- ベストアンサー
母親の死を受け入れられません
小学校6年生の時に母親が亡くなりました。 もう母が亡くなってから22年経ちますが、未だに母の死を受け入れる事が出来ません。 母は『うつ病』で入退院を繰り返していました。 現在優しい夫、最愛の息子2人に恵まれ幸せに暮らしていますが、 私も2年前から『うつ病』になり仕事が出来ず自宅療養中です。 現実から逃げてはいけないと分っています・・でも抜け出せません。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
h-kazugonです、補足で申し訳ありません。 他の方スレから自殺と言う文言で追記ですけど、自分が未遂経験者です。 元はDVで人格抹殺迄追い込まれた時期は鬱で自殺をすれば何もかも終わると真剣自殺念慮は常に有るそればかりに思いを募らせる時期でもありました。 未遂に終えたのは子どもを背負い飛び込む寸前を我が子が泣く事で我に返り、留まる経緯です。 このケースを何度も過去の回答で書いて居ますが、コレを書く事で自分と過去の自分に踏ん切りを付ける意味で引用をします。 そんな過去の自分に相当悩み苦しみの上にPTSDも有る身です、しかしそれも人生履歴その物です。 逃げて通れない過去の心の傷を暴く事で、昔の自分を捨てきる思いでも書いて居ます。 今も質問者さんは鬱と書かれていますけど、自分はPTDSですので何時でも暴言を吐く前夫の影に怯える、フラシュバックとの戦いです。 そんな自分もそんな人生を送れた、此処まで来た自分も居るんだと自分を好きになる。 そんな自尊感情を持って欲しいのです、苦しい過去は過去なんです、ましてや自分はそれを実施迄仕様として救われた、救ってくれた子どもと生きる意味で離婚闘争と泥沼化して行くプロセスですけど。 自殺念慮は鬱を持てば極その思いに囚われそれに走る感情です、避けて通れない戦いでもあるのです。http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%BB%A6%C7%B0%CE%B8その行為でお母さんが係わる事になる、コレは病気がそうさせる所も有ります、そうさせない意味でも墜ちる自分は居て良いのだ、何時でも健康ではない、病む自分も自分の一部と認めて行く経過は時間との戦いです。 辛いから逃げたい衝動も出て然り、しかし先送りでもその付けは来ます、来たら来で向き合い事で逃げない自分になる事に尽きるコレが自立出来る、折れない自分と言う感情障害(鬱が感情障害と言う概念と担当医曰く)と折り合いを付けて行く事に自ずとなる。 長い鬱傾向はDVが要因と言い切るカウセラーも居ましたけど、最後は自分と自分をどう洞察していくのか、最後は折り合いを付けるコレに行き着くとも思います。
その他の回答 (7)
自分のことばかり書いてすみません。 長い独り言ですが読んでください。 肉親の死はどんな形でもなかなか受け入れられないものだと思います。 私の父は12年前に交通事故でなくなりました。 その時の私は質問者さんのように子供ではなくて、もう30になっていました。 生前、父はきちんと診断を受けたことはなかったのですが、躁鬱病のような人で、高学歴で努力家であったにも拘わらず、躁状態になると必ず問題を起こして昇進を逃していました。 職について直ぐは昇進が早かったものの、自分より学歴の低い人達に追い抜かされて行くことは父のプライドを傷つけていたのでしょう。 繰り返し酒に酔って暴れていました。 テーブルが飛んできたこともありました。 私も殴られて、体ごと飛ばされたことがあります。 父が投げた灰皿で母は顔を切り、これでは仕事に行けないと泣いていました。 夜中に家族みんなで家から逃げ出したこともあります。 暗闇で見た父の顔は鬼そのものでした。 そんな生活を繰り返していると、心の中が麻痺してきて、恐ろしくて逃げているはずなのに笑ってしまったことがあります。 自分で自分は狂っているのだと思いました。 私の実家は秘密がいっぱいありました。 どうしてみんな相談なんか出来るのか不思議でした。 本当に苦しいことは、人になんか言えるはずないのに。 みんな、悩んでいるふりをしている。 そんなことを考えている子供でした。 亡くなる1ヶ月前に父から電話が来ました。 新年の挨拶をしてくれました。 父は少しお酒に酔っていて、いつもの暑苦しい調子で話してきます。 でも、実家から遠く離れて暮らしている私を懐かしんでくれていることも、心配してくれていることも伝わってきます。 その時は、どうせまた掛かってくるからと、適当にあしらうようにして受話器を降ろしました。 そして、1ヶ月後、母から電話が来ました。 母は淡々と話し現実味が無く、私は、まるで夢を見ているように感じました。 受話器を降ろした後も信じられなくて、ぼうっとしていました。 実家は遠いので飛行機で向かいました。 死んだだなんて信じられなくて、父はいつもの里帰りのように先に空港で待っていてくれる――頭に包帯を巻いているかもしれない。でも、あの性格だから勝手に退院してきっと…。 そんなことを思いながら、空港に着くと父はいませんでした。 私が成人するまで、父と母は喧嘩ばかりしていました。 でも、姉が早くに家を出て結婚をし、孫が生まれると父は優しいおじいちゃんになりました。 父は私の幼い頃はとても子煩悩で優しい人でした。 元々の私は、お父さん子だったのです。 父は私の娘とも仲良しで、下の息子が生まれて実家に帰っていたときも、忙しい私に代わって娘と遊んでくれました。夜泣きする息子を上手にあやしてくれました。 父と母はやっと本当の夫婦になれたのです。 夫も二人の仲の良さを見て羨んでいました。 ――昔のことを思うと、奇跡のようでした。 でも、父の死を誰よりも受け入れられなかったのは母でした。 やっと本当の夫婦になれたのに、急に父が亡くなったので母の悲嘆は計り知れませんでした。 母にとって父は自分の親よりも長い付き合いで、父親を早く亡くした母にとっては父親と代わらなかったのかもしれません。 母は段々私が幼かった頃の母のようになっていきました。 母が妹を身籠もった頃、父は仕事が忙しくなり、私も以前のようには遊んで貰えなくなりました。 私の上にはまだ二人います。母は私を年少から幼稚園に入れたかったのに、父の転勤でタイミングを逃し入園させることが出来なかったのです。 母のストレスは溜まっていき、私はよく口汚く罵られました。 急にそんな風になった母が解らなくて、どうしたらよいのか解らなくて、私は段々無口な子供になっていきました。 母はその頃の母に戻ってしまいました。 ――トラウマです。封印されていたと思っていたのに蘇ってしまいました。 父は暴力を振るう人でしたが、私には母の言葉の方が痛かったのです。 青あざは消えても、棘が刺さったように苦しくなりました。 子供の時の棘はまだ胸に刺さっていたのです。 大人になってその棘は更に奥に入っていきました。 私はそれからなかなか元の自分には戻れません。 記憶の波から逃れることが出来ません。 医者はPTSDと同じだと言いました。ストレス障害だと言いました。 私には薬は出ていません。 でも、自分ではどうやって直せるのか解りません。 言っていることがまともだ、薬は要らないと言われても、苦しいのです。 傷は小さくなっても、無くならないのです。 今は母を恨んではいません。 でも、12年前に戻りたいと思います。 だけど戻れません。 父も母もどうしても記憶からは消せません。 楽しかった思い出も、優しくされた記憶もあるからです。 消すことなんか出来ないんです。 死ぬまで全部持ったまま生きて行くのだと思います。 私も死にたくなることはしょっちゅうです。 でも、親になってしまったので生きて行きます。 こんな親でも子供を泣かせたくはないのです。 ―― どんなに辛くとも、あなたには一緒にこの世界を生きて欲しいのです。
お礼
私、嘘を書きました、ごめんなさい。 実は私には離婚歴があり息子2人は前夫との子です そして「夫」と書きましたが籍は入れていないのです。 幸せに暮らしていることは事実です。 私の母にも離婚歴があります。 前夫との間に2人の子供がいます。 その後父に出会い再婚を考えたそうです でも私が産まれた時、両親は籍を入れていませんでした 父方の祖母が子連れの女との結婚に反対をしていた為です。 私が産まれて駆け落ち同然で結婚したそうです。 私が2歳の時、祖母が両親のことを認めた事をきっかけに 父は家業を継ぎ母も父を支え仕事が中心の生活となり 私は祖母と祖父に育てられました。 祖母は純粋に結婚を認めた訳ではかったのです。 祖父が騙され莫大な借金をしてしまい父に助けて欲しいと・・・ 父と母は寝る間も惜しんで働き続けました。 そして父は殆ど家に帰って来ず、帰ってくれば夫婦喧嘩 母は仕事疲れと寂しさで体調を崩し、精神的な病を発病し 私が自宅に帰ったときには酷いうつ病でした。 「やっと一緒に生活出来たと」思い喜んでいたのは束の間 母は自殺未遂を・・・精神病院に入退院を繰り返し そして自宅療養中 私が目を離した数分間、再度自殺をはかり そのまま帰らぬ人となってしまいました。 私が目を離さなければ・・・と何度も思いました。 私のせいで母の人生を狂わせた・・・と何度も思いました。 「お前が私の大切な人を殺した」と父を罵ったこともあります。 自分で最低な娘だと思います。 ずっと謝りたくて父に「ごめんなさい。ありがとう」を 言葉に出して伝えました。 父は不器用な人だから、あまり多くは語りませんが「子供達の事をたくさん褒めて、たくさん抱きしめてあげなさい」と「お前にはしてあげられなかった悪かったね」と言ってくれました。 彼との間に子供が欲しいと考えたこともありますが、 母と同じ道を通るのが怖くて子供を望むことが出来ませんでした。 でも今は母と同じ道を通るのが怖いからでは無く 今のままで十分幸せなんだと考えています。 「私のせいで」「父のせいで」「祖父のせいで」 誰のせいでも無いですね。 そんな考え方をしていてはいけませんね。 過去は変えられませんし、過去に依存していては母にも父にも 息子にも彼にも、それから自分にも申し訳ないと思いました。 ありがとうございました。
自分も回答する権利はないかもしれませんが・・・ 私も同じ運命を・・なんて思っていないですよね!? 経済的に成立していて夫も優しいなら頑張る必要はないと思います。 子供たちにとっては母がいてくれることが何より幸せなのではないでしょうか。 自分も「今を大切に生きる」事が大事だと思います。 今は頑張るよりどうしたら楽しめるかを考える方が良い様な気がします。 ちなみに自分は未遂経験者でした。どうしても気になったので・・。
補足
>私も同じ運命を・・ 実際ずっと思っています。 気持ちの整理をしてから私の生い立ちを書きます。 今は混乱しているので・・・ 変な気を起こしてる訳では無いです。 言葉が浮かばないとゆうか無知で文書がまとまらないので・・
この質問に私が回答する権利はないんですが・・・ 辛い気持ちは分かります。 私は過去に付き合ってた大好きな彼を殺されました。 病気であっても奪われた感は拭えないでしょう。 でも私は殺した相手を憎んではいません。 過去カレへの愛しさだけが募ります。 もう忘れないといけないんですけど・・・ 貴女はお母様への思慕を持ち続けても良いですよね。 「こんなときに母がいれば」 思うのは当然です。 ただ焦らないでください。 ウツは真面目な人ほどかかり易いと聞きます。 必要であれば 現実から少し遠のいても良いんです。 ゆっくり、ご自分を休めて下さいね。
補足
NO.5さん 焦らないで頑張りすぎない事が大切だと精神科医にも 言われました。 自分では楽観的な人間だと思っていたので、うつ病と診断されたとき(正確に言うと、仮面うつらしいです)は『何で?』と思いました。 でも、自分で気付かない自分のSOSなんだと、最近になって 理解出来るようにはなってきた様に思います。 私の質問で辛い過去を思い出させてしまいましたね。 ごめんなさい。 前を見て今の幸せを当たり前と思わず、日々大切に過ごして生きたいと心から感じました。
h-kazugonです、再度投稿失礼します。 >人の前では笑ってしまうのです。 辛い出来事も笑ってしまうのです。 あの時母を救急車で病院に搬送している瞬間も現実逃避してしまいました。後悔だらけです。 その姿に何も不自然は感じません、他者の前で笑顔を出すコレは社会生活のルールの一貫です、実父も死後15分で他界です(心筋梗塞)救急車を呼んだ時点でもう死は確定していました。 でもその時点で家族としてやる術は出尽くした、それが精一杯の頑張りでは無いかと当時の自分でやる術は出尽くしたにつきます、その時点の質問者さんは立派な支援はされています。 救急車を呼ぶ行為で家族で十分支援はされたいると私は確信事実です。 その時点で出来た最大の介助とも思えて来ますけど・・・・
- tent-m8
- ベストアンサー率19% (724/3663)
私は、小学校4年生の時に母を亡くしました。 あれから数十年経ちますが、当日のことは今でも昨日のことのように鮮明に覚えています。 過去のことは、どうすることもできないのです。 大切なのは、「今を生きる」ということです。 息子さんたちのためにも、頑張ってほしいと思います。 仕事は、無理をしないほうがいいです。 適性を考え、仕事を選びましょう。
補足
NO.3さん そうですよね。 過去に縛られて今が疎かになっては、母も安心できませんよね。 亡くなった母の為にも息子の為にも私が頑張らなければいけませんね
グリーフケアと言う死の喪失体験が未整理で来ている事への拘りから鬱になる、ケースは異なりますけど、DVも同じです。 DV言葉はご存じと思いますけど、突如襲う暴言など自分の心準備無い危機的状態から鬱を発症しましたけど、鬱は消えても鬱的傾向は残る当然襲うトラウマ、フラシュバックとの葛藤でPTSDです。 相当辛い時期を乗り越えるには、半端は気持ちでは難しいです、DVですので何時襲うかと言う危機を5年戦い人格崩壊迄行く自分を蘇らせる事は、自分の過去を洗い浚い出し切るに尽きる作業を何処まで出来るかです。(離婚までの5年掛かりPTSDです) 親の死を受け居る事が出来ない自分の心に楔を入れる作業です、痛め付いた心に塩を掛ける事かと、カウンセリングを受けて相当厳しい現実を先送りする自分との戦いが有り、辛い過去に戻る事が出来ない、憎い、惨しい仕打ちなど前夫への憎しみばかりで生きた時期(今も許す事は出来ない件ばかりです)をつい思い出す過去履歴を追憶して何が残るかと最近気づきで有りました。 好きでDVを受けたんではない、コレは天災と思え、天災とは予告などない、人間の死も同じではないか、交通事故、心筋梗塞で急死なら心の準備など一切無しで来ますし・・・・ お母さんは辛い時期を生き抜いたんだと思います、だから早い死でも其処まで頑張れた親なんだ、鬱を持つ辛さとは揺れ動く感情との付き合いです、墜ちる心と向き合うと何故と思う自分もいる、少し元気から思えば又鬱になる、コレの繰り返しで生きるのが鬱的傾向ではないかと思います。 付き合う病なら、もう付き合う事にしようと方向を変える事に最近ですがコレも気づきです。 現実から逃げるのではない、それも自分の一部である事、そんな自分も居ても良いのではないかと思いますけど・・・・ 現実逃避したい思いも自分の何処かの自分と思えば何処かで仲良くなれませんか・・・・・ 私は墜ちる自分も自分の一部と認知して付き合う事にして逃げない自分で居ること、墜ちるのも感情の一部と言う概念と思いますけど如何でしょうか?
補足
NO.2さん 『病と付き合う』『自分を認める』 きっと、それが最初の一歩なんでしょうね。 人の前では笑ってしまうのです。 辛い出来事も笑ってしまうのです。 あの時母を救急車で病院に搬送している瞬間も現実逃避してしまいました。後悔だらけです。 上手く言葉に出来なくて、ごめんなさい。
- kyhr1688
- ベストアンサー率20% (100/489)
はじめまして。 聞きにくいことですが、おかあさんは自殺されたのですか? ご自分のお子さんに、同じ思いをさせてはいけませんね。 その一点のために生きることは、素晴らしいことですよ。
補足
NO.1さん ・・・・そうです。 自殺の危険性があったので、なるべく一人にしないように 気をつけていたのですが、ちょっと目を離した時に 自殺を・・・今でも忘れられません。 子供達には寂しい思いは絶対させたくないと思っています。
補足
自分の過去を否定しても仕方が無いですね。 自殺未遂・・・私も経験があります。 うつ病と診断された時期の前後はリストカットしてました。 リストカットは死にたくての行動では無く、痛みを感じる事で 生きてる実感が欲しくて・・・ でも子供に「手どうしたの?」と聞かれ、やってはいけない事を しているんだ!と気付きやめる努力をしました。 今はやってません。 子供たちには「帽子が飛んで有刺鉄線に引っかかちゃったのよ」と 説明しました。 >最後は折り合いを付けるコレに行き着くとも思います。 その通りです。いつまでも子供のまま止まっててはダメですね。