティックに見える部分のような気がするのです。 どうもありがとうございました。

  • gonta-11
  • ベストアンサー率36% (39/107)
回答No.2

 心理学畑の人間ではありません。念のため。  私自身もボランティアの経験があります。いろいろとお話をすることもありました。  仕事をしているお父さん方は、家族のために(もちろんそれだけではないでしょうが)、高い給料をほしいと思うでしょう。子育てに奔走していらっしゃるお母さん方は子供さんのちょっとした変化に気づき、喜んだり悲しんだりしておられることでしょう。つまり、仕事に向き合っている人はその仕事に、子供さんに向き合っている人はその子供さんに神経を集中しているわけです。  障害をもって、または病気で苦しんでいる人たちは、まさにご自分の「生命」と向き合っているわけです。ですから、周囲のちょっとした事柄に対しても、生命を感じて勇気付けられたり、また、落胆したりすることになるのではないでしょうか。  「障害を持っている人はがんばっていてすばらしい」というような取り上げ方はマスコミなどでよくされますが、あれは障害を持っている方々に対する差別(見下しているだけ)だと私は思います。同じ人間として、日常の出来事に対して同じように感じているというだけではないでしょうか。

motsuan
質問者

お礼

 障害を持っている方々に対する差別と感じられたのならお詫び致します。いえ、文脈からすると、一生懸命生きているひと全部をばかにしている質問と受け取られたようで、大変申し訳ありません。  ただ、gonta-11さんがおっしゃられている意図は全く無く、感受性が優れているから良いとか悪いという価値判断をするつもりも全くありませんし、それによって、「障害を持っている人はがんばっていてすばらしい」という賛美しようという考えがあるわけでもありません。  ただ、人のありようとして、「障害」をもっている人と一緒にいる場というのは人間にとってどんな意味があるのかということを考えてみたいと思うだけです。  たぶん、gonta-11さんを怒らせる言い方になるのだと思いますが、「仕事に向き合っている人はその仕事 に、子供さんに向き合っている人はその子供さんに神経を集中している」のと「病気で苦しんでいる人たちは、まさにご自分の「生命」と向き合っている」のとでは、なにか差があるのではないかと感じます。それぞれ置かれた立場を精一杯生きているというのは分かるのです。でも、仕事をしているときというのは、ある種の機能としてそこにあらねばならないために、自分という存在と向き合わずに済んでしまうところがたぶんちょっと違うのだと思います。だから、どっちがエライとかいう話ではもちろんありません。ただ、その心の動きの仕組みと、そこに一緒に寄り添うことにより私たちが受ける影響をどのように捉えうるものか知りたかった、ということなのです。だれもが自分を不完全な存在として感じ、大切な人やなにかを突然失う可能性を持つ、という意味で、私たちは全くどこも違わないと思ってます。興味本位で聞くものじゃないという考え方もあるかもしれませんが、なにとぞご容赦ください。 どうもありがとうございました。

  • ymmasayan
  • ベストアンサー率30% (2593/8599)
回答No.1

回答ではありませんし的外れかも知れませんが、私の経験を述べます。 私は視力障害の方が記憶力や勘がよいという事を常々聞いていました。 これは目から情報を得ないので、脳に余力があるためだろうと思って いたのです。 ある時失礼とは思いながら、視力障害の方に、恐る恐る聞いてみました。 その方の答えは「YMさん、私たちは記憶が命です。もし、物の置き場所 を忘れたり、約束を忘れたりしたら、命取りになったり、食べていけなく なったりするのです」「健常者のように目で探し回るという事ができない のですから」 私は自分の浅はかさを恥ずかしく思いました。

motsuan
質問者

お礼

ありがとうございます。 率直な体験についての感想まで頂いて、大変感謝しています。ありがとうございます。 一般的な話になってしまいますが、なにか能力に優れているというよりは、私たちが日々の生活のなかで目をつぶっていることがら一つ一つを大事にできるのかなと想像して質問させていただきました。不足していることが、違う認識をもたらし、逆に人生というものを豊かにする部分があるのではないかというのが、私の予想する回答です。 ただ、そんなの関係ないという考えもあると思いますし,生理学的にそういう敏感な状態にあるだけだとか、いろいろな考え方があるのかなと思い質問させていただきました。不愉快な思いで回答される方もいらっしゃると思いますが、よろしくお願い致します。

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