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嫌悪
友人の事でご相談があります。といのも彼は、彼が不誠実な行動を取り口論になった際、誰が見ても明らかに彼に非があるのに、いつもうんざりする程の、話のすり替え、責任転嫁、曲解、等の詭弁を弄して、言い逃れをするのです。そして、いつもこちらがうんざりして折れてしまいます。彼とは縁を切りましたが、今後こういった人と口論になった時、どの様に対処すればいいのでしょうか?あと、僕はことあるごとに彼との口論を反芻してしまい、彼の詭弁、穿った意見に言い返せなかった事や、口論の度にうんざりしていたにせよ、折れて彼にしぶしぶ頭を下げてしまった事を思い出し、それが悔しくて泣いてしまいます。そして言い返せなかった自分は、責任の所在を精緻に明言出来なかった自分の主張や意見や考えは、果たして本当に自分の思う様に正しいのか、それを明言する事(押し付ける事)そのものが傲慢なのではないか、ではどうして他者と関わればいいのか、等等が頭に浮かんで、気付けばその事ばかり考えてしまっています。そしてその度にアイデンティティの足元がぐらつくのを感じます。僕は他者と関わる自信を失いました。酷く恐ろしく、傲慢に見え、自分も他人も道徳も倫理も欺瞞的に思えてきたのです。こう断ずる僕自体が、酷く幼くて傲慢だろうと思います。僕が再び他者と関われる自信をつけるにはどうすれば良いのでしょうか?
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こんばんは。 自分の意見や道徳観念、倫理観念を持つ事は、人が生きる上でとても大事な事だと思いますし、 monntoreさんも書かれている通り、それがアイデンティティだと思います。 だからそれは傲慢ではないです。 そのmonntoreさんの考えている事を、他人に押しつけ、自分にあわないからと言って批判をする、 そういう事は傲慢だと思います。 だからその男性は傲慢だと感じるのです。 ご自身の主義主張があるのは結構でしょう。でもそれは誰にでもあると思います。 それをお互いに認めあう事が大事なのではないでしょうか? そしてそれが周囲の人とうまくコミュニケーションがとれるか否かの重要な鍵だとも思います。 たとえ話ですが、「バスマットの使い方」だけでも人は主張があるのですよ。 「バスマットの上で体を拭く派」と「お風呂場で体を拭いてからバスマットを使う派」が存在します。 これを相手に主張した所でどうしようもないですよね。それぞれの主張を認め合い、歩み寄る事が大事なのだと思いますよ。 長文になってしまいすみません。 私の経験や勉強からくる私見ですが、参考になればとてもうれしいです。
その理屈をこねる彼は精神的に大人になりきれてないのでこちらが何を言おうと無駄です。 子供をあやす様に「はいはい」と聞き流すしかありません。 彼が怖いひとに注意されればふてくされるのがオチです。 世の中そんな人ばかりではないので、気にやむ事はありません。 またそいういう人にであったら真剣にならず適当にあしらうことです。 少数の愚か者の為に思い悩むのは馬鹿らしいです。
お礼
ご回答有難う御座います。僕自身、その様に考えて気にしない様、自分に言い聞かせて、精神の安定を図ってきました。しかし、それでも果たして本当にその様にそういった人達を蔑視し、軽くあしらい、割り切って生きていくことが正しいのかと、自分の中で疑問が浮かんだ時、たちまち不安になりました。恐らく僕にとってはそれが正しくない事だったからでしょう。それじゃあ、どうするのか?と問われれば、今の僕には満足に答えられる力がありません。それはやはり今後も自分に問い続けていくしか無いでしょう。僕を励ましてくださる様なご回答をしてくださり、本当に嬉しく思っています。有難う御座いました。
お礼
ご回答有難う御座います。そうですね、互いが互いの差異を認め合い、尊重し合う、それこそがコミュニケーションの理想像だと改めて感じました。僕はこれまで相手の主張を理解こそすれ、尊重していなかった節があるのかもしれません。それはすなわち認めてすらいなかった、という事になります。これこそが嫌悪していた傲慢そのもので、こういった苦しみの根源なのでしょう。今後の僕の課題は、これをいかに是正するか、そしてこれを抱えた人間とどう向き合うかを考え、その過程での絶望や苦難を経験し尽くし、それでも考え続ける事です。とても、真摯なご意見、本当に有難う御座いました。