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ワタシはだれですか・・・
自分自身について、私であるという感覚がありません。 自分の名前も分かっているし、過去の記憶もちゃんとあります。 今、こうしてここで生きていることも分かっているけれど、 心がどこかへ行ってしまって、 生きている感覚もなく、・・・そうなってくると、ワタシは一体だれなんだろう・・・という気分になってきます。 精神科にはもう何年も通院し、ちゃんとお薬も飲んでいます。 お医者さんは鬱病だと言っています。 でも、なかなか治りません。 そもそも発病がいつだったのか、それが曖昧で、 もしもあのときからなら・・・と考えると、 4、5年前からのような気がするときもあるし、 10年前からのような気がするときもあるし、 15年位前のような木がするときもあります。 精神科に初めて行ったのは10年前ですが、その当時のお医者さんは鬱病とは違う病名をつけて治療しようとしましたが、治りが悪く、態度も悪いので、そこを去り、今のお医者さんの所に移りました。 今のお医者さんはワタシのために一生懸命やってくれましたが、 でも、もう疲れました・・・ 生きているのも嫌だし、 人間も嫌です。
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- tumaritou1
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私は今60歳になりました男です。14歳の頃に人生とか死ぬ事とかを考える事が在りまして、それから「人生とは何だろう」「死ぬ事が怖い」と云った事の虜になってしまい、大変生き難い想いをした経験が在ります。 四六時中今云った事が意識から離れなくなったと云う経験をした者です、それでも27歳で結婚をしました。翌年子供が出来た事で、生活が変わってしまい、生活が出来なくなってしまい、たまたま本屋さんで見た「不安の解決」著者は鈴木知順先生でした。その本は森田療法と云うものを説明していました。早速先生の所に行って「入院森田療法」というものを受けた者です。 入院期間にいろいろな本を読んで頂きました。禅や剣道や弓道等「道」に至る事がどういう事と云う事が多かったようでした。先生は「ノイローゼは悟りを開かないと治らない」また「ノイローゼになった一年は坐禅を十年したことと同じ」と云う事を言っていました。あの当時は何のことかさっぱり分かりませんでした。2ヶ月間入院しました。 そうして4年後の事です、「見性」体験をする機会が有りました。「悟りを開いたのです」それ以後、あんなに恐れていた「死」と云うものが怖くなくなったのです。「生死の問題」を解決出来ました。今までは「死」に対する恐怖から常に全身に力が入っていたようです。 あの瞬間に全身に入っていた力が抜けたのです。「身心脱落」と云う事はこの事だと思いました。私のノイローゼの病名は「離任症」と云うものでした。症状は貴方と全く同じです。生きているという実感が全くないという状態でした。その事で大変生き難いという想いをしました。それも「意識の有る時には」常に、絶えず辛さに包まれていました。 私の場合は先生が昔「ノイローゼの患者」だったと云う事で、ノイローゼと云うものを熟知していた事が幸いしたのかと思います。今の精神科医達、それとそれらの人達を育てている学校や学校の先生達も、学問として「神経症」というものを扱っているだけの様な気がします、中には本当の先生もいるのかも知れませんが。 その日を境にすっかりノイローゼだった事も、生き難い想いをして生きていた事もすっかり忘れて過ごさせていただきました。今は非常に「安楽に」過ごしている者です。 前置きが長くなりました、貴方の状態の説明をしてみます。貴方は我儘に育てられたと思います、その事も原因の一つになっています。もう一つ原因が在ります。貴方の「生命力」が強いという事です。この二つの事が原因で貴方の症状が出ているのかと思います。 貴方の強い自我意識と貴方の強い生命力との対立と矛盾から、辛い貴方の気持ちが存在しています。貴方の辛い気持や不安は昔の「禅匠」達の若い頃や、お釈迦様の「一切皆苦」と繋がっています。貴方の中に貴方の自我意識を圧迫しているものが存在しています。この事から先生が「悟りを開かないとノイローゼは治らない」と云ったのかと思います。 貴方の辛さを根本から解決する事は多分できるかと思います。それには「人間がどうして悩み苦しまなければならないのか」と云う事を学ぶ事です。その参考となるものは「森田療法」というものと、「禅」と云うものを学ぶことかと思います。禅に関しては鈴木大拙博士の著作したものが有効かと思います。博士は25歳で鎌倉の円覚寺で見性体験をしているからです。その体験から禅の解説をしているために、ポイントをしっかりと押さえて書かれているからです。 時間は掛かるかも知れませんが、是非学んでみて下さい。博士は「辛い人は人格が高い」と書いております。貴方の辛さは貴方を磨くためのものかと思います、貴方をその辛さが導いています。その辛さの後には深い安楽が待って居ると思います。その辛さは私も通過して来た道でもあります。禅匠と云う人達もお釈迦さまも通過してきた道です。 それは偉くなるとか、立派になるという事ではないのです。貴方が自分の生き難さの解消が出来るという事です。不安の解消は他人任せにしたところで、結局は自分が納得する以外にはないと思うからです。 貴方の生き難い想いのその大元は「人生に対する恐れや不安から」のものかと思います。その不安を抱かせているものが貴方の中に居ます、その者と出会うという事が自分の性を見る事です。見性するという事です。「自分の心が争わなくなる」と云う事になります。
ワタシは誰ですかと言っているのがあなたなのではないですか。私もこれは答えがない問いだと思います。仕方がないのでほかの人も自分のことだけはわからないのだと思うことにしています。誰にも答えがわからないという意味では人はみな同じだから孤独ではないと思うことにしています。
下から二行目訂正です。失礼しました。 ×答えから遠ざかろうとするから、死に取り憑かれるはないですか。 ↓ ○答えから遠ざかろうとするから、死に取り憑かれるのでははないですか。
cafardさんのとは違うけれど、私も幼い頃なら自分が自分じゃない感覚はありましたよ。でも、あれは別に病気ではないと思います。 あれは、四つぐらいのときだったと思います。 引っ越しがあって、遠い他所の町に越して来て間もない頃。 疲れていつのまにか眠っていて、起きて洗面所にいったら鏡の中の自分が誰か知らない人に見えた。どんなに目を凝らして見ても自分に見えませんでした。 急に怖くなって、眠っている間に誰かに体と心を取り替えられたんじゃないかと思いました。(別にそんな話を何処かで見たとか聞いた訳じゃないのに…。) 母親にも、私は別人になっていないかすぐに聞きました。 もちろん母親の返事は、「いつもと同じだよ。」でした。 取り敢えず納得したような態度をとったものの、やはり、自分は自分じゃない気がしました。でも、それっきり母に聞くのはやめました。 頭が変になったと思われるのが怖かったのではなくて、本当にそうだったら、そちらの方が怖いからです。 これも、四つぐらいのときのこと。 引っ越す前の話です。そこは田舎だったので鬱蒼とした森があったのです。 (子供だったから、森に見えただけで、本当は林だったかもしれません。) そこへ分け入ると洞窟があって、中で遊んでいると蝶が飛び込んできました。 私は、その蝶を捕まえて、何故だか急に羽をむしりたくなりました。そして…。 これが、夢だか本当だか分からないのです。自分が怖くて、夢と言うことにしたのかもしれません。怖くてなかなか家族にもそのことは話せませんでした。 だいぶ成長してから、母や姉にそんな洞窟はあったか?と聞いても知らないと言います。ならば夢だったのかもしれません。でも、夢でなかったのなら、何故そんな事をしたのだろうとゾッとします。あれが自分だなんて思いたくありません。映画でも見るように、誰か別の視点から、その場の自分も蝶も思い出せるので あれは夢だったかもしれません。でも、もしや…と思ってしまいます。 分からないことは、いくら考えても分からないのです。例え自分にとってそのことが事実としか思えなくても。誰も証明できないことを悩むのは、本質からすると、考えていないのと同じです。自分で納得のいく答えが出せないから、誰に答えを聞いても納得出来るわけありません。答えのない答えを求めても終わりはありません。 自分が自分じゃない感じは、不安感から来るのではないですか。 あなたはもう分かっているではないですか。大人になりたくないと言っているではないですか。 自分が自分であることが嫌で、今の自分を好きになれないから、 「ワタシはだれですか…」と思うのでしょう? 元の「わたし」も今の「ワタシ」も同じ人です。 元の「わたし」は今の「ワタシ」が勝手に美化しているだけです。 逆に言えば元の「わたし」が勝手に卑下しているのが今の「ワタシ」です。 答えから遠ざかろうとするから、死に取り憑かれるはないですか。 「わたし」が「ワタシ」を認めない限り答えなんかありません。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
#1 >哲学や心理学の理論や知識でこれを解決しようとしないで下さい。 哲学、心理学、医学・・・全ては道具にすぎません。 道具にこだわるのことに意味があるとは思えません。 事実、精神科ではらちが明かないのでしょう? >これは、実際に経験した人じゃないと分からないことなのよ・・・ それは無いでしょう。 それゆえにこの質問を立てたのだから。 >心がそう感じてしまうのを一体どうすればいいと言うのよ・・・ 自分が誰だか分からないでは無く、自分が自分じゃないという感覚なのでしょう? 話はもっと単純なのではないですか。
お礼
>話はもっと単純なのではないですか。 他人からしてみれば、そうかもしれませんが・・・ わたしは、わたしは、 ・・・これは、・・・こんなのわたしじゃないわ!!!! わたしの心は一体どこへ行っちゃったのよ・・・・・・・ わたしの心は・・・ 浅ましくて、卑しくて、狡賢い、腹黒・・・・・・・・・ こんなの、わたしじゃないわ、こんなの・・・ ・・・人は、こんなワタシを成長したというけれど・・・ これが(精神的に)大人になったということなら、 ワタシは大人になんかならなくて、いい。 汚い大人になんか・・・・・・・ 人間なんてキライキライキライ 元のわたしは一体どこへ行っちゃたのよぉ・・・・
- olive_1
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自分なのに自分であるという実感がないことを、離人感といいます。 病院の先生に、そういう症状について、いろいろ説明を聞いたらいいんじゃないでしょうか? 自分の体のことなので、自分で知っていたほうがいいと思うので。 薬が効かないなら、効くお薬に出会うまでいろいろお薬を試してみるとか。 それでも効かないなら、入院して電気を脳に通す治療法があります。 そういうのも、聞いたらいいと思います。 お大事にしてください。
お礼
>病院の先生に、そういう症状について、いろいろ説明を聞いたらいいんじゃないでしょうか? もう、何年も毎回のごとくはなしてきました。 でも、病気の主症状のうちの一つである限りは、 病気が治らないうちは、先生もどうしようもできないんでしょう・・・
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
自分が誰かがそんなに重要なのですか。 『私』の存在が希薄なのになぜ疲れるのでしょう。 誰が疲れているのですか。
お礼
哲学的なこと言わないで。 哲学や心理学の理論や知識でこれを解決しようとしないで下さい。 これは、実際に経験した人じゃないと分からないことなのよ・・・ あなたは体験したことがないからそう言えるんでしょうけど・・・ ワタシも頭では、あなたの言っていることは十分、分かったいるんですよ、ちゃんと!ずっと前から。 でも、心がそう感じてしまうのを、(ワタシはだれと感じてしまうのを)一体どうすればいいと言うのよ・・・
お礼
>ワタシは誰ですかと言っているのがあなたなのではないですか それは自分自身でも分かりきっているのですよ・・・ ワタシという日本人がいまここにこうして、考えたり悩んだりしながら生きてはいる・・・頭ではそれはわかっているんです。 でも、自分の感覚や生きている感覚がないんです。 やはり・・・この感覚の苦痛は経験した人じゃないと分からないのですね・・・・・・