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この世界に信じるに値するものは何か
質問に先立って前置きです。 悪は概念のみであり空絵ごとです。 罪もまたそうです。 欲望は私には正体不明です。 「この世」という言葉がありますがこれが何を表すかというと、空想の産物たる「あく」「罪」などが実在する幻の世界です。 脳の空間を認識するの産物で自らの心の中だけの空想の産物です。 夢を見ながら彷徨っているのだとお考えください。 夢の中に閉じこもっているのです。 現実と「この世」は異質であるとの前置きでそれでは現実たる「この世界」に信じるに足る真実とは何でしょう。 現代人はそれこそが愛であると学んでいます。 そこで心情において問題になるのがその「愛」は確かめた上で信じているのか、判らないで(時には判ろうともしないで)盲目のまま信じているのかです。 後者は信仰でなくとりすがりです。 一応「愛」を引き合いに足りましたが、信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。
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難しい議論にはついてゆけない(時間が無い)ので、 回答だけ もう一度書くことにします。 わたしの考えです。 「この世界」に信じるに足る真実とは、 と言えば、 (1)何かうれしいことがあれば伝えずに入られなくなる人と人との間の 素朴な人に見られる人間のそのような単純な本質です。 (2)そして、この存在(この世界)には、無限にうれしいことが人の心の奥に用意されプレゼントされている事、 この二点です。 短く書けば、それが私の中でいつしか「希望」の世界、あるいは闇の中の光となっています。 後は、そちらの直感(テレパシー?)で判断してみてください。
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No.2&8です。 《心の奥からの言葉(もしくは 声)》は 《愛》の問題だと思います。それは 《はたらき》なのでしょうね。 あいつは憎むべきやつだと思った瞬間 いや 同じ人間だ・もう少し考えて 憎むべきところを分析してみようと促す心の声は 愛という力だと考えます。 かのじょは 美しいし なかなかいい人だ・とりこになってしまいそうと思うとき まだよく知らないではないかうんぬんという声は 愛のはたらきでしょう。 愛は 理論家です。愛が ほんとうに 何を愛すべきかを知らないということはあり得ない。 そのような意味で 《この世界》にも なにがしかの信をおくことができます。 ▲ 《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》~~~~~~~~~~~ 大乗仏教では 《無住処涅槃》ということが言われる。・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。 〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない。自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。 (岩波仏教辞典) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 縁起には その流れ・推移に 逆観と順観とがあります。すべて《無明(煩悩)》から始まって 《渇愛》の作用のもとに 悪循環をたどるだけではなく そうではなく 無明を《明知》に替え(――これは 《空観》によります――) 一転 順境にあって 世界のすべてに対処してゆく姿もあり得ます。 ▲ 《十二因縁》=縁起~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81 ・・・古い経典では、釈迦の成道は、十二因縁の順観(anuloma)と逆観(paTiloma)によると説いているが、これは迷いの事実がどのようなものであるかを正しく知ることが、とりもなおさず悟りであり、この十二因縁が迷の事実を示している。 迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。 無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服をいう。これは無我の自覚であり自己否定である。またこれはいっさいの否定であり、絶対無となる。したがって生活や生命の営みの否定とされる。そこには生活はありえない。 しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ご回答有難うございます。 ありがたいお言葉であり豊かな教養の上のアドバイスとわかります。 でも残念に思われるかもしれませんが、強いて我が事とは受止めません。 私にしてみると経典の引用ですが観念についての話であり、私自身の置かれている境遇においては情動についての解説です。 信じるのではなく判るとお答えます。
補足
少しだけ気が付いたことがあります。 brageloneさんは仏教徒さんのご様子を蛸壺に閉じこもっていると表現し、私もこの世とはドグマであると(娑婆の話)脅かしています。 いろいろと自らについて話す御礼を書いたのですが、思い起こせば無神論は徹底した自己の探求でして、その完成として悟るのだと思います。 それまでは徹底して自分磨きをするので、考え方が内向的で蛸壺状態なんだろうと思い出しました。確かに自分自身そんな感じでした。 世界へのつながりは後回しなんです。したがってこれはいさめる形となりますが仏性を内包しているといっても、それは輝きを持たず、まず自分を救うことから始めないと誰も救えません。したがって信教の話は後回しにして内観の達人になることをお勧めしたいところです。 他力本願が今ひとつ私には理解できないんですが。
- maimaisus
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>信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。 ・・・私の独断で考えた答えは今の処・・・・ 法則がこの世界なのだと思います。大雑把な言い方をすれば、欲望・思考は、法則と言う力の流れの、形の一つだと思います。 それと愛は、欲望の一部だと思いますが? こんな角度からお答えしてみました。
お礼
ご回答有難うございます。 ご質問者様独自の見解ということですが認識の手法として正解であろうと思います。 >それと愛は、欲望の一部だと思いますが? 愛は誤解を受けやすいんです。 私の経験談ですが。 私はかつて人間(人々)に信仰に近い、信じきろうという強い思いを向けていました。悪感情で汚さないようにするような感じです。本質に隠れていても仏性が備わっているの意味です。 そして現在はその信仰が誰もを等しく愛そうとしていた事だとわかっています。愛を捨てたのではなく愛を貫いたのです。
- kadowaki
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>この世界に信じるに値するものは何か Warum ist uberhaupt Seiendes, und nicht vielmehr Nichts? われわれは、のほほんと「この世界」があり、これをあらしめている主体があるかのごとき妄想の虜となってしまっていて、さらに屋上屋を重ねるかのように、「この世界に信じるに値するものは何か」などという、《虚妄×虚妄》の疑問を抱いてしまうのではないでしょうか。 だって、「この世界」があるなんてことは決して自明の前提ではないはずですし、にもかかわらずわれわれがこういう妄想を信じ込んでいるとしたら、まずはわれわれをこのようにマインドコントロールしている原因・理由なり、そのメカニズムなりを解明することから始めるべきですからね。 もちろん、中には「そんなことはない、だってこうしてわれわれの五感でこの世界を感知できるではないか?」などと言い張る人もいるかもしれませんが、これとて別に「この世界」の存在の自明性の根拠にはなりえませんよね。 ということで、当人もそうと自覚せずに恣意的な超越や飛躍をしたがる思惟を自制し、ここはできるだけ虚心坦懐に、まずは「この世界」があるかのごとき妄想を産出するメカニズム、つまり主体(我)及び世界(法)に関する人間固有の妄想が生まれた背景について考えてみようではありませんか。 取り敢えず、世親著・玄奘訳の「唯識三十頌」あたりを参照なさってみてはいかがでしょうか。
お礼
ご回答有難うございます。 有意義な提案ですね。 でもそのような難しい考えは哲学で百戦錬磨の方と違って私が格闘しようとすると即刻狂気に陥るんですよ。 話をそちらにつなぐ自信はありませんがお断りはしません。 質問者様の考え方は情動として慈悲に基づいてますね。 それから観念や観想を純化しようとする試みだとも判ります。 完璧な自己の同一性で己が己になることを仏になると定義するならいい方向ですが、神とは純粋な光などとホラを吹いている私にしてみるとそれだけで終わらなくなるのではないかとも思います。
補足
お礼への更なる補足です。 無神論的見地や人間同士があらそわない、お互いを仏とみなすような理想の境地なら(これは私なりには人間信仰とみなしていますが)質問者様の方向性でOKです。 私はその目指す方向にたどり着くことが自分自身になることだと思い続けていましたが結果は以外にも神の発見でした。 さらにそれでお終いでもないでしょう。 私は「仏」という言葉を現代語訳すると結局は「人間」のことなんだと思います。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
<<信仰に限らないで「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか>> 起こっている現象が何らかの法則によって次から次へと変化生滅し続けるものと考えてます。 それを感覚を感受するシステムによって知り、「好ましい・好ましくない・好ましくも好ましくなくも無いという」三つのどれかにに振り分けそこに個人個人の概念や嗜好などをのせて、捏造して、欲や怒り無知の感情を抱きそれによりさらに個人の概念を捏造の概念を構築していくものと思います。 これを誤知という人もいます。 たとえ同じ情報を観ても違う感情を持ちますね。気持ちい・気持ち悪い・ゴミだ・ご馳走だ… <<この世界に信じるに値するものは何か>> ある範囲を持って根拠を持って語られたもので、実際に現実的にどのように実験検証してみてもそのようになるもの。その中でも苦しみを悩みを増幅させることを勧めず、苦しみの減少・滅を勧めるもの。ですかね。 捏造しまくりの概念抱きまくりの生命ですから、そのようなものをなかなか発見できませんから、自分の理性で道徳的に論理的に実証的に柔軟に自己の見解を反証可能な姿勢を持って徹底的に科学的に構築していくより無いですね。 信じると言う働きが強すぎると「私は正しい他は間違っている」という自己の見解にしがみ付いてどのような事実を突きつけられても反証を受け入れないようになってしまうので注意が必要です。そちらの見解に沿った思考しか出来なくなる危険性があります。 だから上記したように己が理性を最大に活かした範囲をと根拠において反証を受け入れる姿勢で、根拠の有る自信・確信をすれば問題は起こりにくいと思います。 このように考えました。 お役に立てば幸いです。
お礼
ご回答有難うございます。 長文の割りに見解や考え方がまとまっていて、ご自分の意見をよくご承知なのだと感じました。 それだけでもすばらしいことです。 「この世」のドグマの外の世界が、今回は「この世界」と定義していますが、この辺のややこしい質問の投げかけも十分に認識の上、果敢に挑戦するかのような印象を受けます。 長らく狂気と対峙した私には鮮やかに知性を使いこなす印象に思えます。
- mmky
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「この世界」とはいかなるものとお考えでしょうか。 大勢の幼稚園児が砂場でがやがやと「おままごと」している姿が「この世界」ですね。親や親たちがそれをやさしく見守っているというのが「愛」ですね。幼稚園児が砂場で喧嘩したり、好きあったり、持ち物を交換したり、砂山を作ったり、壊したり、たまには殺しもあるけどそれも「おままごと」舞台劇の余興でね。仏からは「この世界」はそのように見えるようですね。それに気が付いた哲学者は幼稚園児を「無知の知」と表現したということでしょうか。つまり、有る様で無い仮の世界でしょうね。
お礼
ご回答有難うございます。 健全な認識の仕方ですね。 心象表現ともいえるご回答ですが、童心に返れるのは幸せなことでしょう。 ご回答としては簡潔に表現できるほどわかっている証拠だと思っています。
primeapeさん なにかあたらしい《魂胆》がお有りなのですね。 ★ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 何が言いたいかと言うと。 自らの本質の姿は絶対であり、それは内包している。 とでも言いましょうか。 デカルトの試行錯誤ではまさにその不変のものを確かめたのでしょうが私はそうではなく、この世界の全てを問いたいのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 自分の経験からしか類推できないのですが ブッディスムは 案外と言いましょうか当然と言うべきでしょうか 《〈この世界〉の全てを問》うていると思います。 アウグスティヌスによると 蝿も蚊も 存在は善であり 意義があると言います。 このような ブッディスムの見方も アウグスティヌス見解も いちおう 実践してみたのですが 早く言えば 体調を崩す結果になりました。やり方が悪いのだと思いますが そんなこんなで どのようにお答えすればよいのか 分からない状態です。 ただ おっしゃるように 《〈この世界〉の全体をそのまま受け容れ 信じるに足ると想定する》ということは 《〈この世界〉のすべては いっさいが 移ろい行くものごとであって 信じるに値しない》と見ることと――表現の問題で争わないとすれば―― 同じような地点にいるとも言えます。のではないでしょうか。 このあとの展開は まだ 分かりません。
お礼
ご回答有難うございます。 移ろい行くこの世界の現象の根幹といいますか、人として認知できる情動や感情の根幹といいますか、それは現代人は「愛」と知っていますが、それが正しいかどうかは私にもわからない状態です。 それを試しているともいえますが愛を探すのか自分自身の本質を探すのか、果たしてそれらは一致するのか、そんな感じでして、様々なご意見に応えていく勉強から色々と学び始めようとしています。
補足
知っても知らなくてもいい技術論なんですが。 ブッディスムの見方も アウグスティヌス見解も いちおう 実践してみたのですが 早く言えば 体調を崩す結果になりました。 無意識の出すこの試みへの答えは「欲望を強引に運命に合致させようとする試み」です。 私も試しました。 これを試すと何かが壊れます。それが体調だったのでしょう。 私の場合狂気が攻めて来る現象として日常茶飯事です。 あまりにもわかりやすい言葉で語っているため、欲望すら悟りえるがけして相容れない、そのためです。 ちなみに何かが壊れる、には物が壊れることも含みます。経験世界の外側でも別にモノは手に負えないわけではないんですよ。
漠然とですが、信ずる対象がモノのように想定されているところに問題があるように思います。究極的には固定されていない状態のようなものが対象になるのではないでしょうか。言葉自身がすべてをモノ化する働きを持っていますから、限界がありますが・・・。
お礼
ご回答有難うございます。 そうですね。まづ、この世がドグマであることが一般にどのくらい説明しきれるかとも関係しますが、有益なアドバイスをありがとう御座いました。
- cyototu
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質問者さんは「愛」とか「絶対」とか「永遠」とか、どうも西洋崇拝が骨まで染み付いている方のようですね。お釈迦様は「執着」が諸悪の根源であると説いておりますが、愛は執着の権化ですね。日本人には「ゆくかわのながれ」の中に真実が在ると見抜きました。これは永遠や絶対とは対極の発見ですね。西洋人の絵画の中には渦が書かれることがほとんど在りません。渦は一次的な存在であり、永遠と相容れないからです。一方、日本の絵画でも中国の絵画でも昔から渦は絵画の中心テーマの一つです。 質問者さんが西洋崇拝に陥ってしまい、我々の先人達が石に齧り付き血の涙を流しながら見つけ出してきた智慧に興味を持たないのは何故なのでしょうか。明治政府が自分たちを正当化するために、江戸時代以前を糞味噌に言ったことを真に受けてしまったからなのでしょうか。それとも、西洋人との戦争に負けてしまい、自信を完全に喪失してしまったからなのでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自らの思索の助けとなる回答とはいえませんが批評として尊重させていただきます。
関係ない話かもしれませんが、私なりに書き込みします。 以前、一語の辞典(天)という本を読んだ記憶では、古代中国で周が殷を滅ぼした時、「天が我等に勝利をもたらした、天を信じなさい」といった類の表現で民を支配したようなことが書いてあったように思います。 私はそういった意味合いで、(愛)も宗教や商業界が便宜的にばら撒いたもののように思っています。 そこら辺を整然とさせてから、(この世界)の思想、観念を試みたらよいのではないでしょうか。 より明確な回答を示してくれる方が結構居られるのではないかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「愛」を引き合いに出したのは無神論者全体が受ける誤解を回避する意味もありますが、現代においては大勢では確かにそうだとも思っています。 思ったよりもいろんなご意見が集まってうれしいです。
- h1g2h1g2
- ベストアンサー率10% (2/19)
遊び場じゃないですかね。 概念があるので心理が働き、それによって行動がかなり制限されていると思います、社会ですね。 生まれた所が束縛的な社会ならもう仕方ないです。 遊ぶ事が人の本質だと私は思いますので、制約をものともせずに遊ぶ。 もちろん困難は多いと思いますが、その困難も含めてその上でいかに自由に遊べるかという精神的肉体的試練場のような究極の遊び場だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問の趣旨を理解した上でのご回答とお見受けします。 いい感じですね。 十分健康的なご回答だと思いますよ。
お礼
ご回答有難うございます。 心地よい文章ですね。 この世界を受け入れることが出来るのでしょう。 しかも手放しで。 私はおもちゃ屋さんに勤めていますが、子供に対して大人が出来ることは、一つでも多く幸せな体験をさせることだと思っています。 同じ見解ですよね。