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人を批難しない人になるには
人を批難しない人になるには、どのようなことを心がければいいのでしょうか。 私は元来論争好きで、人のアラがよく見えるたちです。 これまでリアルでもネットでも数多の批判を繰り返してきました。 だけど最近、人を批難すると、気分が滅入るばかりです。 どうにかして、生きているうちに、人のアラが見えても許せるようになるとか、 人のいい点だけが見えるようになるとか、人と共感できるとか、 そんな人格を築きたいのですが、具体的にどうすればそんな人になれるのでしょうか。
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こんにちは。 非難っていけないことなんですか?悪いことをした人は非難されますよね。非難と批判て違うのでしょうか?僕は先日、精神病の方を面白おかしく批判されている記事を読んで、それを批判しました。 ですが基本的に非難、批判て好きじゃない。でも必要とあらばしてしまう。あまりしてきてませんが、今までの人生。今思うのはもっと人を批判してもよかったかなと。いわれっぱなしで反論もせず泣き寝入りが多かったです。 相手を全否定、不敬さえなければ、多少非難、批判はよいのではないのかと思ってしまいます。愛があれば深く傷つけなければよいのではないのかと思います。 何かものすごく人間関係を履き違えた、元不良のいとこがいて大嫌いなのですが、いままで無視してきました。でももう我慢の限界ですし、縁を切ろうと思いましたが、彼の為に愛のある批判をしてやったらどうかと思いました。厳しい一言をいってやったらいいのではないのかと思いました。彼も実はそれを待っているのかも知れません。自分を無視するより一言注意して欲しいのかも知れません。・・・関係ない話でしたね。 僕もここでは批判されたら批判しかえしていますが、相手がマジな批判と受け止めないように注意を払っています。ですが、偉そうに能書きたれる人にはマジで批判してしまいますね。その場合最低限全否定、不敬はしないようにしています。難しいですね・・・。
- GPOINTOSAN
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ANo.28です。 誤字がありました。 <避難でなく、批難>です。
- GPOINTOSAN
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こんにちは。 ずいぶん日にちがたっていますが、 ちょっと通りがかったので、思うこと書いてみます。 「あなたの考え方、間違っている」 そんなようなことを言われたら、現実でもネットでも、いい気はしません。 (;一_一)こんな顔になります。 人と人は、鏡のようなものです。 たとえば相手の表情がこわばれば、あなただって笑顔ではいられない・・はず。 相手がにこやかにあなたに話しかけたら、あなたも微笑んでしまうでしょ? ということです。 相手の良い点を見つけることはカンタン。 相手を好きでいることです。 んー、 ほんとに好きだから、言いたくなることもありますよね。 でも、好きだったら、こんな言い方をしたら相手が傷つくかな どういう言い方だったらと考え、 そんな想いは、相手にきっと伝わる・・・はず。 なんて、いつもこんなふうに思ってる私は、避難ばっかりする人から 「甘いな」と言われ、 ちょっとムッとしちゃいます。 ずいぶん日にちがたって、ページも奥のほうになっているようなので、 気楽に書いちゃって、 ごめんなさい。 アラ、見えますよね・・ ごめんなさい、我慢してくだされ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 こんなに日にちが経ってからご回答をいただけるとはあまり思っておりませんでしたので、お礼が遅れました。申し訳ありません。 私も、好きな人のアラは見えません。 むしろ「あばたもえくぼ」というか、ハロー効果というか、 いい人はすべて受け入れてしまう傾向があります。 問題は、嫌いな奴のアラを探してしまう癖です。 特に何も知らないくせにえらそーに能書きを垂れる奴は、 アラしかさがそうとしません。 緊張させる相手とか、萎縮させる相手とか、管理しようとする相手とか、 私の精神的自由を奪おうとする人間には、極端に反抗するタイプです。 どうにかなりませんでしょうか。 なお、GPOINTOSAN様のご回答は、ほのぼのしてて好きです。
- magga
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慈悲の瞑想で怒りなどを出にくくし、慈悲喜捨の心を育てます。ヴィパッサナーで自分の妄想感情に早く気づき、ダメージを減らせるようになります。 「現代人のための瞑想法」に詳しい方法は載っています。 試して・実験してみてください。 きっと善い結果が得られると思いますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ヴィパッサナーって初めて聞きました。 瞑想系統はよくわかりませんが、 また機会があれば試したいと思います。
- any_many
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>2.そのために、どんな意見も共感できるようになりたい。 これ、難しくありませんか? たとえば質問者様が挙げておられた「権力がすべて、金がすべてという価値観の人」に、私は共感しにくいです。・・・というより、共感したいと思えません。 ただ、「権力がすべて、金がすべてというわけじゃない」と自分が思っているのに、まわりから「それは違う」と別な意見を押し付けられたら不快だろうと思います。 それと同じように「権力がすべて、金がすべてという価値観の人」に私の意見を押し付けたら不快だろうということは理解できますし、そういう意味では共感できます。 (これを共感と表現するのがふさわしいかどうかわかりませんが) ストライクゾーンが広ければ共感することが比較的ラクなのかもしれませんが、あまり広すぎるのも人間としてどうなのだろう思ったりします。 ストライクゾーンが狭いのであれば、同じものを見て同じように感じるという意味の共感は難しいのかもしれません。 でも同じようにストライクゾーンの狭い人間の気持ちはわかりやすい、共感しやすいのではないかと思います。 意見に共感するというよりも、相手の感情に共感するという感じでしょうか。 相手を批難しないようにするために必要なのはその程度で十分かと思うのですが… ちなみに、その人が私に向かって「権力がすべてだよ、金がすべてだよ」と言ったとしたら、 「へぇ、そうなんだ・・・」(興味なさそうに)と答える程度でしょうか。 議論をしても私は自分の意見を変えようと思わないし、相手もまた同じだろうと思うからです。 相手とは意見が違うことをほのめかして終りにしたいです。 それでも食い下がられたときは、どうにかして話を切り上げる方向で努力すると思います。 質問者様がこのスレッドで議論から上手に手を引かれたのと同じように…
お礼
ご回答ありがとうございます。 もう相手にしてくれる人もいないかなあ、と思ってたので なんかうれしい感じです。 さて、おっしゃるとおり、反社会的・反道徳的・反人道的なことに 共感するというのはとても難しいことですし、 そもそも共感すべきではないと言うご意見はごもっともだと感じます。 だけど、そこを一歩進めて、 「この人のおかれた所与の条件で導き出される正しい答えはこれなんだ」 と醒めて思えたらいいなと思います。 そういう客観的事実だけを見つめるようになれたらいいな、と思います。 そこで論争をする必要はないのでしょう。 それはさておき 「意見に共感するというよりも、相手の感情に共感するという感じでしょうか。」 こういう考えもあるんですね。私はこれが全くできません。 むしろ感情で共感できれば、意見は全く正反対でも、共感できます。 相手が真摯に自分の意見を聞いてくれて、そして真摯に回答して、 その回答が自分の心にストンと落ちる納得を与えてくれるなら、 それがたとえ自分の意見と違ってても、十二分に満足します。 ここからはいつものように勝手な自己語りです。 皆さんからご示唆いただいて思うのですが、 やっぱり修行が必要なのかなあ、と思います。 (大好きな盤珪も、「まづ三十日不生で居ならわしやれたれば、 それから後には、おのづから居とむなふても、 いやともに不生で居ねばならぬようになるものでござ(る)」と 言っておりましたことをもう一度確認いたしました) コミュニケーションは、自分のためではなく、人のためなのだと 割り切っていくことが大事かなあ、 コミュニケーションで楽しみを見つけようとするそのものが、 根本的な間違いだったのかなあ、なんて思う次第です。
>>人を批難しない人になるには、どのようなことを心がければいいのでしょうか。 この点についてだけ、話します。 人を批判する、批判している自分が、本当に嫌にならなければ、批判をしない様になるなど出来るはずもない事でしょう。 何となくとか、そう言う自分は嫌だなあ・・程度では変わることは先ず無理でしょう。 本当に・・と言う言葉は難しいです・・・と言うより言葉は難しいです。 本心からでなくとも、(取りあえず)本気ですと書かれたり、話されれば他人はそうか・・・と思うしかありません。 他人の事はどうでも良いのですが、話の都合上書きました。 ある状態の自分が本当に嫌になると言うのは、実は難しい事です。 自分・と言うよりも殆どの場合、自分の弱点と向き合うことになるからです。 誰でも、多かれ少なかれ、良い自分、格好よい自分、優しい、思いやりのある等など、理想的な自分をイメージしています。 それが、現実は意地の悪さであったり、思いやりのない自分であったりします。 自分のありたい姿とは真反対の自分を見るわけです。 その様な自分と対峙する事が出来ますか、覚悟はありますか・・・ と言う事が出発点になるのです。 それほど大変なの・・・と思われたなら、まだその時期には来ていないと言う事でしょう。 自分と向き合う事が出来れば、もう解決した様なものです。 自分と向き合うまでが、とても大変なのです。 そして、大抵の人はこの段階で挫折をします・・・ 勿論、挫折をした人達のことを責めてはいませんので、誤解のない様に・・・その様な傾向にあるというだけです。 もしかしたなら、対処療法的に、何か上手い方法があるかも知れません。世の中広いですから・・・ 質問された事は根源に近い事を質問されていると感じましたが、 話がかみ合わない、求めている事と違うと言う事でしたら、削除かスルーでお願いします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「自分と向き合う事が出来れば、もう解決した様なものです。」 うーん、これはですねえ、そうなんですかねえ。 よく、「解決できないのは、本当に自分と向き合っていないからだ」と おっしゃる方は多いのですが、 仕事とかスポーツとか勉強とかのスキルアップでは そういうことは多いと思いますが、 嗜癖とか性向を変えるという面は、嫌な自分と正面から向き合っても、 そして一時はどーんと落ち込んだり、やろうとしても、 中々続くものではないなあ、というのが実感です。 個人的には、自分の習癖に関する問題では、 「自分に正面から向き合う」ことが あまり問題解決のよすがにならないような気がします。 その反省を継続させるには、 そして継続させて自己の習癖を改善していくためには どうしたらいいか、というノウハウがよくわかりません。 フロイドは40歳過ぎた人に精神分析を施さなかったといいます。 そういう人は性格が固まってしまい、可塑性がないからだそうです。 「バカは死ななきゃ直らない」とは思いますが、 どうにかして生きているうちに人を批難しない人になる方法がないか、 模索しております。
すみません、入れておけば良かったと思う参考URLがありました。 失礼しました^^;。
そうですね。「トートロジー」とは言い得て妙ですね。「未知の知見を知っている事」を相手に要求するような愚かさですね。唐突な打ち切りは、心の準備ができていませんでしたので、この一回だけはご容赦下さい。 違う意見を遠ざけると、いつかは【独善的】になりますよ、ご用心ください。【負けず嫌い】は良い面もありますが、完全主義な負けず嫌いは人間不信に陥ります。チキンゲーム(Wiki参照)の利得表から、どうすれば良いかをトコトン考えて完璧な答えを出してみてください。 質問者様は、自分にも他者にも公平な要求をされている方なんだと思っています。ただ、【自由意志】偏重の考え方は、自分にも他者にも「矛盾した要求」をしがちです。脳科学者の池谷裕二氏は『脳はなにかと言い訳する』という本の中で、…その<選択>は「ゆらぎ」がきめている…、…「自由意志」はないけれど、「自由否定」はできる!… と述べています。私たちに自由意志は有るのか無いのか?、本能に従って生きることができない人間にとって、どう生きることが幸せなのか?という疑問を僕は持たざるを得ません。「正しく考えるより賢く考えよ!」という言葉が僕の頭をよぎります。 「偏見を持たないで私を見てください!」というのが、質問者様に常に有る願いだと拝察します。あなたの心の平安を乱すだけの結果となり、誠に残念です。名残惜しくはありますが、これでお別れです。P14142様が心穏やかに暮らせますように、陰ながらお祈りしております。さようなら、お元気で。。。
お礼
ありがとうございました。
はい、わかりました。 僕は専門家ではありませんので、あなたの口から心当たりを言ってもらうしかないので、あういう書き方をしたのです。お気に触りましたらご容赦下さい。 やはり、♯16に載せた最後のURLが僕の言いたいことに近いようです。性格の変え方、視野の広げ方にも正攻法はあると思います。 http://www.f5.dion.ne.jp/~with/seikaku.htm 性格の変え方 http://www4.plala.or.jp/k-k/komoku199.html 性格は変えられるか http://members.at.infoseek.co.jp/kkozu/Pamphlet/pamphlet_ch4.htm K・リゾレシチン http://www.mental-health.org/mh13-3-10.html 森田療法 いわゆる「思考の矛盾」ですよ。人を非難したくなければ、実際に人を非難しなければいいのです。共感したいなら、人の立場に立って考えてみるだけの事です。♯16のURLをよく吟味してみてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 申し訳ありませんが、貴兄のように、 既知の概念に人の心の状態をあてはめて判断するというやり方は、 ビジネスセミナーならともかく、今の私の心には届きません。 そういう一般概念への押し込めは、リアクタンスを生むだけです。 まさか森田療法まで持ち出されるとは思いませんでした。 (森田正馬さんの末期の態度はとても好きですが) 「人を非難したくなければ、実際に人を非難しなければいいのです」 これは正解のように見えますが、私にとっては、 単なるトートロジーというか、オウム返しの類です。 「世界を平和にしたければ、実際に世界を平和にすればいいのです」と同じです。 私のQは、「後半の部分を実現するためにはどうすればいいのでしょう」なのに、 そのQに対する答えはありません。 ゴールデンウィークなのにこれまでお時間を割いていただいて恐縮ですが、 一番避けたい「論争」になりそうなので、もうご回答は結構です。 これまで長時間ありがとうございました。
さっそく補足していただき、ありがとうございます^^。 なるほど、人を非難すると、自分に災厄が跳ね返るので人に“共感”できるようになりたい…という消極的な動機からだったんですね。僕はまた、人に“共感”できると楽しそうだから…という積極的な動機からだと思っていましたよ。 でも、自分の心(=感情)を閉ざした人が共感できるでしょうか。いえ、閉ざすというより、感情を使わないようにしている、という感じがするのです。本来は心(=感情)で処理すべき問題を頭(=思考)で処理されているように感じるのです。なにか、感情を使うと痛い目に会う、という体験でもなさったのでしょうか。 これは、妄想に近い想像ですが、質問者様は親から巧妙に、「感謝」や「反省という自責」を強いられたのではありませんか。まあ、原因を突き止めれば解決する訳でもありませんけどね。 あなたは、抑圧しているから嫌悪されているのではなく、感情(例えば、同意(≒共感)・感謝・反省という自責)を強制されることを煩わしく思われているのではありませんか? よく、「感情も、使わなければ錆びる」てな事を言います。そんな感じでしょうか?そうなら、いつ頃から錆びてきたのでしょうか?それとも生まれつきですか?何か原因に心当たりはありますか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 「人を非難すると、自分に災厄が跳ね返るので人に“共感”できるようになりたい…という消極的な動機からだったんですね。」と感じられるのは、 私の言葉が舌足らずであったためのお考え違いかと思います。 私が簡単に整理したとおり、3で消極的理由をあげておりますが、 これは2が満たされない場合の仮定的主張に過ぎません。 人に責められないために共感するのではなく、 もちろん、人と意識や感情を共有してコンフォタブルになりたいのが 2の目的です。 ただ、現実はそうもばかりいってられないから、 次善の策として3-1、3-2を挙げたに過ぎません。 それと、残念ながら、アダルトチルドレン(AC)みたいなことは 私にはありません。 自分がACを生まないようにはしたいと思いますが。 私はガチガチの感情なし人間でもなく、 学習された無力感に悩むのでもなく、 普通の社会生活を送っております。 感情がさび付いているのではなくて、 感情満点で付き合える人と、そうじゃない人の落差が激しくて、 またそうじゃない人への対処の仕方がわからなくて悩んでおります。 あと、追Qはできたらご遠慮願います。 お礼の中でさんざいろんなことを書き散らしておりますので、 そこからご判断願います。
お礼
お礼遅れてごめんなさい。ご回答ありがとうございます。 批難はするけど、相手がマジな批判と受け止めないように注意を払う。最低限、全否定、不敬はしない。 うーん、すばらしいんですが、私はそれをすると逆効果です。 めちゃくちゃストレスがたまり、 逆に爆発してしまって、言わないでいいことまで言ってしまって、 後で後悔することしきりです。 頭のどこかにある、怒りの回路を、ぷちっと切ってしまいたい気分です。