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昔の鉄道の2等、3等とはどういうものでしたか?

先日昭和30年代の東武東上線の切符を見ました。 すると、2等、3等と書いてありました。 当時、どのようなシステムだったのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • PAP
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回答No.6

国鉄(現JR)における戦後の推移は、概念的には以下のようになっています。 3等→2等→普通車 2等→1等→グリーン車 1等→廃止 すなわち1・2・3等の3等級制から1等を廃止して2・3等を1・2等としました。1960年(昭和35年)7月1日のことです。ただし、3等級の時の1等車の一部は2等級制になった後の1等車として活躍しました。 その後、1・2等の等級制をやめて、現在の普通車とグリーン車となりました。1969年(昭和44年)5月10日のことです。 ほとんどの私鉄も同様でした。 と言うことで、東武さんのきっぷの2等と3等と言うのは、ちょうど3等級制から2等級制に移行した時期をまたいでいたためのもので、どちらも今で言う普通車だったのですね。 現在はスペーシアの個室などにハイグレードタイプのものはありますが、ご覧になったきっぷの年代も含めて、戦後の東武には、進駐軍対応の車両を除いて、ハイクラスの車両はなかったように記憶しています。 国鉄(現JR)の場合、3等級の頃は1等から順にイロハの記号が車両に与えられ、例えば一等展望客車はマイテ(マは車両重量・イは1等車・テは展望車)であり、2等付随車はサロ(サは付随車=電車でモーターを積んでないもの・ロは2等車)であり、3等電動車はモハ(モは電動車=電車でモーターを積んでいるもの・ハは3等車)という具合でした。 2等級になったとき、もともと1等車の両数は少なく、ほとんどの車両は3等車だったため、イをなくしてロが1等車、ハが2等車となりました。これは、管理用の書類や車体表記の変更を行うと膨大な労力と金銭を消費しますから、戦後の傷跡の残る日本では現実的な対応だったのでしょう。 このため、現在でもグリーン車はロ、普通車はハの記号を用いています。 また、運賃のシステムとしては、現在のグリーン車制度と異なり、等級制の時代は乗車券自体が等級別でした。例えば東京~横浜の1等の乗車券と2等の乗車券は別物で、運賃も等級ごとに決められていました。 このため、上級の乗車券を購入した乗客に座席を用意する必要があり、車両もスロハなどと言った複数の等級の設備をもった合造車といったものが多く見られました。 しかし、乗客数もないところに上級の車両を用意するのはもったいないと言うことで、現在のグリーン車の制度に転換し、乗車区間の乗車券とグリーン車利用区間のグリーン券といった形になったわけです。グリーン車の連結していない列車の場合は普通車をご利用くださいと言うわけですね。ハイクラスご愛用だった方々からすれば、サービス切り捨ての方針転換ともいえるのでしょうね。 ちなみに、ANo.3の補足として書かれている事項にある「小」の字ですが、その脇に線がある場合がほとんどです。 当時は、かなりの乗客があるような大きな駅にはこども用のきっぷが用意されていましたが(当時はほとんど手売りで自動券売機はないかあってもごく少数です)、こども用のきっぷを専用に用意していない場合は、脇の線から切ってこども用にしていました。 きっぷには通し番号が振ってありますから、番号から何枚売ったかがわかります。そして、こども用で売ったものに対しては、切り取った小さい紙片を窓口で保管しておき、集計の時にそれを元に何枚こども用で販売したかがわかりますから、そこから売り上げを正確に把握していたのですね。 このほか、国鉄の急行券なども、券によっては発売するキロ数のところで切断して、切断した残りと総発売枚数からいくらの券を何枚売ったかと言ったような集計をしていました。 現在の、自動券売機やSuica・PASMOからは考えられないような手間がかかっていたんですね。

その他の回答 (7)

  • EASTBIRD
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回答No.8

こんばんは。 NO3ですが訂正事項があります。 9行目ー急行料金も・・・「同様に試算すると」とあるのは「時刻表の記載によれば」といたします。失礼いたしました。

  • ab21
  • ベストアンサー率5% (5/86)
回答No.7

1等が廃止され、2等がグリーン車になっていたのは、知っています。

回答No.5

#3の補足を拝見して、たぶんわかりました。 国鉄では、昭和35年7月1日に3等級制を廃止して、2等級制に移行してます。廃止されたのは1等車で、それまでの2等車が1等車に、3等車が2等車に変更されました。各私鉄とも、概ね国鉄に右に倣えでしたので、おそらく東武も同時期にそれまでの3等が2等になったのでしょう。 電車の古い新しいはありますが、どちらも今の普通の電車と大差はないと思いますよ。むろんクーラーはなく、螢光燈ではなく白熱電灯も多かったはずですが。この時代の東武には、3等級制の1/2等や2等級制の1等はなかったと思います。

  • ceeda34
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回答No.4

確かなことは分かりません。 昭和30年代というと、東武東上線は自衛隊練馬駐屯地付近にあった、米軍の官民一体住宅「グラントハイツ」への専用線を運行しています。 旧朝霞飛行場に作られたこの線は啓志線という名称で、上板橋付近から分岐してました。 そのため、軍人用の列車を運行しており、沿線も進駐軍関係者が多かった可能性があります。 こういった場合、たいていGHQからいろいろ要請があり、婦女子車両の連結や2等車の連結などをしている会社もいくつかあるはずです。 いかにもアメリカらしい発想です。 おそらくはそのような理由で、2等車両を連結した車両を保有しており、運用の関係で東上線の列車でも、一部で2等車両連結運用が車庫の出入りの関係であったのではないかと推測しますが、根拠はありません。

  • EASTBIRD
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回答No.3

こんばんは。  東武鉄道特集の雑誌をみますと確かに質問者さんのとおり3等と記したキップがています。ただ私鉄に一等車、二等車を常時連結はなかったと思います。国鉄と一枚のキップでのれる連絡乗車券との関りで標記してしてあるのかな?とおもいます。(詳しい回答者さんがでるでしょうからその方に譲るとして。)  ところで運賃で当時の国鉄運賃を昭和31年12月時刻表でみると、 3等最低運賃が10円・2等が20円・1等は2等の2倍とあり40円 となります。東京ー大阪が553,7キロ(当時)なので試算すると、 順に870円・2080円・4160円となりますね。 急行料金も同様に3階級となり同様に試算すると、600キロまでが、 特急で600円・1440円・2160円 急行で200円・480円・720円(~300キロ) 同じく300円・720円・1080円(301キロ~600キロ) どうですか?運賃とともに料金も3階級なのです。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 そんなに価格差があるとは知りませんでした。 切符は、 1.昭和36年 北池袋ー成増 10円 2等 2.昭和35年 朝霞ー鶴瀬  10円 3等 です。 純粋に東武東上線だけの切符です。 右下に小さく「小」とあるので子供用の切符かもしれません。

  • akak71
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回答No.2

昔の国鉄の特急列車の展望車が1等だと聞きました。だから数が少ないと思います 昔2等が グリーン車に変更になりました。 確か2等には税金が取られていたと思いました。 2等からグリーン車になったのは記憶があります。看板を付け替えただけです。

  • townser
  • ベストアンサー率44% (245/555)
回答No.1

うろ覚えですが、簡単に言えば 1等車(車種別略号イ)…貴族用の車両 2等車(車種別略号ロ)…富豪用の車両 3等車(車種別略号ハ)…庶民用の車両 だったかと思います。 後に貴族用の1等車は廃止となり、2等車が現在のグリーン車に、3等車は普通車となりました。そのため、現在の車種別略号でも継続して、グリーン車はロ、普通車はハを用いています。サロやサハはあるのにサイがないのはそういうわけです。

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