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心の傷について
誰でも心が傷ついた経験はあると思います。 しかし考えてみると、形のない心が傷つくとはどういうことでしょうか。 確かに傷がついたという感覚はあるのですが、『心』では漠然としすぎています。 実際には何が傷ついたのでしょうか。
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- kigurumi
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いくつもあると思うのですが、ひとつには他の方も言っているように自尊心。 誰か特定の人が自分に近づいて欲しくないと思ったとき、「あなた馬鹿ね」と言いさえすれば、その相手は二度と親しく話しかけてこなくなる、ばかりか 近づいてもこなくなる。 自尊心を傷つけたからです。 自尊心が高ければ高いほど、痛いと感じる。 逆に日ごろ親からも回りからも、日常的に「アホか」「馬鹿か」と言われていたら、「馬鹿だな」と言われた程度じゃ傷つきません。 馬鹿と言われることに慣れ親しんで、それは日常の一部になっているから。 他には、、、子供の頃に受けた虐待。 特に自分を保護してくれるはずの対象が、自分に危害を加えていた場合。 人間の基本本能に自己防衛があり、安心して暮らしたいという欲求がある。 それを保護者が破壊するわけで、子供は自分を保護してくれるハズの親が、自分を痛めつけるので、理解不能になるわけです。 守ってくれている が 痛い思いをいつもさせる。 これは何? と。 で、理解不能なのでフリーズする。 虐待を受けた子供の特徴は、瞳が凍り付いている。 無表情。 動物で実験をやったそうですが、逃れられないところで、電気ショックを浴びせた場合、電気ショックが終わるまで犬はじっと動かずやりすごした。 これは凍りついた瞳と同じです。 では、心はどこにあるのか? 「うれしい」「かなしい」はどこが感じているのか? ある男性は、突然妻に離婚を切り出され驚いた。 妻いわく、夫が自分の悲しみをちっとも理解してくれないから と。 その夫にいろいろな表情の写真を見せてみた。 泣いている写真を見せると、「うーーーん・・・・・ うれしい?」と答えた。 夫は脳の一部が壊れたから、視覚から入った情報である他者の表情が読み取れなくなっていた。 人間は言葉や動作以外、顔 特に目で意志を伝達する。 顔の表情が読めない夫は、言葉や動作だけを手がかりに妻の心はこうだろうと思っていたわけです。 では、悲しみや恐怖は何故必要なのか? 自己防衛に必要だから。 何かあったとき、強い衝撃を受け、おびえることで、学習して、「これは危険」「あそこは危険」と判断して、二度目が起こらないように行動を変えていくため。 ただし、家庭とか学校のクラスとか閉鎖的な場所だと、行動を変えて回避しずらい。 檻に入れられて電気ショックを浴びせられる犬と同じ状態。 そうなったとき、心を閉ざし、心が痛いと感じないように解離をする者もいる。 解離性同一性障害と呼ばれるケース。 肉体と心を切り話すことで、生存しつづけようとするわけです。 ただし、心を切り離しても、記憶は奥不覚に刻まれており、本人が大人になったとき、突然何かのきっかけで、ずっと奥にあった記憶が蘇る場合がある。 フラッシュバックと呼ぶ。 凍てついた心の回復が始まるわけで、周りをとにかく拒否して「イヤ」「あっちいって」と過剰な他者の拒絶が起こる。 そうやって他者を遠ざけることで、守ろうとするが、今の環境の人たちは、自分を傷つけないとわかってくると、拒否や攻撃性がだんだん小さくなる。 恐怖で止まっていた人間関係の学習が、再開されるわけです。 ある人は葬式に出て、突然おかしくなって、会場を出て、外で大笑いした。 ところが、その笑いがいつまでたっても止まらない。 酸欠で死にました。 不適切な行動を脳は制御する。 その脳が壊れてしまうと、不適切な場所で笑いだしてしまい、しかも止めることができなくなる。 悲しみを感じることは生きていく上で必要でしょう。 特に対人関係で悲しみを感じないとまずい。 が、過剰に反応すると、動けなくなり食べ物をとってこれなくなるので、脳は一時的にぐにゃっとなっても元の戻ろうとする力があるかぎり、心は回復する。 うつ病の人など脳が一時的に傾いたような状態で、それが長いと、「これが本来の方向」と傾いた状態を正常だと脳は思ってしまう。 だから、薬でまっすぐにして「これが正常」と形状記憶みたくして、姿勢を戻す。 すると脳は薬が無い状態で、まだ外部から心的ダメージを受けて傾いても、やがて、またまっすぐに背筋を伸ばさないと気持ち悪いと、元に戻ろうとする。 これを心の回復と言う。 心が傷ついたというのは、怪我をすると痛いですから、心が痛いと感じると、傷ついたと表現します。 <脳が傷ついた>だとなんか パソコンのハードウエアが破損したみたいに聞こえ、「それなら病院で修理してもらえ」って言われそうですね。 そんなこというと「心が無い」って言われるでしょう。 不適切なので、「誰しも一生に一度はかかる心の風邪ですから、風邪をひいて苦しいと内科にいくように、心療内科に行ってみては? 楽になると思いますよ」と言葉を選んでいうのが、思いやりのある人。 心が無い=思いやりが無い ってことですが、脳が無い とは誰も言わない。 脳はあるが、状況に適切な言葉にしていないから、心が無いと言われるんですよね。 信頼関係がある場合と、無い場合では、同じ言葉でも結果がちがってきくるんですよね。 で、なにかいうたびに「傷ついた~」と専売特許のようにこの言葉を自分に有利になるように頻繁に使う人がいる。 腫れ物に触るように過剰なほど思いやりをこめないとすぐ被害者だと騒ぎ出す人がいる。 うざいので私は自己中心的で支配的なそいつには、なるだけ近寄らないようにしている。 笑
- mmky
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[実際には何が傷ついたのでしょうか。] この質問の前提は質問者さんがいっているように[形のない心]という考えかたですね。 逆に、「心には形がある」と仮定すれば「心は傷つく」ことができるということですね。 哲学というのは前提を問題視するものなのです。思考上(実際に目に見えなくとも)の論理破綻をするものは間違いと考えなければいけないんですね。 ということで、目には見えないけど心には形があるんですよ。何層もの多層構造をしているのですね、表面意識、潜在意識、その下に記憶意識というのがあり、そこに書き込まれるとCDROMに書くようなもので消えないんですね。これを心の傷といいますね。
お礼
学問としての哲学の知識がないのでちょっと分からないのです。
No.6です。 ★ 例えば年端もいかない子供の心が傷つく場合もありますが、これについてはいわゆる大人のケースには当てはまらないような気がしています。 ☆ そうですかぁ。
お礼
そうですよ。たぶん。
- magga
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僕なりの見解を書きたいと思います。 「感情によって心身に苦しみを感じる」 「苦しむ考え癖がつく・その感情が出やすくなる」 「その逆の考え方が出来にくくなる」 「その出来事に執着し何度も繰り返してしまう」 「さらに苦しむ考え癖がつく・その感情が出やすくなる」 と不のスパイラルに陥ることと思います。 逆を考えれば善のスパイラルもあると思うんですw 善行日記や慈悲の冥想などもその一例と思います。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
感情は重要な要素ですね。 そもそも不快な感情がなければこれほど問題にもならないでしょうから。
- r-utsugi
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こんばんは。 人に対するとき、あるいは、何かの問題に直面するとき、 人は、心に自分なりの答えを持って挑みます。 傷が付く、それは、その持った答えと期待がとずれたときに生じやすいですね。 軽く言うなら、自尊心。もっと突き詰めるなら、未知との遭遇。 心は、形がありません。 が、実態はあるのです。だから、痛い。 心は、その人そのものです。
お礼
>期待 それはありますね。 勝手な期待をもってそれが裏切られたと嘆くパターンですね。
- tumaritou1
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心の傷は、心が止まってしまう事ではないでしょうか。言い方を変えたなら(何かを)意識してその事から意識が離れなくなるという事です。その意識はある種の不安を意識したという事になります。意識する、自我意識が、意識をするという事は心の停滞です。 それは言い方を変えたなら、否定する事とも言えます。つまり受け入れられない、と言う事です。受け入れられない事がストレスと言う事になります。傷つきやすい心と言う事は、意識しやすい心と言えないでしょうか?又意識性が強い事は不安になり易いとは言えないでしょうか? 心の傷と言っても同じ事が現実に起こっても、それを無事に乗り越えてゆく人と、心に大きな傷を残して引きずってゆく場合や、そういう人がいるかと思います。その違いは意識をしてその事を問題にしています。一つの事を意識し続けるという事が問題を大きくしているのかと思います。 その場合に起こった事が大変なのか、問題として忘れられない事が問題なのかが大きなカギとなります。人間には多かれ少なかれ問題が起きます、ストレスを何に対しても感じている人、感じていない人がいます。 ストレスを感じやすい人は否定的に考えているという事のような気がします。あべこべに何事もストレスにしない人もいます。その違いは、現実を否定的に見ているのか、肯定的に見ているのかの違いと思います。 どうしてそのような事が起こるのかと考えた場合、その人自身の認識の違いと言う事になります。その認識が現在を肯定して受け入れるという事が出来た場合は、肯定的な人間像と言う事かと思います。 あべこべに全てを否定的に見た場合は否定的な人間像と言うものになります。この場合には今現在の現実の世界は否定するに値するものと言う風に感じているかと思います。従って傷付きやすいという下地が有って心に傷を負うと考える事が出来ないでしょうか?それは不安になり易い性格と言う事です。それは意識性が強いという事です。そしてそれは現実を受け入れにくい性格と言えます。その事は本人の認識によると思います。 その認識とは、自分自身を受け入れる事が出来難い、或いは自分自身が分からない、或いは自分自身が怖いという認識です。自分自身を否定的に見ている事から、全てが否定的に見えてしまうのかと思います。 結論として心の傷とは、心から離れないもの、或いは意識に上がって仕方ないもの、或いは、意識から離れなくなってしまうもの、と言えるかと思います。それはとりもなおさず自分が受け入れられないものと言えるかと思います。
お礼
なるほど、面白い考え方をするのですね。 確かに心の中にある異物感というのもあります。
心が傷つくのは 自分が自分の心ないし意志を曲げて 考えをかたちづくったり行為をおこなったりした場合です。 ほかに 心理的に心が傷つくことはありますが 基本的に言って 人の心や精神が傷つくことはありません。 上の事例では あとで わたしはバカだったと気づいたなら それは 自業自得になります。そのときには 傷つくというよりは 我れに返ることのよろこびのほうが 大きいはづです。 心理的にということは 外からやってくる力によってということです。外から来る何かによって 人間の精神が傷つくことは有りません。 海面に立つ波のような心理的な傷はあるわけです。それも 自分が おのれの力を過信した場合などに 外からの力に接して 起こるのであって その過信という意志の故意の曲折に気づくことが 肝心なわけです。 実際に 起こったことは 心理的な動揺であり もしそれが深い場合 という意味は 自己の過信が深すぎた場合ということですが そのときには それに応じて 動揺も深く 人は おのれが欺かれ 心が傷つけられたのだというふうに 感じるようです。 とは言うものの 意志は 知解と想像の力をたくましくして たとえば近代の夜明けとともに どこまでも 翔け上がって行きました。これでもかというほどに 膨れ上がりました。ここから 我れに還る過程で そこここで 心が傷つく事件は 多発することでしょう。 ★ 実際には何が傷ついたのでしょうか。 ☆ まぼろしの悪意です。悪とは 善の空洞化のことです。善とは 存在とその日常生活のことです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに過信という意思や、先の回答にも出たような自尊心などが痛みの原因はあるようです。 それとはまた別に、例えば年端もいかない子供の心が傷つく場合もありますが、これについてはいわゆる大人のケースには当てはまらないような気がしています。
- michan555
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自尊心でしょうか? 傷つくときは、人格否定された時だとおもいます 酷い行動を見たときに、自分に降りかからない場合は 傷つくではなく怒りや悲しみだと思います 信頼してた人が想定外の行動をとったとき ショックを受けますし落ち込み悩みますが 傷つくのとは違う気がします なにかできないか改善に向けて考える余裕がまだあります しかし、言葉通り、傷つくというのは自分が直接攻撃を受けた場合で それは自尊心に来るダメージじゃないでしょうか? その場合は、改善より先に痛みが残る感じです
お礼
確かに私たちは知らず知らず自尊心を養っているのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。
- ota58
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精神 *精神傷害*
お礼
ご回答ありがとうございます。
- Reiher
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何も傷ついてはいない。 ただし、脳は事後でも自己防御の反応を示す。
お礼
ご回答ありがとうございます。 何を防御しているのでしょう。
お礼
>人間の基本本能に自己防衛があり、安心して暮らしたいという欲求がある。 そうかもしれません。 恐らくこの本能的な動機が人にはあって、そのための手段として物質および色々な心理的人間の特徴を作るのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございます。