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人間の核には何があるのですか。
人は社会の中で生きていて、そこから生まれる様々な価値観や役割をまとって私というものを作っているのではないか、と思っています。 そういう、個に上乗せされたものを全て剥ぎ取ったら、人間には何がのこるのだろうか、とふと疑問に思いました。 「私が私である」ということを証明する揺らがない証拠があるのでしょうか。 哲学のような気がしたのですがカテゴリー違いでしたら申し訳ありません。
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こんにちは。 我々動物の「行動の核」といいますのは「中枢神経系」です。 生得的に定められた本能行動を除き、我々人間の「価値観」「役割」あるいは「個性」といったものは、この中枢神経系の中に「外部情報に対する判定基準」として生後環境から学習されるものであり、その全ては「外界との関わり」によって作られるものです。従いまして、それを全部剥ぎ取ってゆきますと、それは「産まれたばかりの赤ちゃん」ということになります。我々の中枢神経系に獲得される「価値観」や「道徳観」あるいは「個性」といったものは、正にこの状態から学習が始まるものであり、自分が生まれ育った社会との関わりを全て排除するというのはこういうことであります。 「私が私である」ということは、我々人間は「外界の現象を主体的に扱うことのできる表象能力」を持っているということです。従いまして、「私が私である」という時点で既に、「私」というのは必然的に外界との関わりを持っていることになります。 生後、概ね0~2歳までを「感覚的運動知能期」といい、認知機能の未発達な赤ちゃんは「感覚系」や「運動系」を用いた、専ら「空間認知」の学習を行います。やがて大脳皮質における認知機能の発達に伴い、外界の情報を主体的に捉えることができるようになりますと、赤ちゃんの学習様式はこれによって飛躍的な転換を遂げると共に、この「表象能力」の獲得によってもはや二度と「感覚的運動知能の段階」に戻るということはありません。これがどういうことかと申しますと、生後2歳を以ってこのような「外界を主体的に捉えるための表象能力」を身に付けるならば、我々はその時点で社会との関わりを絶って生きてゆくことはできなくなるということです。 このように、我々の「個性」や「価値観」といいますのはその全てが社会との関わりによって作られるものです。ですから、我々はその社会からの影響を何も受けずに自分というものを持つことは絶対にできません。このため、そこには様々な苦悩や責任というものが発生するわけですが、決してこれは自分が世の中に振り回されているというのではなく、飽くまでそれは、このようにして自分というものを作り上げてゆくということです。世の中との関わりにおいて自分のあり方というものに複雑な思いを抱くのは誰しも同じです。ですが、この世に生まれた限り、生後2歳を以って我々が生きてゆくということは、即ちそういうことです。 そして、私が私であるということは、我々がその社会との関わりと認識できるということです。従いまして、これが即ち私が私としてそこに存在することの唯一の揺ぎ無い証拠となるわけでありまして、果たして、「我思う、故に我あり」とは、このようにして導かれた結論であります。
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- バグース(@bagus3)
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何もないと思いますよ。 強いて言えば、生きているうちに身につけた衣服こそが 自己です。つまり自己は幻です。 他の動物の核には本能がありますが、人間にはありません。 赤ん坊でタバコや刃物など害になるような物も食べようと するのは人間だけです。本能がないからです。 狼は人間に育てられても狼になるけど 狼に育てられた人間は狼になってしまいます。 人が生まれたときには、何でも書き込める白紙状態だからです。
お礼
回答ありがとうございます。 >何でも書き込める白紙状態 なるほど、人間の適応能力なのでしょうか。 個性を考える時、個人のことを考えているようで社会(環境)との繋がりなくして考えることは出来ないということになりますね。 なにもない、というのが一番すっきりするような気がしました。
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お礼
回答ありがとうございます。 専門的なお話でありながらとても分かりやすく書いていただき、ありがとうございます。 >それを全部剥ぎ取ってゆきますと、それは「産まれたばかりの赤ちゃん」ということになります。 no.1の方のおっしゃる「白紙」の状態になるわけですね。 >世の中との関わりにおいて自分のあり方というものに複雑な思いを抱くのは誰しも同じです。ですが、この世に生まれた限り、生後2歳を以って我々が生きてゆくということは、即ちそういうことです。 社会の中で「自分ってなんだろう?」と考えながら生きるそれが人間なんですね。個性というのはこの志向の方向や過程にもあらわれるでしょうね。「我思う、故に我あり」という言葉の理解も今までより少し深まったように思います。