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「素直さ」とは?
先に「怒りについて」という質問をして、皆さんからいろいろご意見をお聞きすることが出来ました。 今回も同じような質問です。 「素直さ」ということについて・・・ 前回同様非常に抽象的で、様々なシチュエーションが想定できます。 これまた前回同様幅広い視点でのお答えを期待します。 例えば、「忠実」「忠誠」或いは「従順」というのと「素直」とは異なるのか? ある考え方や行動に疑問を抱くというのは「素直でない」のか? 「自己主張」「個性」と「素直さ」は相反するものか? 「素直じゃない」というのは否定的な意味で使われますがそれはどういうことを意味するのか? ・・・等々・・・ 例によって頂いた回答に「素直じゃない」反応をするかとも思われますが、大目に見てやってください・・・ 皆さんの考えるところを自由にお聞かせ下さい。
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こんにちは。 #2です。回答をお読み頂きありがとうございます。 >例えば「理性的」「知的」判断により、「これはおかしい」と言う自己の感情に素直ということは、どうなのだろう・・・とか。 そうですね、 これは大変ややこしい話になりますが、まず、「これはおかしい」という論理的な判断は「大脳皮質の認知結果」であり、これは感情ではないです。では、感情とはこの認知結果に対して大脳辺縁系の方に発生する情動反応によって生み出されます。 「これはおかしい」というのは、そこには必ずや二つ以上の異なる結果が存在するということです。そして、このような「複数の結果」を比較し、分類するという作業は大脳皮質でなければできません。 では、どうしてそこに複数の結果が存在するのかといいますと、それは大脳皮質が「今現在の結果とは異なる別の結果」というものを予測するからです。そして、今現在と異なる別の結果とは、それは「過去の結果」であり「未来の結果」であります。 例えば、「部屋が散らかっている」という今現在の状況に対して大脳辺縁系が下す判定は「不利益」です。感情といいますのは、この判定を基に生み出されなければなりません。 これに対しまして、大脳皮質は「部屋がきれいな状態」という別の結果と比較を行い「これはおかしい」と判断します。ですから、「これはおかしい」というのは情動反応ではなく、それは大脳皮質の認知結果であります。そして、我々が素直に従うべきは大脳皮質の認知結果ではなく、大脳辺縁系において不利益と判定された「心の選択」の方ということになります。 本能行動や情動行動では今現在の入力が直ちに処理されてしまいますので、未来の結果を予測するということはできません。ですから、そこには複数の結果が存在することはありませんので、「これはおかしい」という判定が下されることはないわけです。ならば、そこに矛盾が発生するのは大脳皮質が今現在には存在しない未来の結果を予測してしまうからです。 このように、今現在の状況だけではなく、過去の体験を基に未来の結果を予測するという「大脳皮質の計画行動」が即ち我々人間の最も得意とする「理性行動」であります。そして、これが果たして、大脳皮質というものを発達させてしまった人類の「苦悩の正体」に他なりません。これは、我々人間の学習行動の比率が他の動物に比べて異常に高いという事実と一致します。ですから、ここで当初のご質問に立ち返りますと、「はっきり言って人類は素直ではない」というのが私の考えです。 では、くどいようですが、ここで我々の「心の選択」と「人類の苦悩」の関係に就いてもう少し考えてみたいと思います。 「部屋を掃除しなければならない」 この大脳皮質の認知結果に一切の論理的な矛盾はありません。では、この認知結果に対して大脳辺縁系が下す判定は以下のふたつです。 「それは良いアイディアだ!:利益」 「冗談じゃない、めんどい:不利益」 大脳皮質と大脳辺縁系の意見が一致するならば全く問題はありません。ですが、大脳辺縁系には今現在の状況に対してしか判定を下すことができないのですから、計らずもここにひとつの矛盾が発生してしまうのは、取りも直さずそれは、今そこに存在しない余計な結果を大脳皮質が予測するからです。かつて哲学では、これを「精神世界と肉体世界の葛藤」と定義していましたが、正に真理であります。 「部屋を掃除しなければならない――ああ、面倒くさい……」 大脳皮質を発達させてしまった哀れ人類は、この苦悩から永遠に解き放たれることはありません。 このように、「苦悩」とは理性によって発生するものです。ところが、皮肉なことにその問題を解決するのもまた理性行動であります。 ここでは大脳皮質の認知結果に対して情動反応が発生しました。 「面倒くさい」といいますのはあまり喜怒哀楽といった感情としては分類されませんが、それが大脳辺縁系の情動反応によって表出された結果に対する表象概念であるということは間違いありません。 さて、大脳皮質には論理的に矛盾のない結果を選択することはできますが、それが自分にとって利益であるか不利益であるかに判定を下すという機能はありません。我々動物にとって感情とは、環境からの入力に価値判断を下し、与えられた状況に応じた適切な行動を選択するためにあります。では、ここには感情というものがありませんので、大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられていないということになります。従いまして、ここで全ての最終決定は感情を司る大脳辺縁系に引き渡されなければなりません。 では、 「部屋を掃除しなければならない――ああ、面倒くさい……」 我々はこの難問をどのように解決したら良いのでしょうか。 大脳皮質には行動選択の決定権はありません。できるのは未来の結果を予測することです。ならば、大脳皮質は今そこには存在しない「未来報酬」を想定し、それを大脳辺縁系に判定させます。 「部屋がきれいになるじゃないか?」 「今やっておけば後が楽だぞ!」 大脳皮質はこのようにして大脳辺縁系を説得し、理性行動を実現します。 このように、理性行動とは本能行動や情動行動では判定することのできない未来の結果を予測し、より価値の高い行動を選択するためにあります。 ですが、大脳皮質が「これはおかしい」という判断を下し、それに対して理性行動を選択するにしましても、そのためには今現在の状況に対してどのような判定が下され、自分にはいったいどんな欲求が発生しているか、といったことが知覚され、認知されなければなりません。では、大脳皮質はどのようにして自分に発生した情動反応を表象概念と対応させ、論理的な判断を行っているのでしょうか。これを大脳皮質における「情動の原因帰結」というのですが、これに就きましては次の問題で引き続き説明を致します。 >わたしが躓いているのは、「泣く」「喜ぶ」「怒る」というような情動の表出が何かしら理性的な選択のように思われるからです。 >「泣くから泣く」のではなく「泣こう」という判断(理性的選択)に基づいて泣いたり怒ったりしているのではないかという考えが離れません。 これは間違いなく全てが心の選択であり、我々は決して大脳皮質の命令で泣いたり怒ったりしているわけではありません。では、質問者さんが仰るように、あたかも理性的な判断であるように思えてしまうのは、それは、「自分はなぜ泣いたのか」「いったい何に怒ったのか」、大脳皮質が「情動の原因帰結」を行なうためにその都度このような「理由付け」が成されているからです。 この「理由付け」が行なわれませんと、大脳皮質は自分に発生した情動反応の結果を喜怒哀楽などの表象概念として分類することができません。ですから、これが認知されませんと、大脳皮質は論理的な判断を行うことはできないわけです。 大脳皮質では常にこのような解釈が行なわれますので、我々はしばしばそれを自分の意志による意識行動と捉えてしまいます。ですが、実はほとんどの場合、それは「無意識行動」として選択された結果に対する「理由の後付け」なんです。 ですから、「原因帰結」が行なわれるということは、大脳辺縁系ではその原因となる情動反応は既に発生してしまっているわけです。そして、脳内でこの逆は絶対にあり得ません。何故ならば、情動反応といいますのは発生するまでは知覚することができないからです。従いまして、我々の脳内では情動反応は大脳皮質の認知よりも必ず先になります。これが、我々が自分の意志によって情動をコントロールすることのできない理由です。 このように、大脳皮質で原因帰結が行なわれたときには、我々は既に怒っています。ですから、それはただ状況の判断が行われたということでありまして、我々は大脳皮質の命令で怒っているわけではありません。では、我々の「泣く」「笑う」「怒る」といった情動行動といいますのは、その全てが大脳辺縁系の情動反応に従って発生する「情動性身体反応」の組み合わせによって作られるものです。そして、このような身体反応は「自律神経」「ホルモン伝達」「神経伝達物質」などといった生体機能によるものですから、これを大脳皮質でコントロールするということは基本的にできないわけです。 >そもそも感情(情動)そのものと「情動の表出」とは区別し得るのか? はい、「感情とは」、大脳辺縁系の情動反応によって選択された「情動性身体反応の表出パターン」が喜怒哀楽などの表象概念として分類されたものです。 ここで、大脳皮質で行なわれる「情動の原因帰結」をきちんと整理します。 入力された知覚情報に不利益という判定が下されますと、大脳辺縁系には「不快情動」が発生します。そして、不快情動の場合、その結果はそれぞれの神経系を介し、我々の身体に以下のような「情動性身体反応」を発生させます。 中枢神経系 「神経伝達物質の投射による覚醒状態の亢進」 自律神経系(情動性自律反応) 「呼吸・心拍・発汗・振戦など生理状態の活性化」 運動神経系(無意識行動) 「回避行動、逃避行動、立ち竦み、表情筋の緊縮」 ホルモン伝達系 「内分泌ホルモンの分泌、カテコールアミンの分泌(末梢神経系を活性化させる伝達物質)」 大脳皮質はこのような身体反応の結果を知覚します。 そして、 「自分は今、心拍・呼吸が上がり足はがたがたと震えている」 「それは、自分が今、危険な状態と遭遇しているからだ」 このような状況判断が成され、過去の学習体験と比較することにより、大脳皮質はそれを「恐怖」と分類し、認知します。「恐怖」という表象概念は言語記憶と照合されます。 >また「喜怒哀楽」というエモーションも実は「怒るべき時」「悲しむべき時」という無意識による「判断」に基づいているのではないか・・・? そうですね、 怒るべきときであるかどうかは大脳皮質にも判断は可能です。 例えば、「お前はバカだ!」と言われれば、ほとんど誰の大脳辺縁系にもその判定基準は学習されていると思います。では、「頭が良いですね」と言われ、それを「皮肉」と解釈するためには大脳皮質が論理的な状況判断を行う以外にありません。これにより、自分はバカにされたという認知結果が生まれ、怒るべきときであることが示されます。 また、小説などは全てが言語情報でありますから、大脳皮質がそれを読み解かなければ何の判定も下すことができません。そして、大脳皮質が論理的に矛盾のない整然とした結果を纏め上げたそのとき、我々は主人公の運命に共感し、涙することができます。 ですが、実際に情動反応を発生させるのは大脳皮質ではありませんから、その判定は必ずや大脳辺縁系の方で行われなければなりません。ですから、いくら「怒れ!」と命令をしたとしましても、大脳辺縁系にその気がなければ怒ることはできません。 では、話はちょっと横道に逸れますが、大脳皮質は「未来報酬」を提供することによって大脳辺縁系に情動反応を発生させることができます。ならば、ある任意の人物による「仮想被害」をでっち上げて大脳辺縁系を怒らせることができるでしょうか??? 色々考えたのですが、これは「自分の心に嘘を吐くことはできない」という結論に達しました。 例えば、宝くじが当たればいいなと思えばそれは「未来利益」という判定を獲得することができます。ですが、そんな美味い話はないとなりますと大脳辺縁系は直ちにそっぽを向いてしまいます。ですから、それが真っ赤なデタラメで、大脳皮質自身が論理的な矛盾はないという判定を下していない限り、自分の心を動かすことはできないということになるようです(飽くまで持論)。 但し、大脳皮質がその「仮想被害」を信じている場合、これは「被害妄想」でありますから、果たしてそれが現実となってしまう恐れが十分にあります。ですから、相手の悪いところばかりを見ていますと、実際に不利益を被った事実がないにも拘らず、大脳辺縁系は知らぬ間にそのひとのことが嫌いという反応を学習してしまいます。これには気を付けたいものです。 >そこから「素直」ということは盲目的情動による反応であるのか? 大脳皮質が論理的な比較・分類(認知作業)を行なうためには「作業記憶(ワーキング・メモリー)」として連合野内に「複数の情報」が一次保持されなければなりません。この「作業記憶の一次保持」を行うために発生するのが「意識」であります。これに対しまして、本能行動や情動行動では複数の情報を比較する必要がありませんので意識というものは発生しません。従いまして、大脳皮質の司る理性行動が原因と結果の自覚された必ずや意識行動でなければならないのに対しまして、情動行動といいますのは本能行動と同様に「無意識行動」に分類されます。 ですが、本能行動といいますのは動物が生きてゆくために定められた「命の選択」であり、果たして「心の選択」とは生後環境での体験を基に我々が育て上げた大切な価値観であります。ならば、それは無意識であり盲目的ではありますが、必然的にはどちらも自分の利益というものにきちんと対応した正しい選択を行なうことが十分に可能であるわけです。 >自己の価値観に基づく情動操作(?)に忠実であるのか? ですから、それは頭で考えるのではなく、心の選択に従うこと、という話になるわけです。そして理性行動とは、本能行動や情動行動では予測することのできない「より価値の高い未来の結果」を選択するためにあります。 >一方で「喜怒哀楽」というのは、果たして本能的なものなのかという疑問です。何を悲しいと感じ、何に怒りを感じ、喜びを感じるのかは、生理的反応ではなく個々人の「文化的反応」とでも言ったものでないかと考えるのです。如何でしょうか? はい、その通りだと思います。 我々の感情分類は何故、全人類に共通であるのか、 果たしてどうして犬や猫にでも喜怒哀楽を適用することができるのか、 それは、我々動物が環境から与えられた状況に対処するためには、必ずやそのための身体反応を一通り発生させなければならないからです。従いまして、このような身体反応は全て遺伝情報によって定められたものです。 では、本能行動の反応規準といいますのは動物が生きてゆくために与えられた「命の選択」であります。ですが、それは生涯に渡って変更することはできませんので、これでは生後環境に発生する様々な変化に十分に対応することができません。学習行動とはこれを補助するためにあります。 大脳辺縁系の情動反応といいますのは、このような身体反応を発生させるための判定規準が生後環境での体験を基に後天的に獲得されたものです。では、本能行動が遺伝情報に従って作られているのに対しまして、情動行動とは行動選択に生後学習の結果が反映するものです。そして、本能行動の規準に従って選択されるのが「無条件反射」、情動反応によって発生するものが「情動性身体反応」であり、選択基準が異なるだけで、発生する身体反応は持ち回りということになります。 喜怒哀楽というそれぞれの判定に基づいて選択されなければならない身体反応のパターンといいますのは全ての哺乳類・鳥類にほぼ共通と考えて良いと思います。このため我々は、ワンちゃんの行動を見てそれが喜んでいるのか悲しんでいるのかを同胞として判断することができます。 ですが、自分にとって何が喜怒哀楽であるのかは、これは本能行動を除くならば生後環境や個人体験によって必ずや異なってしまいます。この生後体験の違いによって発生する個体差が即ち「個人的価値観」であり「文化的価値観」であります。そして、それは「個人の好み」や「社会の慣習」あるいは「時代の流行り」などとして様々に形作られてゆきます。 >例えば針で刺されると「痛い」ですよね。拳で殴られるとやはり「痛い」氷を掴むと「冷たい」火の中に手を入れると「熱い」或いは「美味い!」「美しい!」というもの。 >「感覚」に属するものは、全く頭脳で制御・左右されることの出来ない領域だと思うのです。表情に出さないことは可能でも、感じている感覚は紛れもない事実です。 最後になりますが、ご指摘の問題は「感覚認知」に当たります。 痛いと感じるということは、大脳皮質が自分の身体おける障害刺激の発生を認知したということです。ですから、ぐっすりと眠っていて認知が行なわれない場合は刺激の発生が事実であってもそれを痛いと感じることはできません。 感覚といいますのは大脳皮質の中に作られるものであり、これを「感覚認知」といいます。 感覚認知を行うのは環境からの入力に対して学習行動を適用するためです。例えば、聴覚を通して入力された話し言葉を言語として認知するのは言語学習の成果を運用するためであり、これが認知されなければ考えることも記憶に残すこともできないわけですから、それは何の役にも立たないわけです。 視覚や聴覚とは異なり、表在感覚や内臓感覚といいますのは身体の状態や危険を察知するものが多く、何処にどのような変化が起きたのかを手早く特定する必要があります。これに対しまして、感覚認知を行わない場合、あるいはそれを行わない下等動物は、ほとんどのものが「無条件反射」という形で自分の身を守るための生得的な機能を備えています。 痛覚などの表在感覚は大脳皮質「体性感覚野」で知覚処理が成された後、 ここから、 「認知作業を行う:大脳皮質・感覚連合野」と 「情動反応を発生させる:大脳辺縁系・扁桃体」に それぞれ送られます。 痛覚といいますのは障害刺激しか受容しませんので、ここからの入力があった時点でそれは身体の組織破壊に及ぶ重大事であると判定されます。大脳皮質では、この他に「何処からの入力であるのか」「どの程度の大きさなのか」といった情報を基に過去の学習結果と照合し、「身体の何処がどのように痛い」といった判定を下します。同時に、大脳辺縁系ではその知覚入力に対して「断じて不利益」という判定を下しますので、ここに原因帰結が行なわれるならば我々はそれを「痛いっ!!!」と感じることになります。 これにより大脳皮質は、 「手当てをする」 「病院に行く」 「もはや手遅れ」 といった論理的な判断に基づき、理性行動を選択します。 感覚入力に対する判定規準といいますのは遺伝的にはっきりと定められたものあれば生後学習によって脳内に獲得されるものものあります。 例えば、痛覚といいますのは刺激入力に対する閾値がたいへん高く設定されており、身体の組織破壊に及ぶ障害刺激に対してしか反応を発生させません。ですから、ここからの入力に対してはほぼ全ての動物で不利益という判定規準が生まれながらに定められています。 これに対しまして、「美味い」「美しい」といった反応規準は生後体験を基に獲得・変更が可能であり、その学習結果は、これは大脳辺縁系の情動反応として再現されます。 例えば、「赤という色彩感覚」は赤の波長に反応する錐体細胞からの入力であり、誰の大脳皮質でも赤と認知されます。ですが、そこに赤という感覚入力が存在するというのは事実なのですが、美しいと感じるかどうかはそのひとの好みしだいということになります。また、食べ物の好き嫌いというのも、これもやはり大脳辺縁系に学習される個人の価値観です。 このように、その判定規準は脳内に学習が可能であり、感覚といいますのは感覚認知によって大脳皮質の中に作られるものです。ですから、発生し、そこに存在しているのが事実であったとしましても、感覚神経系の入力先が中枢神経系なのですから、ここで処理が行われなければ末梢系に伝達されることはありませんし、認知が成されなければ「感覚はない」ということになります。そして、我々は通常、大脳皮質で認知されたものを感覚と呼んでいます。
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- iye
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回答でなくて、ほとんど感想になってしまいますが・・・ >「素直である」とか「素直じゃない」って、こうして眺めてみると、 非常に多面的、重層的で、素直さと素直じゃないというのもメビウスの輪のように視点によって異なるもの、絶対的ではなく、相対的なものだと言えるかもしれません。 ・・・同感です。 実は同一物の表と裏、意識と無意識、ホンネとタテマエみたいなものかもしれませんね。 互いにフィードバック機構が働いているというか、円環構造になってる。 要はバランス感覚。どちらに傾いてもやりにくい。でも、あたり前の中庸ばかりも退屈で面白くない。 >・・・このように対話によって掘り起こされてくるものってあるはずです。 当初の質問が発展し枝分かれし、変容しつつ理解に近づいていく。 ・・・「対話」の形式もまさにこの構造なのかもしれません。 開放系である円環構造みたいなものが、イメージされました。
お礼
そうそう。円環構造と言えるでしょうね。 先のご指摘のように「相手によっても」異なりますし。 「あいつは素直な奴だ」「彼は素直じゃない!」という風に決め付けることは出来ませんね。素直素直じゃないも関係性の産物なのだと・・・ >要はバランス感覚。どちらに傾いてもやりにくい。でも、あたり前の中庸ばかりも退屈で面白くない。 仰る通りですね。 >・・・「対話」の形式もまさにこの構造なのかもしれません。 開放系である円環構造みたいなものが、イメージされました。 そうですね。 当初の質問のみに固執することはないと思います。 それはものによっては1Questionと1Answerだけで完結することもあるでしょうけど、普通はどんどん話しは流れて広がっていくのが自然だと思います。 対話形式も正にこのスパイラル構造だと思います。 まあ前回は少々脱線し過ぎたかもしれませんが、 目指すところへは一直線ではなくこのように円環構造によって近づきうるものだと思います。 質問(=疑問)と解答との関係は必ずしも2点を結ぶ最短直線ではない。 折々の興味深いサジョスチョン、ありがとうございます。
- iye
- ベストアンサー率41% (23/55)
>お話を通して気付いたのはわたしは「素直さ」にまつわる価値判断、意味付けを求めているのでしょう・・・ ・・・と、すると、ひとつのキーワードとして、 「親密性」を考えてもいいかもしれないと思いました。 自己に対しても、外界に対しても。 親和性のあるものには、スーととけ込んで融和する。 「あっ、これね」と安全感があれば、抵抗してみたり、言葉をこねくり回す必要がなくなる。 反対に、戦いの構えが優勢になると、または、期待感がもてないと、行く先は孤立・孤独。 自己に対しても同じく、ある自己対象に抵抗感があると、自己のある一領域に逼塞して、深い井戸の中から高い空を見上げるような、情けないけれどどこか開き直った素直でない感じになる。 でも、そんな自分を大切にしながら、素直でない自己を自覚しつつ、素直に現実に向き合おうとするところも出てくる。・・・いつも理があるとは限らない現実に。 そういう姿は、「誠実」と呼べるものかもしれません。そうして、いつか世の中に少しは慣れていけるのかもしれない、という気がします。 論理性に欠けますが、「皆さんの考えるところを自由に」、ということで書き込んでみました。
お礼
>論理性に欠けますが、「皆さんの考えるところを自由に」、ということで書き込んでみました。 そうです。まあほんとうは規則違反なんでしょうけれど、 わたしはこういう対話形式でないと何か解答らしきものを掴むことが出来ないのです。 わたしはまだまだ自分に素直とは言えませんね。 「開き直る」ところまで行ってないし、 >そんな自分を大切にしながら、素直でない自己を自覚しつつ、素直に現実に向き合おうとするところも出てくる。 ここもまだですねえ・・・ >・・・いつも理があるとは限らない現実に。 無論現実=世間・社会・他者・・・が常に理不尽であるとは思っていませんが決して親和性を感じさせる世界でないことは確かです。 「素直である」とか「素直じゃない」って、こうして眺めてみると、 非常に多面的、重層的で、素直さと素直じゃないというのもメビウスの輪のように視点によって異なるもの、絶対的ではなく、相対的なものだと言えるかもしれません。 ・・・このように対話によって掘り起こされてくるものってあるはずです。 当初の質問が発展し枝分かれし、変容しつつ理解に近づいていく。 論理性など何ほどのものでしょう・・・
- iye
- ベストアンサー率41% (23/55)
>例によって頂いた回答に「素直じゃない」反応をするかとも思われますが、大目に見てやってください・・・ 「(他者から見て)素直でない」自分を「素直に」に表出して、「大目に見てもらえる」かどうかを他者に委ねるというのは、ある意味潔いですが、多難な生き方ともいえるでしょう。 そして、その他者を「素直」あるいは「大目に見てみて」受け入れるかどうかを決定するのは、「人格」の部分なのかもしれません。 ・・・揚げ足取りで、回答になってないですね。
お礼
iyeさんこんばんは。 先日は質問に回答頂きましたのに、削除されてしまい申し訳ありませんでした。今回もその轍を踏みそうな感じですが、やっぱりどうしても対話形式になってしまうんですよね。 ご意見謹聴って言うのはどうしても性分に合わなくて。 (じゃあこのサイトと合わないという突っ込みはご容赦くださいね) >「(他者から見て)素直でない」自分を「素直に」に表出して、「大目に見てもらえる」かどうかを他者に委ねるというのは、ある意味潔いですが、多難な生き方ともいえるでしょう。 仰るとおりです。 ただそれしか出来ないのです。 「素直ではない」ということを率直に認め、それを受け容れてくれるかどうかは相手の(ある意味)度量に任せる。 ですから以前にも書きましたが過去のわたしの質問に「懲りずに」書き込みをしてくれるiyeさんやShiftさん、Mintwall2さん等、 そういう人たちには素直にありがたいと思うし、 また逆にそういう人たちには地が出せるというところもあります。 前回の怒りについても同様ですが、わたしの質問は何か個人的な契機に基づいています。先日他の質問である回答者の方から、「あなたは他の回答者の意見に全然素直じゃない!」というようなお叱りを受けまして(苦笑) ですから上のShiftさんのご指摘のように、 実は「怒り」とか「素直さ」という抽象的な概念の説明を求めている、 というよりはもっとパーソナルなニュアンスなんですね。 >その他者を「素直」あるいは「大目に見てみて」受け入れるかどうかを決定するのは、「人格」の部分なのかもしれません。 そういう懐の深さという部分もあるでしょうが、もっとシンプルに好き嫌いの問題じゃないかと思います。 先にiyeさんに申しましたように「面白い奴」と思われるのは決して 一段低く見られていることとは違うと思います。 ああ、やっぱりそれも人格かな・・・ 人の多様性を受け容れるというのも。 決して揚げ足鳥ではありませんよ。 繰り返しますがいつでも歓迎します。
補足
補足をさせてください。 パーソナルな質問というと、純粋に「怒り」や「素直さ」ということにご回答いただいている皆さんに誤解を招きかねない言い方でした。 無論純粋に「怒り」「素直さ」という情動、感情を分析していただくお答え、非常に参考になっていますし、考えさせられもします。 抽象的概念としての「怒り」「素直さ」ということに全く興味がなければもっと別の形の質問をしています。 特に#2さんのお答えは、いつも興味深く読ませて頂いています。 訂正 「揚げ足鳥」じゃありません。
- super32x
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A1です。 >>「要は形式」 ということです。あくまで観測者(前回は質問者と申しましたが、正確には観測者ですね。謝罪し訂正します)の判断にすぎません。 面従腹背は、あくまで態度としては「素直」なんですね。 pokochan2様は面従腹背に嫌悪感を抱いているかのような文体でお書きになられておりますが、面従腹背が素直かどうかで言えば、素直です。 ただし、ウソツキであり、ヤな奴です。善悪好悪の評価基準が「素直かどうか」とはぜんぜん違うところにあるんです。これをゴッチャにするとワケわかんなくなっちゃう。 >>例えば、「忠実」「忠誠」或いは「従順」というのと「素直」とは異なるのか? 「素直」という尺度以外の価値観を多く含んだ言葉なので、疑問としてあまり適当ではないように思います。「素直」という尺度に沿っておおまかに言えば「忠実」は与えられたガイドラインに対して素直、「忠誠」は対象に素直であろうという精神論、「従順」は個々の命令に対して素直、といったところでしょうか。 >>ある考え方や行動に疑問を抱くというのは「素直でない」のか? 「それでも地球は回る」と言ったガリレオは「自分には素直」だけれども、正教会にとってはまったく素直ではないので、観測者次第の原則にあてはまります。 >>「自己主張」「個性」と「素直さ」は相反するものか? 根本的には、まったく関係の無いものです。ポール・モーリアの楽曲は、ともすると「鳴っていることに気づかれない」ほど素直な音ですが、何かの拍子に意識にあがると「いやあ、やはりポール・モーリアの曲は、どれもポール・モーリアの音だなあ」と(好き嫌いはおいといて)個性を認めてしまうというようなところはありませんか。 >>「素直じゃない」というのは否定的な意味で使われますがそれはどういうことを意味するのか? 「素直じゃない」というのは「NOという返事」とほぼ同一のことですから、話がまとまらないんです。民主主義的にウザいんです。ウザいものを肯定するのは「素直な態度」ではない、とわたしは思います。 さて。逆に質問です。 軟水は硬水に比べて「素直な味」だといわれています。 観測者の存在を除外して、この「素直」を説明してみて下さい。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 皆さんの多様な意見(観点)を聞かせていただけてうれしく思います。 ポール・モーリアの例は面白いですね。 お好きですか?ぼくも嫌いではないですよ。 >素直じゃない」というのは「NOという返事」とほぼ同一のことですから、話がまとまらないんです。民主主義的にウザいんです。ウザいものを肯定するのは「素直な態度」ではない、とわたしは思います。 これは上のガリレオの話しと通じますね。 つまり「素直」であるということは「体制順応型」ということでしょうか。 わたし個人の意見としては「素直である」というのは絶対的な美徳とは思わないのです。正にご指摘の >民主主義的にウザい 存在こそ時には欠かせない存在と思います。 ・・・と横道にそれてしまいましたね。 わたしの質問は「素直」とはどういうことか?で素直さの是非善悪とは今は関係ないですね。 >軟水は硬水に比べて「素直な味」だといわれています。 観測者の存在を除外して、この「素直」を説明してみて下さい。 観測者の立場を除外して・・・ということは、 お答えの「観測者の判断である」ということ離れた問いということでよろしいのでしょうか。 「素直な味」という表現ですが、水、或いは味わいの個性を言ったものだと思います。この場合の「素直な味」の反対は、おそらく 「くせのある」「個性のある」「好きキライのわかれる」・・・といったニュアンスになるのでしょう。 「水は方円の器に従う」といわれます。 素直さ、敢えて無個性と言ってもいいかもしれませんが、それもまた個性と言えなくもないかもしれません。 お話を通して気付いたのはわたしは「素直さ」にまつわる価値判断、意味付けを求めているのでしょう・・・ わたしはこういう問答が好きなのですが、 また削除されてしまうかもしれません。 サイトの趣旨に従順でないと「ウザイ」ですから・・・ 気が向いたらまたお越し下さい。
- shift-2007
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回答になっていない気もしますが、 誰に対しての素直さが問題になるのでしょう。 もちろん他人様じゃないですよね。 他人に対しては「私は私だ」ですむ話ですので。 結局、問題にしているのは「プライド」「固執した考え」「トラウマ」「経験」「知識」・・・ 等々が邪魔をして自分自身を変えることが出来ないというジレンマが問題なのではないでしょうか。 それゆえに「素直さとは」という問いが生まれるのではないでしょうか。 これは自分自身に問いかけているのではなかろうかと思うわけです。
お礼
こんばんはshift-2007さん。 いや、鋭いご指摘です。 多分これまで随分わたしの質問にお付き合いくださった結果 わたしの質問の傾向を把握されているのだと思います。 >誰に対しての素直さが問題になるのでしょう。 そう、正に自分に素直であること・・・という状態とは?という疑問ですね。 皆さんのそれぞれ独自の視点からの知識やサジェスチョンをいただけてうれしいです。 ・・・などと言ってるとまた削除対象になりかねません(苦笑) ご意見いつでも歓迎いたします。 鋭いご指摘ありがとうございました。
補足
>http://okwave.jp/qa3558168.html 読みました。
- ruehas
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こんにちは。 考え方が前の回答と全く同じですが、私にはこれしか取り柄がありませんのでその点はカンベンして下さい。 「怒り」や「素直さ」といいますのは「大脳辺縁系の情動反応」に関わるものであり、それは理性行動のように頭で考えるのではなく、どちらも我々の「人情」、即ち「心の選択」であります。そして、素直であるということは別に他人を受け入れたり従ったりすることではなく、「素直さ」といいますのはこの「心の選択」に従うことであり、それは「理性行動に対する情動行動の比率」によって評価されます。 「素直に喜ぶ」 「素直に怒る」 「素直に泣く」 このようなものは全てそのひとの「心の選択」であり、他人に従っているわけでは決してありません。 「怒り」というのは「選択の結果に対する分類」ですが、「素直さ」や「怒りっぽい」といいますのはその「尺度」であります。ですから、その評価には「行動選択の比率」というものが用いられなければならず、ここに「判定基準」や「判定結果」に基づく分類を行なうことはできません。何故ならば、その評価といいますのは「用いられる基準」や「扱われる結果」によって様々に異なってしまうからです。 例えば、自分に従うならばそのひとにとっては素直ですが、従わないならばそれは素直ではないと評価されます。この「判定の規準」というのはそのひと個人のものであり、誰にとって何が利益であるかによってその結果は全く変わってしまいます。 では、これを「判定の結果」によって分類しますと、それは利益という判定に基づいて全てを受け入れるということになります。ですが、これでは不利益という結果に対して泣いたり怒ったりするのは素直ではないということになってしまいます。そして同様に、何が利益であるかは全てそのひと個人の価値観に従うものであるため、これを「素直さ」や「怒りっぽさ」などの指標にすることはできないわけです。 >例えば、「忠実」「忠誠」或いは「従順」というのと「素直」とは異なるのか? ですから、只今述べました通り「素直さ」といいますのは「判定の結果」や「判定の規準」によって分類するということはできません。では、それは全て心の選択という「情動反応の結果」以外の何物でもないのですから、その構造は分け隔てなくみな同じものです。そして、その構造とは大脳辺縁系の情動反応という「生理学的構造」であり、このような「忠誠」「忠実」「従順」といったものはみな結果に基づいて分類された概念でしかありません。従いましてこの場合、心から他人に従うというのが情動行動であり、給料をもらうために会社に忠誠を尽くすのは理性行動に分類されなければなりません。そして、長年勤めた会社に愛着を感じるのは、これは人情ですね。 >ある考え方や行動に疑問を抱くというのは「素直でない」のか? これは間違いなく素直と分類することはできないです。 情動行動といいますのは大脳辺縁系に獲得された判定規準に従って選択されるものであり、ここでは複数の結果を比較するということができません。従いまして、間違ってもそこに疑問が発生するということはないわけです。では、このような場合、そこでは必ずや理性行動を含む「複数の選択」が行なわれているということになります。そして、ここまでに述べました通り、これが主観的な評価を排除した「素直さの構造」であります。 先の通り、それは「理性行動に対する情動行動の比率」によって評価されるものです。果たして子供のうちは誰でも情動行動の比率が高いので皆たいへん素直ですが、やがて「理性的な大人」に成長するに従って我々は様々なことに疑問を感じ、自分の意見を持つようになります。もちろん、すぐに泣いたり怒ったりするということもなくなります。 このように、素直であるというのは他人に従うということではなく、それは自分の心の選択に従えるかどうかによって評価されるものです。 >「自己主張」「個性」と「素直さ」は相反するものか? 自分の意見を主張するか他人の意見を受け入れるかはそのひとの価値観によって決定されるものです。ですから、ここで全く相反する逆の結果が選択されたとしましても特に不思議なことではありません。では、その結果に対して素直ではないと評価しているのは他人の価値観です。そして、このような価値観の違いを「個性」といいます。 >「素直じゃない」というのは否定的な意味で使われますがそれはどういうことを意味するのか? ですから、これは理性行動が心の選択を抑制しているというのが客観的な解釈です。では逆に、道理は分かっても心情が許さないというのは、これは情動行動が優先されているということであり、こちらの場合は個人の価値観に基づく心の選択に極めて忠実であるということになります。そして、一般的にはこれを「頑固」といいますが、それを否定しているのは「常識という別の価値観」です。 このように、「素直さ」といいますのは生理学的構造に基づく脳の反応でありますから、それは否定されるものでも肯定されるものでもありません。そして、例えそれが一般常識や社会道徳であったとしましても、このような判定規準をその評価に用いることはどうやってもできないわけです。
お礼
「怒り」についてに引き続き、再度のお答えありがとうございます。 前回同様とても参考(?)というか興味をそそられました。 >「理性行動に対する情動行動の比率」 これがキーワードなのかなと思います。 本来「ここは素直になるべきかな」とか「ここは従えない!」というような 理性的判断と、そのような選択肢を持たないエモーショナルなものとが絡み合ってる様子が面白いです。 「面従腹背」というのは「相手にとって」は「こいつは素直だな」と思わせるものですが、実際には「頭による損得勘定」なわけですから、 本質的な「素直さ」とは言えないわけですね。 お答えを読んでいますとわたしの貧弱な頭脳からはいろいろな疑問が湧いて来ます。 例えば「理性的」「知的」判断により、「これはおかしい」と言う自己の感情に素直ということは、どうなのだろう・・・とか。 わたしが躓いているのは、「泣く」「喜ぶ」「怒る」というような情動の表出が何かしら理性的な選択のように思われるからです。 「泣くから泣く」のではなく「泣こう」という判断(理性的選択)に基づいて泣いたり怒ったりしているのではないかという考えが離れません。 そもそも感情(情動)そのものと「情動の表出」とは区別し得るのか? また「喜怒哀楽」というエモーションも実は「怒るべき時」「悲しむべき時」という無意識による「判断」に基づいているのではないか・・・? そこから「素直」ということは盲目的情動による反応であるのか? 自己の価値観に基づく情動操作(?)に忠実であるのか?というような 疑問が浮かび上がってきました。 頭がよくないせいで、お答えについていろいろ考えさせられるというメリットもあるようです。 頭のいい人なら。「ああそうか!」と聡明に「理解」できるのでしょうけれど。 「せっかくの回答、こいつ全然理解できていない」とお怒りになりませんように。 とても有意義なご回答ありがとうございます。
補足
例えば針で刺されると「痛い」ですよね。拳で殴られるとやはり「痛い」 氷を掴むと「冷たい」火の中に手を入れると「熱い」 或いは「美味い!」「美しい!」というもの。 「感覚」に属するものは、 全く頭脳で制御・左右されることの出来ない領域だと思うのです。 表情に出さないことは可能でも、感じている感覚は紛れもない事実です。 一方で「喜怒哀楽」というのは、果たして本能的なものなのかという疑問です。何を悲しいと感じ、何に怒りを感じ、喜びを感じるのかは、 生理的反応ではなく個々人の「文化的反応」とでも言ったものでないかと考えるのです。 如何でしょうか?
- super32x
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「素直」というのは「返答」についてのみ付加される要素であるから、質問者が返答者に希望するとおりの返答をすれば、それが素直ということになりましょう。 返答者の思惑は副次的なものだと思います。質問者が「返答者の思惑をまじえるべし」と希望すれば、思惑をまじえるのが素直であることになるし、質問者が「貴君の思惑は度外視して質問者である拙者の希望を遂げられたし」と願えば思惑はまじえようがまじえまいがどうでもよいということになります。 「思惑をまじえてはならぬ。よいか、絶対に禁ずる」と望む質問者は、まあ状況にもよるかもしれませんが、まず現実的には存在しないだろうから、この際無視します。 結論を述べます。 素直かどうかは返答を聞いた質問者の判断により決定します。
お礼
なるほど。 こういうお答えを期待していました。 >返答者の思惑は副次的なものだと思います。 ここ、面白いですね。 ・・・例えば「面従腹背」ということがありますね。 口先だけハイハイ言ってても、腹の中で舌を出してるとか。 でもこのお答えですと、要は「形式」であるということになりますね・・・ >素直かどうかは返答を聞いた質問者の判断により決定します。 興味深い視点を提供していただきました。 ご意見どうもありがとうございます。
お礼
このような詳細かつご丁寧な解説を頂き深く感謝します。 先のお答えに疑問を返しましたが、沈黙されておられるようだったので、 「ああ、やっぱり全く見当違いの愚問だったのかな」と思っていました。 専門的な部分は平易に解説してくださっていますが、 なかなか一読しただけでは理解できませんので、繰り返し読ませていただきます。 感情というものが >認知結果に対して大脳辺縁系の方に発生する情動反応によって生み出されます。 というお答えは意外でした。 初めに大脳皮質の「判断」があり、それに引き続いて情動反応(=感情)が生まれるものだとは。 喜怒哀楽というものは原初的情動反応ではない、表象概念ということも・・・ 脳の各所で様々な信号、刺激のフィードバック作業が行われている。 それによって感情も、感覚も、判断(選択)も生成されている。 解剖してみれば複雑極まりないことをヒトとして無意識に行っている。 客体化してみるとヒトって面白いですね。 上・中・下巻分にも相当するご回答とわたしの一つ一つの疑問への丁寧なお答えに改めてお礼申し上げます。 正直理解の至らない部分もあり、また、お聞きしたい部分もありますが 何をどう理解できていないのかがまだわかっていません。 その辺はこちらの頭脳の問題としてご容赦ください。