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塀の五本線
京都へ行くとお寺の塀に五本の筋(線)が入っているのをよく見ます。その意味を教えて下さい。 私の知るところは タクシーの運転手さんと西本願寺の職員の方が「格をあらわしている」と言っておられました。確か に門跡寺院や御所のように格を誇りたいであろうところによく見られます。 その名称を「定規筋」とか言うらしい。 四本、三本の筋の塀も存在する。 格をあらわすのであれば「平等」を説く仏教寺院では如何なる意味においても「変」であり極めて差別的であると思いますが如何なものでしょうか。御意見をお聞かせ下さい。(本来の意味・目的はどうであれ「格」という概念を持たされた場合も含みます。)
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- noribou11
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再度の登場です。 多少、反論を含みますが御容赦くださいね。 >結論として#1の方と同様でどうでもいいということですね これは違いますよ。No.1の方は神道的な感覚で寺院仏閣を捉えており 塀の外側と内側で世界が違うことを説明されていると思います。 まあ、臨済宗でも「天皇といえども山門より内では平等である」と 天皇に説教した坊さんが室町時代にいたので、間違いではありませんけど。 つまり、No.1の方は外界である以上、寺院といえども御所と同じように 区別があってしかるべきとおっしゃっているのではないでしょうか。 一方で、私は「所詮、人間の価値観は仏に通じるものではないから、 格式を差別と感じる必要性はどこにもない、むしろ、そんなことで 寺院の価値が高まると考えている輩を滑稽だと思おう」という意見です。 >仏の前のみ平等、あとは人の勝手 これも違います。私が言っているのは「仏の前では皆同じ」です。 この違いは大きなものだと思います。nousagiさんの意見は前提論であって 平等は仏の前でしか通じないというものですが、私の意見は結果論であって 人間が勝手に付けた格式は仏の前では通じない、つまり、どんなに権威付けを しても、意味がないということです。 >信仰と生活は断絶的で相互に影響はなしということでしょうか 断続的ではなく、一方の価値観に振り回されないということです。 仏の前のみ平等で、信仰と生活は断続的だということは、多少、世俗的に 金額で例えると金持ちの10万円と貧困家の10万円は双方とも10万円でしか ないということです。しかし、私が言っているのは、金持ちの100万円も 貧困家の1万円もそこに信心があれば格差などないということです。 したがって、金持ちの生活環境の中で松茸が一番美味しいと感じてお供えしても 貧困家が椎茸が一番美味しいと感じてお供えしても、仏の前ではきのこでしか なく、一番美味しいと感じたものをお供えしてくれた心意気が大切であって、 松茸の方が高いから御利益があるということはないと言っているだけです。 >世俗の価値観へ否定媒介として仏とか仏教が関るのではないかと思うわけです 仏教が世俗の価値観への否定媒体とは思えません。例えば私の大学の師匠が 戦後すぐにアメリカに留学したとき、食後のデザートにバナナが出され 師匠が喜んでいたら、毎晩、出されたそうです。師匠はそれが楽しみだった らしいのですが、同じ家にホームステイしていた英語の先生は違ったそうです。 その先生が帰国するとに師匠に言いました「実は、戦時中はニューギニア戦線に いて、バナナで飢えをしのいでいたから、本当は毎日、つらかった」と。 でも、その先生はホストファミリーがよかれと思って出してくるから 嫌だと言えなかったそうです。筋塀も根っこは同じです。皇族を擁する寺院が 「高貴な人が仕える分、御利益があるほずだ」と権威を誇っても、それは そういう価値観を持った人がよかれと思ってやっていることであり、否定される ものではありません。もちろん、奨励されるものでもありません。 救済という言葉が登場しましたので浄土真宗的な意見を述べます。 (ちなみに私は悟りをひらくと表現したように禅宗徒ですけどね) 親鸞聖人の教えに「悪人正機」というものがあります。近年は罪を犯したものでも 悔いる気持ちがあれば救済されるといったように解釈している人もいますが、 本来、悪人とはこういった刑法的な悪人ではなく、根源的な悪人、 すなわち、私たちの悪業の深さは、無限の過去より今にいたるまで絶え間なく 続いていることの表れであって、決して懺悔して、し尽くせるような 次元ではないのだというものです。 人間社会において身分差別は内在的な 欲求であり、個人の存続よりも集団の維持に重きをなす生物的本能として 根絶できない悪業なのです。したがって皇族ならば功徳も高いだろうと 考えてしまう世俗的な価値観も自覚のない悪業なのです。そういう 善悪を超えて、生きることの辛さ悲しさに共感し、叫びやうめきを 抱きとめて下さる如来の大きな願いに気付かせてもらうということが 悪人正機なのです。 浄土真宗は差別的な扱いを受けることが多かったのですが、親鸞聖人は そうした弾圧に単に反発するのではなく、痛みを分かち合い、内省し、 そして根源的な悪人としての姿に正機を見出すという、次元にまでその 境涯を深められたのです。 「皇族がいるなどと権威付けやがって」と 筋塀の格式に反発することが仏教的価値観ではないのです。 ただ、筋塀による寺院の権威付けも一種の方便と考えることもできます。 今も昔も、日本人はブランド好き。「皇室御用達」という看板は その時代の民衆には大きな影響があったでしょう。その中には 皇室が信仰している宗派ならばと、それをきっかけで仏の道を選ぶ人も でてくるでしょう。不純な動機であっても、結果的に仏の真理に触れることが できたならば、それもまた方便です。権力者の格付けを無邪気に信じて しまうのも人間の悲しさです。今の日本でも部落差別を訴える人が 熱心に活動しているにも関わらず、多くの日本人が自覚しえないのは こうした悪業なのです。だからといって意味ない訴えをやめろという わけではありません。そういう悪業を理解したうえで行動しなければ ならないということです。
- noribou11
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筋塀の説明は格式のことなので省略します。 疑問に思われている「平等」という概念なんですが 釈迦は確かに身分制度自体に疑問を感じていましたが、 結局のところ仏教でいう平等とは仏の前では皆同じ、 つまり、身分に関係なく悟りをひらくことができるという概念です。 したがって、門跡寺院が皇族としての格を示めそうが、 権力者が絢爛豪華な寺院仏閣を建立しようが、それは人間側の都合であって 格上だから特別に功徳を得られるいう意味ではありません。逆に言えば、 何も質素倹約でなければならないというわけでもないので、 余裕がある人はどれだけ銭を投じようが、寺院にランク付けをしようが それは自由なんですね。例えば松茸と椎茸があるとします。 どちらを選ぼうが勝手であり、松茸を選んだかたといって「贅沢は不浄」と 思う必要もありませんし、椎茸を選んだところで「倹約は美徳」と 思う必要もありません。結局、松茸が高いというのは市場原理の問題でしかなく、 仏教の観念から考えたらどちらもきのこでしかないということです。 まとめると筋塀というのは人間側の都合であって、それに差別を 感じるのも人間側の判断でしかなく、寺院仏閣に格式をつけようが 人間の勝手であって、仏はそれを悪いとも良いとも感じないということですね。
お礼
ご意見どうもありがとうございます。 結論として#1の方と同様でどうでもいいということですね。 仏の前のみ平等、あとは人の勝手。即ち信仰と生活は断絶的で相互に影響はなしということでしょうか。 このような二元的な捉え方は信仰心のある者としては妥当かという問いが以前からなされており、昨今、差別問題と絡んで重要な事柄となっているようです。少なくとも全くの二元的な捉え方は信仰(がある)ということを条件とするなら批判される立場であるようです。信仰とは実際の生活にも何かの影響を与えるという考えが妥当とされているようです。仏教的価値観とか言うのがそれでしょう。 また世俗の価値観へ否定媒介として仏とか仏教が関るのではないかと思うわけです。 門跡寺院といえども寺院は信仰を条件としていることは明らかです。 ただ仏の心を軽々におしはかるはできませんが、言われる通り仏には関係なく、救済もして下さるものと思います。
それは「筋塀(すじべい)」というもので五本の筋が最高格式を表すらしい >「平等」を説く仏教寺院では如何なる意味においても「変」であり極めて差別的であると思いますが如何なものでしょうか。 「塀」は言わば聖域を囲む結界のようなもんやから「変」や無いんとちゃうか 「塀」の役目は「区別」やさかいな 「区別」と「差別」は違うで
お礼
筋塀というのですか。やはり(最高)格式ですか。 また御意見もどうもありがとうございました。 ただ少し意味が解りませんが。
お礼
重ねての丁重なる御意見まことにありごうございます。 う~ん、以前テレビで見たことですが、某家元が「茶道は禅(宗)の影響を強く受けている」「茶室に入れば大名も町人もない・・・・・・いくさをしてきてもここに入ればまた別の世界・・・」とか何とかと。思想的に茶道が禅の影響を受けているとするならば禅(宗)の考えは生活・行動と信仰は全くの別ものとこの家元は理解していると理解して禅とはそのようなものかと思っていました。合っているかどうかは分りませんが。信仰と生活を二元的に独立して捉えるのかなと思いました。 本来、仏と人間はかけ離れた存在でしょう。仏がよく真実、真理を知る存在であり、人間の行為の善悪などは仏のみが本来断じ得るものでしょう。また人間の独善的な都合を仏は既に見抜いているわけであり仏にはその程度のことは取るに足らない事柄であるのでしょう。釈迦如来の掌の中で暴れる孫悟空がいい例かも知れません。 仏は娑婆世界の人間の独善に満ちた虚なるものを見抜く、それが即ち信仰ある人は人間の、己の本性を見抜くことに通じるというところで否定媒介といべき機能が働くのではと思うわけです。禅宗では脚下照顧と言うのでしょうか? 仏と人間はかけ離れた存在とは言うものの信仰というところで不可分の関係になるのではないでしょうか。「信仰と実生活は別」「仏は仏、私は私」と信ずる私を離れ傍観者になるなら果たして信仰は成立するのかなと思うわけです。 人間の善悪・差別の価値判断などは相対的なものであることは分っているつもりです。ですから五本線もその例外ではありません。ただこの時代に上下の意味合いのあるものを用いるのは如何なものかと人間に聞いてみたいわけです。本当は繧繝縁の畳に座る主の意見が聞きたいし、その宗派のお寺の方の意見が聞きたいな~。 最後にデザインとして見れば悪くはないと思っています。なんだか意味不明なことを言いまくってますね。 ありがとうございました。