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人を批難しない人になるには
人を批難しない人になるには、どのようなことを心がければいいのでしょうか。 私は元来論争好きで、人のアラがよく見えるたちです。 これまでリアルでもネットでも数多の批判を繰り返してきました。 だけど最近、人を批難すると、気分が滅入るばかりです。 どうにかして、生きているうちに、人のアラが見えても許せるようになるとか、 人のいい点だけが見えるようになるとか、人と共感できるとか、 そんな人格を築きたいのですが、具体的にどうすればそんな人になれるのでしょうか。
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- jdklliufeh
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じゃあ騙されたと思って、2つだけ実践してみてください。 1つは、他人(または出来事)の良い所は口にしても、悪い所は絶対に口に出さないこと。良い所が見つからなければ黙っていること。悪口を言うぐらいなら無口な方がましです。ネットなどでも、こういった場で匿名で相談するのはかまいませんが、直接攻撃しないこと。心の中ではいくら思っていてもかまいません。 最初は顔に出たりして「腹黒いヤツ」だと思われることもあるかもしれませんが、思っていることを口に出さなければ意外と責められないものです。だいたい人は口に出した言葉の方を信じます。自分も言っているうちに自分はいいヤツだという気がして気分がよくなってきます。 もう1つは、批判や反対意見を言いたい時は、その前に必ず「そうだね」または「うん、分かるよ」と言ってください。その後で「でも~」と、自分の意見を始めるようにしてください。 この場合の「そうだね」の意味は、(私も同じ意見です)という同意ではなく、(あなたの意見はよく分かりました)という共感です。その後であなたが批判をしたとしても話は合いますし、一旦相手の話を受け入れると自分の話も受け入れてもらいやすくなります。 例えば、誰かがあなたの嫌いな歌手を好きだと言った時。 「えー。私は嫌い。かっこ悪いし、あんなのが好きだなんて信じられない!」と思っても、 「そうなんだね。私は嫌いだけど」というように。 慣れてくれば、嫌いというネガティブな言葉はなるべく使わずに 「私は○○の方が好きだな」と言ってみたり、「あの歌手は○○がいいよね」と良い部分を見つけてつけ加えるといいと思います。 まずは、「そうだね」の一言で相手が○○を好きだと言う気持ちを分かってあげることから始めてみてください。 昔は批判好きで友達がいなかった私ですが、今はこれを心がけてから友達がたくさんできるようになりました。 人を攻撃すると、相手からも攻撃されます。気がめいってるのはそのせいだと思いますよ。攻撃されてばかりでは嫌ですよね。 人を受け入れると、人から受け入れられます。 人を褒めると、人から褒められます。 褒められると、自分はこんなにいいヤツだと自分に自信がもてるようになります。
- elno
- ベストアンサー率34% (22/63)
あまり自信のある回答ではないのですが。 とりあえずは全てを受け入れる事、でしょうか。 この世に絶対なんてありません。 完璧な人間も国も政治も有り得ません。 むしろ生きてて理不尽な事ばかりですが、それでも生きていかなければならない。 だからというか、一つの論議にも絶対の答えなんてない。 様々な考えを持つ人がいるから色んな意見は出ます。 結局は論議する人各々が自分に納得のいく答えを見出せたらそれで納まるのではないかと考えます。 論議だからと自分の意見ばかりをただを言うのではなく、取り敢えず聞いていれば 本質って見えてきませんか? 程度はもちろんありますが、人のアラもその人の一部なんだからどうして それを認められないのだろう?とむしろ私は思います。 ネットなんかで些細な事で人を叩きまくる人がいますが、その行為がもの凄く 無意味に私には感じられます。 許容範囲が狭いといいますか、そう言う面で人間性を疑います。 小さいアラ一つ一つを見るよりも、その人のいい面さえしっかりと見えていれば そんなアラも気にならなくなります(…自分なら、ですが) ただ自分は自己主張が、むしろないってくらい自分の意見を言わない人間だから こうして受身な発言ができているのではないかなとは思いますが。 自分を押し殺すのとは違いますが、一つ意見を聞いたらまずそれもありだと 自分で受け止めるようには普段からはしています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「結局は論議する人各々が 自分に納得のいく答えを見出せたら それで納まるのではないかと考えます。」 そんなものでしょうか。 世の中では、主義主張・利害得失がからんだ話が多いですから、 テレビの政治討論会のように、 皆(私も含めて)自分に有利なことをいうだけで、 議論すればするほど溝が深まっていくように感じています。 「小さいアラ一つ一つを見るよりも、 その人のいい面さえしっかりと見えていれば そんなアラも気にならなくなります」 ここは本当にポイントなのでしょうけど、 この人は私の話を本当に聞いてくれる人だと思ったときに、 そういう気分になることはあります。 だけど、そういう聖人君子以外は、アラしか目につきません。 他人に求めるハードルが高すぎるのかも知れません。 私にすれば、人の作った書類の誤字脱字を直すようなものです。 (自分もお礼で誤字をしてますね。恥ずかしいです。) 「一つ意見を聞いたらまずそれもありだと 自分で受け止めるようには普段からはしています。」 これにとってもストレスを感じます。 やはり自分の考えがはっきりしすぎてるのでしょうか。 それもありだと納得しようとするのですが、 無理すると倍になって噴出してしまいます。 昔、「もっと楽に自己主張ができる本」というのを読んでたら、 それを見た周りの人に「まだこれ以上自己主張するつもりか」と 言われました(w 人のアラを探さないためにかくあるべし、 というのは何となくわかるのですが、 具体的に何をすべし(またはすべしでない)というハウツーが 知りたいです。
- domaine-espoir
- ベストアンサー率11% (202/1743)
こんにちは。 人を批判するというか、人はそうするけれど、 自分はそれとは違ってこうする&こう思うというは、 多々ある普通のことだろうとおもいます。 違うからといって全部が全部批判すべきもの(受け入れられないもの)でもない。 実際、一面ではそうであっても 他の面からすると、別の角度から違った見方をできるというのも、 また普通だろうとおもいます。 とくに時間をかける・知るということを実践すると、 違った見方ができるのかなとおもいます。 こんな両方の見方を組み合わせて、 自分の意見を言えるようになれるといいなとおもいますねぇ。 なんでも”すべてよい”というのではなくて、 よい・わるいとか賛成・反対とかいろいろプラスとマイナスの要素が組み合わさると、 別段、非難することでもないとおもえることってあるとおもいますよ。 自分も議論が好きな方ですが、 批判とフォローはよく意識しています。 議論って、 どちらかだけの一方的な支持・不支持でもなく、 喧嘩ではないしましてや仲違いを目的にするものでもなく、 (1)知ること (2)知ってから後は、知恵を出し合うもの だとおもうので。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「違うからといって全部が批判すべきものでもない」 →ストライクゾーンが以上に狭いです。 「時間をかける・知るということを実践すると 違った見方ができるのかなと思います」 →第一印象か最初の受け答えだけで人の見方が固まってしまいます。 自分の第一印象に人をはめこもうとしているせいか、 第一印象とその後の印象が変わった記憶があまりありません。 他人と時間を共有するのが苦手なこともあります。 「プラスとマイナスの要素が組み合わせると、 別段非難することでもないとおもえることってあると思いますよ」 →マイナス要素の感受性が高く、受容度が低いので、 プラス要素が多少あっても焼け石に水です。 こう自分の気質を並べてみると、過剰防衛気味ですね。 どうして直せばいいのか、よくわかりません。 議論でいつも気が重くなるのは、 議論してて、正しいことにたどりつくのではなく、 勝ち負けにこだわったり、 論点から離れた自分の意見を開陳したり、 議論を拡散させたりする人が多いことです。 本質をずばりと突いてくれる人は話が早くて済みます。 でもそんな人はなかなか出会えません。 「お礼」じゃなく自分語りだけをしているこんな質問者に ご回答わざわざありがとうございました。
- Fetwee
- ベストアンサー率40% (44/110)
まず、どんな立派な人であっても、立派じゃない点は探そうと思えば幾つも探せるものではないでしょうか。 人を批難して引きずりおろすことは、自分が努力してその人の位置まで上がることよりも、はるかに簡単なことだと思うようにすることだと思います。 それと、人のアラ探しで一時的に優越感とかそういったものを得ることは可能でしょうけど、 最終的にはそのつけが自分にかぶさってくるんですね。 たとえば他人の思いやりのない点を批判する。矛盾点を探し出して攻める。 そうするっことによって自分自身の思いやりのない点、矛盾点を周囲に悟られるのを恐れていくようになるでしょう。 また、それで思いやりのある行動や矛盾のない行動を自分に課すことはできても、動機が不自然のままでは自分を苦しめる結果でしかありません。 人を批難した後の不安の原因はその辺りにあるのではないかと思います。 ふだん掲示板の会話に参加していないような人がいきなり、批判するために登場することも少なくないですね・・・。 むしろ自分の欠点を自分で認めているような人は、同じ欠点を持つ人の気持ちがわかるのではないでしょうか・・・。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いい面悪い面含めてすべて私だから、 ありのままの私自身を受容してあげよう、 そうすれば他人も許せるだろう、と考えようとしたこともありますが、 現実では、結局自分の悪い面ばかり出てしまいます。 この性格をどうにかして直したい、もっと摩擦なく他人と生きていきたい、 と思うのですが、直りません。 虫の良すぎるあつかましいお願いで恐縮ですが、 きつめの意見でも結構ですから、 何か目からウロコが落ちる一転語を賜りたく存じます。
質問者様のお気持ちは、分かるような気がします。 人のいい点は指摘しないのに、悪い点は指摘したくなる。いい点を指摘しても、コントロール願望(お世辞)みえみえの表現になる。もっと自然に、人を褒める言葉が出てきたらいいのに。…最初は意識的に、誰かにいい感じを持った時、その気持ちを表現するように心がけます。慣れれば、自然に出るようになると僕も思って心がけています。普段からいい点を口に出しておけば、批判しなければならない時にも言いやすくなると思います。(ぜったい批判してはならないのではなくて、褒めると批判のバランスが悪いのだと思います)(参考;http://www.mahoroba.ne.jp/~take-1/assertion.html アサーション) 人を説教にせよ批判にせよ部分的にせよ否定すると、リアクタンス(抵抗)を受けます。これは自分の態度や行動の自由を守るためと考えられます(参照;http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/settoku5.htm ブーメラン効果)。また、説教や批判をする側の人の動機に、「自己重要感に対する欲求」(=偉そうにしたい)がチラチラ見えるので、聞く側には不愉快だという面もあるでしょう(参照;http://www2s.biglobe.ne.jp/~musimusi/coach18.html 自己重要感)。 言い方がどうであれ、話の内容だけを吟味してくれればいいのに、何だか伝わらなくてもいいものが伝わってしまうような感覚はありませんか。それは、ノンバーバルメッセージです(http://park6.wakwak.com/~psychol/communicate/cbase/babal.html http://www.kosodate.mitaka.ne.jp/column/psycology/psy-0511.htm ノンバーバル)。 「自分に厳しい人は、他の人にも厳しい」という蓋然性は確かにあると思います。その蓋然性を乗り越えるのは、≪自他の境界≫を明確に区別する意思の力だと思います。他者がどう感じているかを推測するときに参考にするのは、やはり自分の心です。他者を自身の延長線上でみてしまうのが人間の性です。小さい頃に、『自分がして欲しくないことは、相手にもしない。自分がして欲しいことを相手にもしてあげましょう』と教えられました。しかし、十年以上も生きていると、体験も差が大きくなり、それぞれ感じ方も違ってきます。なので、次の段階としては、『人は自分と違う感じ方をし、違う価値観を持っているかも知れない』という思慮が必要になります。ただ、これだけだと交わることがなく共感も生まれません。そこで、第3段階として、『他者と同じ成育歴、条件、立場なら、同じように感じたり思ったりするかも知れない』という条件付の共感を模索します。ですから、「共感はするけど同意はしない」という事態(=許し方)も発生します。 独善的にならないためには、批判しやすい人であることが肝要です。批判しにくいオーラをまとった人は、それだけで独善的になる要素を備えていると言えましょう。また、偏見に囚われないためには複数の視点からものを見る態度が必要です。そんなことが瞬時に出来るものかと疑問も湧きましょう。僕は頭の使い方で、完璧ではないにしろ上達できると信じています。右脳は感覚・イメージ・感情、左脳は理論・言葉・計算を司ると言われますが(感情=感情を感じる)、右脳は「新奇性」、左脳は「慣例」を担当しているという考え方を最近知りました。最初は右脳が処理していた課題が、何度か繰り返すと左脳が処理するようになるというのです。だから、一度深く考えたテーマは左脳で「慣例」となり、複数のテーマについて答えを素早く出せるようになると考えています。つまり、人間関係についても習熟は可能だということです。
お礼
長文のご回答ありがとうございます。 アサーションの本は昔結構読み漁りました。 「心理的リアクタンス」は、日本語訳が出ていないので、 大学の図書館で借りて原著で読もうとしたことがありますが、 英語が不得手なものでよくわかりませんでした。 自他の区別が大事だということも、頭ではよくわかっております。 ノンバーバルコミュニケーションの大事さや、 「相手に伝わるのは論理ではなく感情だけ」ということも それなりに知っております。 だけど現実に適用できません。 気にいらない相手には、負のストローク返しまくりです。 「人間関係についても習熟は可能」なのだろうと思いますが、 そのノウハウが知りたく思います。
- funnylife
- ベストアンサー率7% (11/140)
突拍子も無い意見ですが。 聖書を読んでみてください。旧約でも新約でも結構です。興味が沸かないようでしたらごめんなさい。
お礼
ご回答ありがとうございます。 昔から教会には縁が深かったもので、 聖書は比較的よく読んでおりました。 姦淫の女の話に出てくるイエスのような気持ちになりたいのですが なかなかそうはなりません。 (でも過越の祭りの宮清めではイエスも結構怒ってますね) イエスがだめなら、何もかも見切ったソロモンのようになりたいと 伝道の書や箴言などを読んでも、その瞬間は冷静になっても、 現実に出会うともうだめです。 理不尽なことがあっても、人を批難しない人になりたいものです。
- mike00
- ベストアンサー率16% (52/325)
このように考えてみるのは、いかがでしょうか? 自分と意見が異なる相手というのは、いわばもう一人の自分なのかもしれません。人というのは、経験や知識、あるいは信念によって生き方を選択して来た結果、今の自分というのもがいるのだと思います。 だから、「自分だったらそんなことしないのに・・・」というようなことをする人って言うのは、自分とは違う選択をした、いわば、もう一人の自分の姿かもしれません。どっちが正しいかなんてことは、誰にも分かりませんしね。 逆の場合もあるでしょうね、例えば、同期なのにどんどん認められて出世していく同僚。同じく自分が選ばなかった道を選択したもう一人の自分の姿なの間も知れません。もしかしたら、自分がその人の影なのかもしれませんね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自分の意見と異なる相手は、もう一人の自分、 という考えはあまりピンと来ません。 自分の意見と異なる相手でも、 自分の意見を凌駕する高次の意見を出す人は、むしろ尊敬いたします。 同期なのにどんどん認められて出世していく同僚、のような人は、 往々にして頭がよくてコミュニケーション能力にも長けており、 こちらのニーズに合致した受け答えをしてくれるので、 どちらかというと、腹の立たない相手です。 このイライラは、何かが満たされないからイライラするというより、 自分の考えることが相手に伝わらない コミュニケーション上のイライラに近いと感じております。 誰がどんなおバカなことを言っても、 人を批難しない人になりたいものですが、 その方法がわかりません。
- ptyfsu
- ベストアンサー率14% (52/371)
自分に厳しくなることだと思います。 人のアラを見つけて非難してしまいそうな時、自分に厳しければ「私もアラだらけ。私は人にえらそうなことを言える人間じゃない」と自分を戒めることができるはずです。 自分のアラもあるのに人のアラを非難するのはかっこ悪いと思えれば徐々に減っていくのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 器が小さいせいか、自分に厳しくなると、 人にはそれ以上の厳しさを求めてしまいます。 いい気分の時のほうが、人のアラを探さないように思います。 困ったものです。
- avy-avy
- ベストアンサー率40% (316/787)
批判的な人っていうのは、どこかで自分を認めてもらいたがっているタイプの人が多い気がするんです。 あ、私も結構人のアラを見つけちゃう人です^^; 自分という意見を持ちすぎているため、それに反する行動や言動をする人を見ると正したくなるし、自分の意見を理解してもらいたくなる。 だけどそれを余計なお世話と思う人はとっても多いですよね。 私が批判的な感じにならなくなったのは、一度徹底的に落ち込んだ時でした。それこそ病気、くらいの感じで。 やっても出来ない人もいるし、甘えてるように見えて必死の人もいる。 そんな立場に自分が叩き落されないと私はそのことに気付かなかったんです。 あなたがそんな立場にもいずにそのことに気付いたのならとても凄いことだと思いますよ。自分自身を見つめなおして変えようと思うのは、思っているより大変なことですし気付かない人が多いものです。 私は……まず、いくらその人の欠点であっても認めてあげることから始めています。 最初から否定されると、人って無意識に壁を作ります。自分に不利益な言葉なんか気分が悪いだけですし、出来れば聞きたくないですもんね。 だから、見えたアラをまず認めます。見えたアラだって、捉えようによっては長所にもなりえるんですよ、不思議なことに。 そうやって認めてから、今アラとなっている短所をこう変えれば立派な長所になるんじゃないかな、っていう風に友人の相談に乗るようにしています。 自分を認めてくれる人の意見って、わりとすぐに聞き入れてもらえるもんなんですよ。 人によって抱えている悩みや問題も様々。その全てをあなたが理解できるわけないのだし、理解できないことなら「ハイハイ。そーだね」程度に受け流しておき、理解できそうなら相手を認めてから助言してあげたらいいと思います。 まぁ最近は、ネットの書き込みなんかの批判を見ているとただ口が悪いだけじゃね?って人も多いですけど。 自分を変えたいと思っている時点であなたは素晴らしい気持ちをお持ちなのですから、どうぞ慌てずにゆっくりと改善なさっていってください。気持ちが折れなければ絶対に理想のあなたになれますよ。 重要なのは、理想のあなたを頭の中に常に持っていることです。無理だと思った瞬間、本当に無理になってしまいますから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自分の考えがはっきりしていて、自分のことを認めてもらいたい、 だから人を批難する、というのは、 過去もどこかで読んだ記憶がありますが、 まったくその通りです。 あとつらつら考えるに、内向的な人は、自分が世界の基準だから、 その基準に合わないほとんどの人にイライラするのだとも言いますが、 それも本当にその通りです。 また、ネット好きは、「他人」というコンテンツが 不明確でまだるっこしくて結論が遅くて仕方ないと感じて イライラする、と言いますが、これもその通りです。 ただ、このイライラからの抜け出し方のハウツーが よくわからないのです。 聖人君子のような皆さんは、 そもそも人の「アラ」が目に付かないものといいます。 「受け流す」というスルースキルは、ネットなら簡単なのですが、 リアルではとっても難しく感じております。 見ざる、聞かざる、言わざるという姿勢を身に着ける 具体的なテクニックを知りたいです。 身につけられるのか聞きたいです。
Q、人を批難しない人になるには? A、「まず、どの種の蝿を追うのか?」のスタンスを明確にすることです。 他者の頭上を飛び交う蝿を追うことが第一義的なことか? それとも、自らの頭上を飛びかう蝿を追うことがより大事なことか? 前者と後者のスタンスでは、飛びかう蝿の見方・考え方も随分と違う筈です。 人のアラがよく見えて批判したくなったら、自分の頭上を見ることですね。 この蓄積で徐々にですが、他者の頭上を飛び交う蝿も隣の山の石ころに見えるように・・・。 しかし、自分の頭上を見て蝿一匹も発見できないとチト変身は無理かもです。 が、まあ、心配は無用。 質問者も、そんな聖人君子ではないでしょう。 そういうことで、自分の頭上を見ることですね。
お礼
とても素早い解答ありがとうございます。 私はパワハラゴーマンタイプではないので、 自分の頭の上はハエだらけであることは自覚しておりますし、 むしろ自虐的に自分を責めて落ち込むタイプです。 だけど、自分の罪と他人の罪は別、という感じで 人に対する批難感情も止むことがありません。 自分の頭の上のハエを追うことと、他人の批難が両立してしまいます。 むしろ自分の頭の上のハエを追えば追うほど、他人のアラが目につくようになります。困ったものです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 悪いことを口に出さないようにしたこともありましたが、 1日持ちません。 むしろどんどん毒がたまって、いやな人間になってきます。 ストレス解消のために毒吐きブログを作ったこともありましたが、 やっぱりだめでした。 私の批判が炸裂するのは、 「できるだけ悪口は言わないようにしよう」と思った後のことが多いです。 それと、友だちはほとんどいませんが、 数少ない友達は、隠し立てなく腹の底からすべて言える人ばかりです。 そういうコンフォタブルな関係に慣れてしまうと、 これ以上友だちを作ろうとも思いません。 気がめいるのは、人から攻撃されるからではなくて、 何で他人様のように、すらっと受け流せないかなあ、 ということからです。 「プロカウンセラーの聞く技術」など読んで、 聞いたことを受け止めて避雷針みたいに流せたらいいな、と思いますが、 いわゆるペルソナ形成に失敗したのか、そういう高等技術がありません。 ただ、おっしゃるように、批判しないといいことがあるよ、という動機付けは必要なのかも知れません。 ただ今の私には、批判しないとイライラがたまるだけで、 それが何かよくわかりません。