• 締切済み

人道的な過ち

 30代目前、教員を志す者です。 紆余曲折を経て、今に至っています。 ですが幼少の頃の思い出がひっかかり、 勉強が進まないときがあります。  実は、私は小学生のころ、ホームレスを 遊び感覚で集団的に虐めたことがあります。 家庭内での盗みをしたこともあります。  また現在も家族にウソをつき、それが 原因で幾度となく、家族を泣かせてきました。    私はふとそれを悔やみ、自問自答します。 果たしてこんな自分が、教員に???  法律に触れそうなことをした人間が、 教員になる。今は更正したから、いいんだ、 誰でも更正する権利があり、教員にだって、 法律的にはなれるという理屈は分かります。  しかし、どうも心にひっかかります。 誰になんと言われようと教員になるつもり ですが、ふと思い出して、詰まったとき、 どんな方法で考えていけば、建設的な道に 進むでしょう?    教員だって人間、完璧はありえない。 それはわかるので、どなたかご自分の過ちを お聞かせ下さい。誰にでも人道的な過ち犯す ことはあるのでしょうか?    くだらない質問ですが、よろしくお願します。

みんなの回答

  • ten-kei
  • ベストアンサー率100% (2/2)
回答No.9

根本的に、幸せな人間は、罪を犯しません。 あなたの話を聞いていると、あなたは家族、あるいは学校や地域の中でとても大きなストレスを長期的に受け続けていた可能性があります。 思い出してみてください。 それから、罪は、許される……と私は思っています。 こんなことを言うと狂人だと思われるかもしれませんよね。 しかし、根拠はあります。 あなたを許さないのは、他の誰でもない、あなた自身だからです。 原罪意識が強いみたいですね。 人間、完璧はありえない……その通りです。 誰もが罪を抱えています。 なにも傷つけない人間は一人もいません。 だから、本当は誰も許されていません。 ということは、本当は誰も誰にも責められていないことになります。 結局、誰もが許されているのと代わらないことになります。 (常識では理解しがたい理論かとは思いますが) あなたを責めているのは、あなたです。 自分を認めて楽になってください。 あなたが自分を受け入れられるようになりたいのなら、少年犯罪やその心理について書かれている書籍があなたに力を貸してくれると思います。 しかし、それは、その本の内容と自分の罪を比較して、楽になれる……といったような理由では断じてありません。 あなたがその当時、罪を犯した理由となった気持ち(かなり漠然としたものでしょうが)のメカニズムが、それらの本によってあらわになることで、過去の自分の心理を正しく理解し、罪と思っていた過去を力にすることができるでしょう。 あなたの過去は現代の子どもたちを教育するために、とても適した素晴らしい財産になる可能性を秘めていると私は思います。 人を導くには、まずあなたが前を向かなければ^^ (的外れな意見だったらごめんなさい)

  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.8

過去の過ちは許されることでは無いでしょう。 しかし人間はまるっきり過ちを犯すことなくすごす方が少ないです。 過ちを犯したことの無いものは過ちを犯したものの心情がわからずに理屈で話します。 過ちを犯して悔いている人は過ちを犯したものの心情がわかるのでどう接したら良いかわかります。 よく、学生時代に手のつけられない悪がきが、大人になると生徒の気持ちのわかる良い先生になることがあります。 まさになぜ生徒がそういうことをしようと思うのかわかり、生徒の目線で話し、その後の後悔も実体験として語れるからです。 机上論の理想論でなく実体験でかたるから生徒の心にも響くのです。 >また現在も家族にウソをつき、それが原因で幾度となく、家族を泣かせてきました。 正直ここのところは引っかかります。 しかし、ここでこういう質問をしていることは、自分自身でそのことを悔いているのだと思います。 そういう気持ちを大事にして、生徒が悪いことをしたときに、やった悪いことを悔いれるように指導できるのはhappy-taroさんのように過去の自分の悪いことを悔いている人です。 そういう意味では問題なく十分な教育者になる資格を有していると思いますよ。

noname#74152
noname#74152
回答No.7

高校時代の恩師に言われたことがあります。 「先生とは、先に生きる人生の道しるべとなる人間。が理想。 しかし、生活に追われて、先ず生きる(まずいきる)ことが第一の人間になってしまう。」 半分駄洒落のような言葉ですが、自分が社会に出てから痛烈に共感できました。 やはり、生活があり家族があり、お金も沢山ほしい、様々な誘惑もあります。先生もそうだったのだろうと思えてきました。 酒好き、博打好き、女好きな先生も結構います。 一つの職業と考えればこれが現実じゃないかと思いますよ。 ざっくばらんで脱線話の多い恩師でしたが、人間的な魅力がある方でした。 ご質問者、いいほうに考えてみたらいかかがですか? 経験したものでなければ分からない痛みがあります。 過ぎてしまった事は仕方ないことです。 ご自分の経験として、己を律し、頑張ってください。

  • ten777
  • ベストアンサー率13% (23/167)
回答No.6

罪は大小関わらずみなさんあると思います。人を傷つけた場合は一生背負う事だと思います。 ただ今の苦しみを教師になった時に生徒達に話してあげて下さい。そういう経験をされた質問者様だからこそ教師になってもいいのではないでしょうか?と思います。

  • dordotto
  • ベストアンサー率30% (50/162)
回答No.5

大事なのは「誰が言っている」ではなく「何を言っている」なのだと思いますよ。 貴方は自分の経験・体験から教え子に道徳を語るのではなく「こういう言い方をすれば社会的な大人になってくれるだろう」ということを教え子に語ればいいんですよ。極端な話、それが本心じゃなくてもいいんです。 例え、夜の街で女遊びをして酔っ払って家族を泣かせるような人間でも、ちゃんと勉強を教えれる&教え子を社会的な生活が営める人間に仕立て上げれる能力があればいいんです。これは貴方が理想とは違うかもしれませんが、私はそれを「立派な教師」と呼んでいいと思いますよ。 あと牧師的なことを言わせてもらうと 罪は許されるものでも、忘れるものでもありません。過去や罪を認めて、それを背負ってでも生きていくのが人間ってもんですよ。 …生意気なこと言ってすいません。

回答No.4

逆の書き込みを見たことがあります。その方はいじめられていて、いじめっ子が教師になったことがどうしても許せないと言っていました。 多分、被害にあった方ににとっては、一生許せないことかもしれません。 でも、あなたがしたことは消すことはできない。 それなら過去を振り返るより、これからやり直せばいいと思います。 過去に数人の敵がいても、今から数百人の味方をつくれば、その人達があなたを援護してくれると思います。 自分の過ちを生かしていい教師になってください。

  • tera_tora
  • ベストアンサー率50% (145/285)
回答No.3

若気の至りの行為でお悩みということですね。 よくあります。誰しも、心にそのような若気の至りがもたらす軽いトラウマ的なものを抱えているのです。 けれども過去のことは変えられません。事実として受け止めるしかないのです。それに対して、自分が後々どう思い、どうあるべきだったかに気付くことが最も重要なことです。それは、別に誰にもいう必要もなく、あなたの哲学として、心の隅にでも置いていてください。あなたはもう気付いているのでそれでよいのではないでしょうか。それを何かあったときに哲学として感情的にはならず広い心で思い返してください。 別に過去に対して謝罪しなければならない、このような過去の自分に対して強い心を持たなければならないと言うことではないのです。そういう自分が過去にいたことに気付いているだけであなたは十分なのです。 気付かないことが最も問題なのです。

回答No.2

私はホームレス襲撃事件等のニュースに触れると胸が悪くなります。 自分より弱い対象を見つけて攻撃をする捻じ曲がった精神を感じるからです。 とはいえ、私も自分の弱さから人を傷つけたこと、きっと何度もあります。 ただ、たとえ私の過ちが許されないものだとしても、今の私は過去の私とは違うと断言できます。 happy-taroさんも小学生の頃のあなたではありません。 過去のあなたは今のあなたではありません。 良くも悪くも、人も物も全てが時間と共に変化しているのです。 どうか現在と未来のあなたを大切にしてください。 私は過去のご自分の行為を「人道的な過ち」と認めているhappy-taroさんは良い教師になれるのではないかと思いますよ。 それから、私は反省と罪悪感は別物だと考えています。 罪悪感はただ責め、閉ざし、後ろへと引き戻します。 反省とは、過ちを認め決して繰り返さないと自分に誓うことです。 あなたの過去の過ちの経験は誰かがこれから犯すであろう過ちを未然に防ぐかもしれません。 全てはあなた次第です。 がんばってください!

  • E-gis_hc
  • ベストアンサー率29% (42/141)
回答No.1

これは私の勝手な推測かもしれませんが、質問者さんは、 「自分は昔ワルだった、だから子どもたちに同じ過ちを犯してほしくない」 という気持ちから教師を志されたことでしょう。 とすると、2つに一つだと思います。 前面に出して直接的に伝えていくか、 自分の経験はあまり語らずに伝えていくか。 「ヤンキー先生」のように、直接的に伝えていくことはとても勇気のいることです。 そうした経験を生徒に興味本位の目で見られたり、 「先生もやっていた」「人間は完璧じゃない」ということを言質にとって、 自分が伝えたいことを曲解する子どもいることでしょう。 また、保護者や同僚の偏見や差別の目に晒されることにもなるでしょうし、 あけすけさは下品に感じる人もいると思います。 また、そうした自分の過去の過ちを隠していくこともアリです。 というよりも、それが罪を犯した人間への罰かもしれません。 誰しも犯罪から遠いところに身をおきたいと感じるのは当然のことですし、 罪を犯した人を遠ざけることが差別だとしても、それは悪いことといえるでしょうか? やはり、多くの人たちが平穏に暮らしていくために、 過去は漏れないようにしなければいけない、という考え方もあります。 過去との向き合い方、教師としての子どもへの接し方にはいろいろあると思います。 ですが、自分が教師として何を伝えたいのか、ということが 教師をやっていく上で自分を見失わないために必要なことではないでしょうか。

関連するQ&A