中国と周りの国々の関係は現代のような対等な国家の関係でなく、册封と称し、中国皇帝が近隣の王をその国の王に任じるという形を摂っていました。これは中国の中華思想に基づくもので、武力ではなく、大量の金品を与えてそのような形を摂るように装っていただけのことなのです。朝鮮もまさにそのような形でした。周りの国は国使を派遣する度に大変な利得があるので争って朝貢使を出したのです。中国は堪り兼ねてあまり使いを寄越さないでくれと頼んだりしたこともあります。ただ一つの例外は日本で、聖徳太子は対等な関係を結ぶための国書を持参させ、煬帝の怒りを買いましたが、それが効いて、義満のような例外はありますが、基本的には対等な関係を維持していたと言っていいと思います。
このような東アジアの状況を見て周りが植民地であったとするのは認識違いで、殆どすべての民族は王を戴いた国の形態を維持していました。
チベットも同じで、玄宗皇帝が安碌山の乱で成都へ逃げたとき、チベット王が大軍を派遣してこれを助け、長安帰還を実現させました。その功に報い、今の四川省の一部をチベット王に割譲し、清朝の末期までそれは維持されました。
その周辺国の一つであった満州族の王が中国を占領して国を建てたことが事を複雑にしたのです。清朝の末期に列強が清朝の領土を侵すようになると、周辺の民族と清朝は良好な関係になったので、お互いに協力して侵略に立向かおうと、モンゴルやチベットは清国に併合することに合意したのです。それを中華民国が継承したために、中国は空前絶後の領土を持つに至ったのです。でもそれは断じて古来の領土ではありません。中国が真の独立を回復した以上、周辺の諸国はそれぞれ独立を回復するのが当然のことだとするのが常識的な考え方だと言えます。
お礼
歴史的なご説明わかりやすかったです。 ありがとうございました。