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仏壇代用のモダンな容器の扱いや配置について
- 仏壇はご本尊(掛け軸)と位牌のみを納める小振りのモダンな容器を考えていますが、本尊や位牌を入れるには失礼でしょうか?
- テーブルはベッド上で使う移動テーブルを利用しており、健康な人が使う家具でもありますが、病気の人が使うものとしてはどうでしょうか?
- 本尊が中央に、位牌がそれとは少しはかぶる形で置かれることが望ましいとされていますが、容器のサイズでは少しはかぶることになりますが、これは問題でしょうか?
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KEKEKOです。 実は・・・私がしている事、申し上げた事にはかなり裏付けが在ります。貴方も私のような考えの持ち主です((笑))かなりはっきり判ってしまったので勝手にそう書いてしまいました。 私は、仏教そのもの御釈迦様を否定している訳ではないのです。仏陀の教え、シルクロードを通して入ってきた物すべてに興味があり、大好きです。なんと言っても黄金の国ジパングはシルクロードの終着地でここで昇華したものも沢山あると思っています。 私の持仏、弥勒菩薩は、サンスクリット語でボディーサトゥバ・マイトレヤですが・・・他の言語をたどるとなんとキリストになります!! アラム語(アケメネス期ペルシャ語でシルクロードの通商用語)では、マハーシヤ ヘブライ語ではメシヤ ギリシャ語ではクリストス 英語ではキリスト 弥勒菩薩と、キリストはまさに同義語である。 祀りの形が画一でなくてイイって良く判るでしょ!! 貴方も祀りと供養を真剣に考えているから自分のしている事に疑問を持つのでしょうね。 ある坊さまに・・「私は、親の墓参りに行ってないんです。先祖は怒っているでしょうね?」と聞きました。坊さまは「君は今幸せか?君が幸せでいる事こそ先祖が一番喜ぶ事さ!一生懸命頑張りなさい。」まさにその通りだと思います! 私たちも頑張って生きましょう!!
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- KEKEKO2008
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先祖を思う気持ち、祀りに本来規則は無いと思います。(私もかなり異端児ですが・・・貴方もそういう方とお見受けしましたので・・・違ったらごめんなさい!) 私は、本来仏壇なる物は嫌いです。何故あそこに入れないといけないか不可解です。又、現代のインテリアに合うわけも無く違和感があります。それなりに作ってあるものも沢山ありますが、私には、いま一つ違和感があります。 尊敬する知人から、ガンダーラ仏を頂きました。弥勒菩薩様で美しいお姿です。早速、学芸員の友人に頼んで直立するように加工をしてもらい私の持仏とし御祀りしました。朱塗りのアンティークの盆の上に、仏様と小さな骨董の香炉、ショットグラスに水を入れ置いています。父が亡くなっていますので写真と一緒に小さな大理石で作ってもらった五輪塔(高さ8cm)を置いています。五輪塔には父の名前を彫ってもらいました。私のインテリアにもピッタリでなんの違和感もありません。あっ!五輪塔は位牌の代わりのような物です。 私はあの・・位牌も嫌いです。 勝手な事を書かせて頂きましたが、私個人は先祖を思う気持ちがあります。そこには決まり事よりも気持ちが優先するものと思っています。毎日水を変え、香を立ててご挨拶をする。自分のライフスタイルとマッチするこれ以上のことがあるでしょうか!! 貴方のなさっている事も私はいいと思います。本来無宗教に近い方たちが突然仏壇を買うっておかしいと思わない?ですから、そういう風に思う方が増えてきて嬉しいです。
お礼
貴方様もかなり自己流で考えてしてこられたのですね。とても参考になります。 ただ、仏像や仏塔を礼拝の象徴にお選びの事からみても仏教的調度全体を否定してるわけでもなく、従来の陰鬱な仏壇や位牌から自由であろうとなさってる様にお見受けしました。私もまあそんなもんです。 ただし、貴方は不要と考えるものを用意してないだけで何も「変な事」はなさっていないわけです。 私は今、上記の三点などにつきいささか「変な事」に当たりそうな事をするので「気になった」のですが(特に「物入れ」うんぬんの件)、貴方や皆様のご意見どおり「心の持ちよう」に思えてきました。 ところで仏壇の件を少し離れてしまいますが、私は仏教にうといなりに心のどこかでいっちょまえにも関心はもっているのですが残念ながら日本人の大多数である「葬式仏教」者の典型です。 ただそれでは周囲の前の代の方々が良しとしてきたものを真の仏教としてるか、というと全くそうは思ってきませんでした。 こちらが「葬式仏教徒」ならば、あれはつまり「因襲教徒」にしか見えてませんでした。 この国には本当の仏教徒など満足にいませんよ。 貴方は「異端児」と仰るけれど私はもうすぐそれは異端でも何でもなくなるだろうと思っています。 坊さんの言う事も一貫してなく、する事も矛盾だらけを、糞も味噌もただただ「有りがたや有りがたや」とし、肝心の仏法の理解など全くせずただただ「なんまんなんまん」なんて、終わってゆくのは目に見えてるじゃあないですか! では仏教は終わってしまうか?まさか! こんな事は幾度もくぐって後千年(?)も続いてきてるのです。 これだけ悩み深いご時世です。 本当に必要とした人達が真面目に存続させてゆくだろうと考えます。 では「供養」も消えるのか?まさか! 「供養」は宗教以前の感情であって原始人も何らかの形で象徴をしつらえ行っていたはずのものであり、貴方や私がしたいのもつまりはそこが原点なのですよね? 貴方のような方にネット上とはいえお会いできて吐き出したいものが有ったらしく、質問者自ら脱線し長文になりました。御免なさい。 親身なご意見、どうも大変有難うございました。
- 777oichan
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貴方様の思いと独創性に感服しました。素晴らしいと思いますし心根の良さが感じられます。私の父母の仏壇周りは、生花,造花、観葉植物、写真、置物、時計などで埋め尽くされており、仏壇の幅は4分の1にも満たない状況です。仏壇を部屋、それ以外のスペースが家や庭みたいです。位牌の方のお住まいですから、きっと喜んで戴けるでしょう。、
お礼
あ・・・あのう・・ か、過分なるおほめ言葉を頂戴し、(実態はかなり「心根は悪い」もので)大変、痒うございます。 もしかしたら仏壇部分のサイズはこちらの方がもっと小さそうで、又、上記のごとくの突飛な状況は有してないのかもしれませんが、でも貴方様のご両親の供養ステージの考えは私といっしょの様に感じました。 少し安心してきました。 勇気づけて下さりどうも大変有難うございました。
- ojisan-man
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あなたもおっしゃるように、いろいろな考え方があるので特に問題はないと思いますよ。 大切なことは、仏壇の形が何であれ先祖や故人を敬う気持ちを忘れないということでしょう。 誰も寄り付かないような立派な仏壇より、家族みんなが毎日関わりを持てる仏壇が一番良いのではないでしょうか。
お礼
早速に親身な回答、とてもうれしいです。 「気持ち」であり「日常空間」だと私も思うのです。 調べた所、仏壇は寺の本堂のミニチュアだそうです。 「物入れだ、物入れだ」と思うのではなく「超近代的建築の本堂」に居るのだ、位の想像力を働かす胆っ玉の太さがあってもよいと思うのです。それと、 もともと自分が仏に対しての申し訳ないという気持ちは実はりっぱな仏壇をそろえようがそろえまいがたいした増減はないわけでここでミスがひとつ増えても、それを上回る「接し方」を気持ちの上でしてゆく事に重きを置きたい、とスジの通ってんだかわからん考えも出てきました。 いやはや・・・ でも、少し気が楽になりました。 本当に有難うございました。
お礼
KEKEKOさん。今、気付きました。 こんなに気遣ってもらえ、とてもうれしいです・・・ ああ、なるほど!実は最初のレスの時にすでに感じてはいたのですが、貴方はかなり東方西方の文化にお詳しい方なのですね。 そうなんです。 今の日本の仏教は実は、美的形象はおろか、肝心の仏法においてさえ、淘汰、融合、変容を繰り返してきたあくまで「最終の形」にすぎないわけですよね。 自分が親や祖父母から教わった仏教などその時点の「最終版」にすぎんわけです。 「最終」はもっとも豊かな果実とは限りません。 腐った果実なのかもしれません。 肝心の仏法以外はどんどん変えていいはずですよね。 霊につき、見えてないものに執着せず自己に目を向けなさい、といってみたり、霊的な供養を重んじなさい、とされてみたり、浄土系(私はこれは末法思想という社会的対応で仏法をゆがめたと感じてますが)や禅宗まではわかるとしても、その奥にある「仏教と密教のあいだの微妙な関係」など、わからん事だらけのはずですよね。 こういうもろもろの、どの言説が正しいのかなどに食い込み理解し、身に着け、少しでも自分の心のコントロールに使おうとするならいざしらず、どれもこれもを「ありがたや」では・・・・ もっと下らない瑣末の事でも例えば、檀家制度などたかだか江戸幕府のキリシタン抑圧政策で生まれたにすぎずそれ以前には無かった、とか、今日のような形態の仏壇は経由地の中国で儒教の影響で始まった、とか、ちょっと調べれば仏法の本質とはほとんど関係しないような事実がゴロゴロ出てくる始末です。 こんな中であの「陰鬱なるくらい箱」などに大切な人を閉じ込めるいわれなど、ま~~~ったくないですよね! ですから貴方様の様な「歴史的視点」こそ今は大事な事なのだよなあ、と私は思います。 私とは趣味は異なる様ですが、前のレスで示してくれた貴方様の供養のスタイルも素晴らしいと思ったし、何より貴方様の興味関心はしかつめらしい仏法など以前のものとして「悠久のロマン」を感じました。 有難うございました。 重ねて深く御礼申すものです!
補足
KEKEKOさん。 この「補足」部分が質問者の私の最終記述です。 どうもいろいろ有難うございました。 実は貴方様の供養のスタイルを知らされ感心し、そういう形も有ったかと思い、自分はモダン調とはいえそもそも仏壇の存在にこだわってスタートさせすぎたなあ、と悔やんだのも事実なのです。 仏像と仏塔ですか?なかなか良いなあ!・・と。 ただ、私の選んだ位牌はたぶん貴方がお嫌いの黒塗りのものではなく、明るい柔らかなモダンなものなので、位牌を用いる以上は何らかの「庵」のごときものを私は想定せずにはいなかったので仕方ないともいえます。 結論としては、できたら「照明のつくおごそかな記念品入れ」の容器から「扉」の部分を取り去って使えないか、と今、検討している所です。 前倒しの扉などがなまじ有るから「物入れ」に感じてしまうわけで、それを取り去った状態はいわば、「家」では無くなるのですが、ひろびろとした野山の中に立っている雨露をしのげる「あずまや」といった趣になるはずと思ったのです。 「夜寝る時は扉を閉じてお休みいただく」という事は満たされなくなりますが、貴方様の例にもある様に、そのあたりはもっとゆるやかに考えたく思います。 自分の就寝と同時に「部屋の明かりを消す事が休める事」と私は解釈したいと思います。 お坊さんの声として「自宅を本堂と貴方が考えるなら仏壇や厨子は実は無くともよいのですよ。」というものさえ有ったのですから・・・ 自由にたゆたう事のできる開放的な山野としての「テーブル」、その一画に用意された「あずまや」、もしこれがそのとおり実現したら従来の暗く閉鎖的な様式に閉じ込めるよりはるかに、故人や私好みの世界ができあがるはず、と私は考えたのです。 そこでじっくり語りかけたいと自分ならば思ったのです。 今までの無宗教的な自分がこの手の事でこれほどの「文章家」になろうとは実は思ってもみませんでした。 人間というのは不思議な存在ですよねえ。 貴方様と文章上ですが一時的に交流できてとても幸せでした。 どうも大変有難う!!