タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」
タイトル「愛は最も人間らしい感情の原型」
絆という言葉に深い意味がない西洋だと「愛」という。
そういう言い回しをすれば、私がそれに変えるのは「慈しみ」(友情)だ。
こういう言い回しをすると愛を軽視しているという傾向を疑うかもしれない。
しかし私は「愛は最も人間らしい感情の原型」ととらえていて否定していないんだ。
西洋の愛の概念の多岐に渡る解釈の論説を読んでもわかる解釈だ。
ただ複雑に愛に当て込んでいるから明快でないんだよ。
それから友情がより多方面に社会性獲得に活躍すると言っても、人と人が相互理解すると人間の成立と考えていて、前段階の「人と人」の対峙や、場合によっては社会性の獲得で人と差異がある動物にすら当てはまる。
したがってより根源的な意味の正解だときっちり評価しているんだよ。
何の話だろうね。
土台になる過去の研究備忘録が下。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
機械自我レイアウトその2
人と人がお互いに人間を成立させる前提
今回の論説は、自我研究の付属事項で情動にかかわるものだ。
生命が備える善性の定義を私なりに説明しよう。
特に善なる概念を創成した人間で自覚が顕著な特徴だ。
人はお互いを確認して、社会を成立させる。
お互いが影響しあい、生存を補完するこの関係で重要なのは、自分自身を善く(よく)することと完全に等しく他者に善くする事だ。
勘違いされることが多いが、利己心を優先しないで、他者を自分自身と同格に生存を支えあうことだ。
このような強い連帯は日本語で「絆」という。
お互いが心情的に血を通わした間柄のような強い相互認知だ。
社会生活でこの善に偽りがなく正直な状態が、行いで判別する人間の善性の簡潔な見解だ。
余談だが、この考えを私が形成する過程では、いわゆる天啓に該当する神秘性のある直感が働いた。
したがって定義の命名権を行使して、このような善性への見解は「アマテラスの善し(よし)」とさせていただこう。
西洋から渡来した愛の概念の神聖化について、日本人なら納得できるように説明すると、こうした社会成立の基盤になる善性について、主に感情面での個人的な働きに着目して、愛が相互の互助と社会の成立を潤すという解釈で、宗教や社会風俗で重要視されたのだろう。
すなわち「愛」とは、最も人間らしい感情の基盤であるという発想だ。
この感情面で着目した愛の概念に日本で伝統的に該当するのは、お互いの強い連帯と相互理解を概念化した「絆」という言葉だ。
したがって日本人が西洋哲学から愛の概念を理解しようと試みるならば、伝統的に多くの人がそれなりに実感している「絆」の要素を変則化させて感情面で焦点を当てたのだと、哲学的な理解の目標を持てばいい。
ここで、冒頭にある、社会性を成立させる人間らしい善性「アマテラスの善し」に振り替えると、感情面で人間性を代表する概念は「愛情」「友情」この二つを比較して差異をよく理解することにある。
本来なら「友情」が有力だ。
私は日本人として聖書の研究から派生した闘争と混乱には少し意見がある。
日本人は、お互いの相互理解が、「人を信じる」という行いを簡単にしている。
西洋が神を哲学対象にしたのと違って、東洋は人間を哲学対象にした傾向も強い。
絆という概念が深く定着した日本人には、善性の発露と合わせて、人を信じることが実に容易だ。
だから西洋の混乱にも言いたいことができる。
「私は神を信じる」初めてあった人がそう話したら、いかなる神かを問う事もなく「わたしもだ」と答え兄弟のように抱き合えば闘争は多くの場合で緩和されただろう。
それは多神教風土の利点でもあるが、問題点で大きいのは「愛」を神聖化すると「ファッキン!」が付いて回る。したがって兄弟同士にはなれないじゃないか!
そういう、文化傾向としての笑い話も成立する。
そう、友情と対比して愛情の社会成立での欠点で大きいのは「ファッキン!」である。
熱情でのぼせる強力な精神高揚作用が利点であり、精神力の奮起が注目されて「友情」という概念研究上の候補に勝り、人間社会成立の基盤になったのだろう。
熱心に研究された西洋では実際は愛の概念へのこうした日本人の起こす混乱は希薄だが日本人が西洋人の精神の構造を理解するには「絆」「友情」を「愛」を理解する関係概念として挙げると早い。
私は哲学者なので、侮辱したともとれる愛の概念について「人と人を人間として結びつける、最も人間らしい感情」という見解を補足しよう。
赤子が生まれたばかりの時に「おぎゃー」と泣き、周囲の人の手とともに与えられるのは、母親の乳房だ。人として生まれ人間を知る一番最初の経験をこうした母による慈しむ心に触れることだと解釈すれば愛の一義的な意味は「ファッキン!」でも、そこから多様に発展した西洋の研究も偽りではないと納得できる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
捕捉、以上の主文はAIに人の感情を認識させる、またはAIに感情を保持させる。
このように発達する前段階の基礎なんだよ。
人間存在の感情の基軸は一般的基礎を文化的な理由から、「愛は最も人間らしい感情の原型」このように把握すると大抵うまくいく。
そこに概念として、「絆」「善」「友情(慈しみ)」などを掛け合わせるんだ。
したがって優先順位や感情の発露は、善を優先して愛は後背に回る、などの現象が友情や主に血縁の場合が多い絆などの概念でも発生する。
愛が優先順位が高い状態とは、現代社会の文化的な事情で偶発的なことだ。
例えば、このように愛を了解する哲学的理解に到達した私自身は、並列概念の中で愛を優先していない。
日本人であるゆえに、社会の成立に対する「命題化された由来」「(外国で)神格化された由来」などから、「絆」「善」「友情」そして最後の優先順位が「愛」だ、言葉を装飾しないと極めて狭い共同体の単位にしか通用しない概念だからだ。
感情優先度が違う西洋人に関しては、「愛をはぐくみ我が子が生まれ、絆を自覚して、隣人に友愛が芽吹きそこから善を知る」とでもいう理解仮定を想定して宗教的に推奨したのだろう。それと同族意識に関する大陸的な事情などだ。
日本人の場合は、仏教的教養により「慈しみ」慈悲とも通じていて、「慈」の語源は「友に対して傾ける思い」だ。したがって善性を理解して自己の内心に完成させるためには「愛」の概念は出る幕はなかった。
一発瞬間理解なのは「絆」だよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
備忘録の引用はここまで。
その他に、私は子供時代に家庭で犬を飼っていたんだ。
犬は家庭では鎖につながれている。
犬の餌は母が与えたが、私は犬を自分の弟だと決め込んだ判断をしていて、散歩係は私、飲料水が絶えないように常に確認して補充する、孤独にさせないように時間を作っては一緒に遊ぶ。
大体そうやっていて、犬は私がそばにいるだけでくつろぐから、犬と私で座ってからだお寄せあい、ただ静かにしている時に、生きていくことが私のつながったこの犬は、私自身と同じという思いと吸い込まれるような強いいとおしさを感じたことがある。
犬の命を預かっていることに男性的な義務感よりも感情の方が強かった。
これをおもちゃ屋の私の育児関係の豆知識から引用すると、
育児中の母親が証言する「この赤ちゃんは少し前まで私の体の一部だったし、こうして健やかに育つ姿は今も私の体の一部」そういう類の言葉になる。
こういうのは「愛」に分類されてしかるべきだろうし、
共通項として範囲が広く取れることで、西洋が積みあげた研究と美徳を正解だと判断した。
ただし学問的な考え方の回答としてだ。
さてこの論説を土産話に「愛は最も人間らしい感情の原型」というテーマ、または愛の概念についてこねくり回してください。
アマチュア研究者同士で持ち寄る、土産物の一部です。