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日本人の宗教性。

以前、日本の「祟り」について質問致した者です。 文明が発展した今でも、日本人は「祟り」という者を信じている、 または恐れている傾向があると思いますか? また、↑のように人智を超えた力を信じているということは、 日本人は完全な無宗教とは言えないということでしょうか?

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  • mapato
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回答No.4

こんにちは。 「無宗教」というものをどう定義するかにもよりますが、「宗教色とは一切無縁」であることがそうなのだとしたら、日本人を「無宗教」とは言ってしまうのは非常に難しいでしょう。 何か建物を建てるに当たっては地鎮祭を行い、厄年だと言ってはお祓いに行き、誰かが妊娠したり受験だと言っては神社にお守りをもらいに行く・・このような人々を「無宗教」だと言えるでしょうか。 「自分はそれらのことを一切しない」と言ってみたところで、誰かが亡くなれば仏式にしろ神式にしろ葬儀を行うと共に先祖供養というものとも無縁ではいられません。 それに心理的にも日本人独特のものに縛られていることも多く、それらは神道をはじめとする宗教由来であることも多い訳です。 「穢れ」を嫌い「禊ぎ」を重視し、不謹慎なことを言っては「縁起でもないことを言うものではない」と窘められる・・こういったことは皆自然と日本人の中に刷り込まれているものです。 要はそういう自覚を持っていないというだけのことです。 勿論カトリックのように毎週教会にお祈りに行くのでもなければ、自覚するというのも中々難しいかもしれませんが、元々一神教などと日本古来の神道とはそういう点でもあり方が違いますし、初詣やお祭の際には日本人だって張り切って出かけていったりもしますよね。 「自分は特に何も信仰した覚えはない」ということが「無宗教」ということにはならない訳ですが、日本人と宗教との距離感がこのようなかたちになったのは、前述のように神道のあり方によるところも大きいものの、江戸時代の「檀家制度」による影響も見逃せません。 ご存知の通り幕府は「寺」をもって人々を余さず管理しようと考えた為、江戸時代には庶民の殆どは「無条件に仏教徒」ということになりました。 各戸がそれぞれ住む地域によって何れかの寺の檀家となり、そこに生まれた子は自動的にその家の属する宗派の信者となっていった訳です。 今でも個人の信仰とは関係なしに「家は○○宗」などということがあるのがその名残である訳ですが、そのようなシステムですから皆が「信仰」を積極的に自覚するのが難しくなるのも当然のことでしょう。 ですからそれまでと同じように何かあれば神社に詣でることも何ら不自然には感じませんし、「仏教徒なので神社に近づくべからず」というようなことがお上によって言われる訳でもありませんでした。 結局は皆が「かたちばかり」の仏教徒となったことで仏教自体も大いに停滞したなどとも言われますし、日本人の宗教に対する距離感をまた微妙なものへとしてしまったと言えるでしょう。 その後明治維新では廃仏毀釈の嵐が吹き荒れましたが、「家として○○宗」であるというかたちは変わりませんでしたし、「墓は寺で供養は仏式」というのが圧倒的な庶民のありようでした。 またそれとは別に「富国強兵」に当たって欧米列強をその目で見てきた人々は、その「科学」力に驚かされると同時に、その一方で如何に西洋人にとってキリスト教というものが精神的支柱になっているかということを思い知りました。 その為「日本にもキリスト教に匹敵するような強い国家宗教が必要だ」ということになり、古来の神道のあり方を省みずに強引に津々浦々の神社までもを組織の一端として所謂「国家神道」を作り上げ、その中心に「現人神」として天皇を据えた訳です。 しかしご存知の通り元々あったものを利用したとはいえ、短時間でしかも国家がその目的の為にやや無理をして作り上げた為にやや歪んだものとなってしまった感がありますし、人々の心を芯から捉えるにも至りませんでした。 しかも戦争に敗れたことによって完全にそれらは否定され、それが曲がりなりにも「神道」を元にしたものであった為、戦後は本来生活に根ざした素朴な信仰であった筈の「神道」が色眼鏡で見られてしまうような弊害すら生んでしまったのです。 そういった訳で古来からの神道とも距離がギクシャクしてしまった日本人はそのベースに神道その他の影響を色濃く受けているにも拘らず、宗教というものへの距離の取り方がおかしくなり、時には新興宗教に熱を上げる人々が出現し、また時には共産主義などを信奉する人々が出現するなど、精神的な面では非常にふらふらしているような感すらある訳です。 「科学」と「信仰」とが共存する西洋社会から見るとこれはとても異常な姿で、あちらで「無宗教」などと言うのは「神の存在を否定する」=「共産主義者」として異教徒より白い目で見られる為、その場凌ぎでも「仏教徒」などと言ったほうが良いなどとも言われるくらいです。 個人で何を信仰しようが信仰しまいが勿論自由な訳ですが、多くの日本人は「無宗教」などというものが世界から見て如何に特殊なものを指しているかを良く理解していませんし、また自分達がどのようなものの影響を受けているかということに対しても無頓着に過ぎるというのは確かなことでしょう。 まあそういうこともひっくるめて日本人の民族性ということも出来るのだと思いますが、「国際化」が声高に叫ばれている割にはそういう面に関してのことが置き去りにされているような感じは正直なくもありません。 無論西洋的なあり方やものの捉え方が全てではありませんが、それを主張する為にももっとそれらのことを良く知る必要があると言われる訳です。

その他の回答 (4)

  • Dxak
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回答No.5

宗教に限らずの話です 人間に限らず、生命は未知のものに対し恐怖し拒絶します いわゆる生命の防衛本能です (好奇心って言うのもあるか^^;) 「祟り」を信じる=無宗教って言うのは安直過ぎるのではないでしょうか? 日本人の無宗教って言うのは、他の方が言うように「神道」と言われる宗教を江戸時代、天皇から幕府と言う中枢の変更から「仏教」の普及促進を行われ、幕府が倒れた後「宗教の自由」が謳われましたが・・・実際は天皇中心とする「神道」へ教育へ変更されました 戦後、「神道」の解体、求心力を失い あっちふらふら、こっちふらふらの状態になってます まぁ、「クリスマス」は行う「祭り」は行う「盆」は行う・・・多神教のまま、なんでも受け入れる言うところで、宗教という形態では言われない状態になっているのでは、ないでしょうか? 多神教 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99 まぁ、都合が良い所でね^^ もともと、いろいろな宗教の集合体が多神教、この状態かな?

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2724/5433)
回答No.3

祟りと言うものは記録的には平安時代に最盛期があり、それ以降綿々と続いてきたヒトの本能的な警戒心ともいえる感情でしょう。ですから日本人に限らず世界中にあります。 また、宗教(日本では特に神道や仏教)には本来祟るという概念がありません。逆に民間信仰ともいえる「祟り」がこれらの宗教に取り入れられたと考えるのが順当です。 キリスト教などでも「祟る」事が少なからず伝わっていますが、現代の日本ほど流行していないのは、アメリカを含む諸外国が無宗教だからではなく(実は米国こそが宗教国家という分析もあります※)しっかりした信仰があるからであり、逆に強い信仰心がない(或いは何でも信じてしまう傾向がある)からこそ、訳の判らない「祟り」を恐れるという見方も出来ます。 ※これは宗教研究科や社会学者などが唱えている事で、実際米国民のほとんどが宗教を持っている。そしてそれを分析すると、宗教人口の増減により、政党の支持数が変わるので、宗教人口の変動を見れば、次期大統領がいずれの政党からえばられるかが予測できるとしています。

  • Us-Timoo
  • ベストアンサー率25% (914/3620)
回答No.2

本来の部分はNo.1のかたが回答しておられるので割愛します。 >また、↑のように人智を超えた力を信じているということは、 >日本人は完全な無宗教とは言えないということでしょうか? あなたは人智を超えた力を信じることがすべて宗教とでもおっしゃるのでしょうか? 宗教ではない人智を超えた力と考えられていることはたくさんありますけれど、 それらも宗教とひとくくりに考えるのでしょうか。 日本人は、特定のものに自分の信じるものすべてを信心をすることへ 委ねたがらないだけです。 無宗教ではありません。

  • babyblue
  • ベストアンサー率17% (38/217)
回答No.1

日本人としての本来の宗教は「神道」です。 仏教などはあとから日本に入ってきました。 ということは「祟り」というのは、本来の日本人らしい無理のない自然な考え方なのだと思っています。 「神道」とは簡単にいうと木や海、石など、万物に神が宿っているというものです。 なので『あの木を切ると祟られる』と自然に考えられるのです。 御神木などがいい例だと思っています。 なので『無宗教な日本人』であっても 日本人本来の考え方と捕らえてはどうでしょうか?

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