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求道者です。諸々の悩み(中途半端な長文)
現在、教会に通っています。 聖書を読むのは好きだし、学ぶことも多く、その点は満足しています。 受洗はしていません。 大きく見れば福音派やその系統に属する教会にいますが ネット上での福音主義に関しての批判的な意見を多く目にし、 その点で悩んでいます。 福音主義(厳密な福音主義ではなく福音派とその系統も含むと解釈して下さい) は原理主義的側面が強く、カルトとまで言われる方もおります。 教会で使用している新改訳も一般の書店では取り扱っていませんし、 (一応、新共同訳や口語訳も教会内には置いてあります) 周囲(この場合はネット上)の意見を聞いていると もしかしたら自分が間違った方向に進んでいるのではないと不安になることがあります。 一方で信仰を単純に道徳やボランティアと同義に扱うのなら それは真の信仰とは言えないとも思います。 自分が真の信仰を得るために正しい道を進んでいるのか、 あるいは狂信(カルト)への道を進んでいるのかそこが不安です。 また、今まで培ってきた科学的、論理的思考も捨てきれません。 科学は個々の事象から普遍的規則を見いだしますが 信仰は結論が先にあり、それを信じるか否かで解釈が180度変わります。 カトリックや他の伝統的プロテスタントへ移るか あるいはこのまま今の教会に残って学びを続けるかそこが今の一番の悩みであり、 キリスト教そのものを今は捨てるつもりはありません。 今、私は何をどのように考えればよいのでしょうか.... (質問にならない質問で申し訳ありません)
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質問者が選んだベストアンサー
ある信仰が「真の信仰」であるか「カルト」であるか、 人間社会にはそれを決めるはっきりとした規準はありません。 「あそこはカルトだ」と言う人が多くなれば、「カルト」ということで世間の意見がまとまってくるだけです。 「宗教なんてみんなカルトだ」と思っている人もたくさんいます。 今お通いの教会がカルトであるかどうかは、質問者さんご自身が決めればいいことです。 神様が手伝ってくださいますよ。多分。 お気持ちが揺れているのなら、他の教会に通ってみてもいいと思いますよ。 というか、既にそこまで揺れているのですから何らかの結論にたどり着くためにも他の教会にも通うか、またはしばらく今の教会から離れてみるかしかないでしょうね。 質問者さんは、ひたすら祈って結論を出すようなタイプではなさそうですし。 ただ、ネットでどんな記述をご覧になったのかわかりませんが、ネットは要注意です。 これは教会関係のことに限らず、何かに対して弱気になっている時、それに関する匿名の書き込みなど見ない方がいいです。 冷静な判断ができなくなるばかりでなく、今まで大好きだったものに嫌悪感を抱くようになったり、信じていたことが信じられなくなったり、気にもしていなかったことが心配でたまらなくなったり、ろくなことはありません。精神衛生上よくありません。 それと、科学と宗教は決して相容れないものではありませんよ。 質問者さんはかなりお若い方とお見受けしましたが、年取ると科学と宗教の矛盾なんて、どうでもよくなります。 というか、どうでもいいことなんだとわかります。 私も昔「まず信じなさい」と言われてものすごく抵抗感を覚えたものですが、何十年かたった今、科学雑誌も聖書も楽しく読めるようになっています。 うまく説明できませんが、質問者さんも色々考えたり悩んだりなさっているうちに、科学も宗教も信じられるようになると思います。 これも多分、神様が手伝ってくださると思います。 では。
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- zenzen_w
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失われた楽園の再来 地球は一つ 地球が一つに 調和に生きる 和顔愛語の世界 になりますように
- zenzen_w
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生命の木が欠落するのは 支配のために利用された宗教だから 生命の木の意味に支配はない 多様性において共存しようとする調和があるのみ
- zenzen_w
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そして大地に根ざせ
- zenzen_w
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大切に思うべきは両親と先祖 自らのルーツに遡れ 鮭のように
- zenzen_w
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今のキリスト教自体が 原罪の意味 生命の木の調和の意味が解ってないのだから そのために知恵の木があることも それが解れば宗教の存在意義自体 意味が無くなるんだよ
- henokuappa
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君が人に伝えるのは 生命の木の意味を理解し 実践することを覚えてから それ以前に人に教えようとするのは 百害あって一利なし
わたしたちは キリスト教を信じるのではありません。キリストの神を信じるのです。 教義を信じるのではありません。その倫理規範を信じるのではありません。それらは 経験合理性にもとづいて 考えることです。 組織の規則や規律は 単なる人間関係じょうの力学の問題です。へのかっぱと思っていればよいでしょう。 でも キリストの神を信じると言っても あたまで考えたその想像物としての神をではないですよ。考えるの対象は すべて 信じないという態度をつらぬいてください。考えるの対象は すべて 考えるによって 判断していってください。
お礼
考えるー信じる この兼ね合いがまだ不勉強ゆえに中々理解出来ません。 もっと勉強して早く理解出来るようにします。 貴重なご意見ありがとうございました。
- kokkochann
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その昔、私も、世間からはカルトに近いといわれていた教会に入信していたものです。 教義について触れる気は有りませんが 私は、このような協会に生じる問題のほとんどは、協会組織の問題であると思います。 貴方はまだ洗礼を受けてないのですね 問題は、その教会に、入信してから、起きてくると思います 組織として、上下関係が教会の中に存在します。 私が入信した教会では、職に上下の職があり、男性は特に上の方の職につくと、高慢高圧的になる人が多かったです。また、結局こういうことが、いわゆるマインドコントロールということになると思うのですが、上級の職にある人間が、信者を思い通りにしようと、謙遜従順という言葉、また教義を操ります。 人間は組織を持った段階で、その多くは最初の理想をはずれ、堕落していくものと感じています。 私は、組織に入信することはお勧めしません。もし、パウロのように幻を見ても、真実と知る方法がありません。やはり信仰は信じるか信じないかです。ですから、他者の影響を強く受けるのではなく、自分自身の瞑想と探求で見出すことがより安全と、径険上思います。 自分自身の心の正直な気持ちをいつも見つめられる環境に身をおき、生活と瞑想と祈りの中、個人的に真理を探究することが、一番よいことと感じます。その上で、キリストの愛を実践されるのが、よいのではないでしょうか。 このような考えは、もちろん。組織に入信している方には、受け入れられない考えであるのは承知してますが・・・
お礼
貴重な経験によるご意見、ありがとうございます。 私も個人礼拝と聖書を読むだけでは何故いけないのか、 そういう疑問を持ち続けています。 まだ勉強中なので日曜日の聖日礼拝の意義までは理解出来ていませんが、 今後、聖日礼拝が自分に必要かどうか ゆっくりと見極めていきたいと思います。ありがとうございました。
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お礼
他の方のご意見にもありましたが やはり色々な教会を見聞するのが良さそうですね。 私も今はまだどうしても 「信じなくては....」という義務感が先攻しているのかもしれません。 もう少し時間をかけてみます。 ご意見、ありがとうございました。