以前ここのHPで、「事故を100%防ぐ事はできるか?」と言った内容の質問を見た事があります。
禅問答のようですが、核と人類の共存は可能不可能というよりも「しなければならない」と思いますし、「不可能になった」時は、可能か不可能かを判断する人間自身が滅んだ時だと思います。
「軍事力としての核」について言えば、一度持ってしまった以上、自分だけが捨て去ってしまえば、対抗(報復)手段がなくなってしまいます。もちろん「やれば、やられる」というバランスが崩れ、抑止力としての効果もなくなります。
「一度知ってしまった武器」を捨てる事が出来るほどには、人類は「おりこうさん」でも「いいひと」でもありません。
「エネルギーとしての核」について言えば、事故は「いつか」「必ず」起こります。
自転車の事故はケガですむかもしれません。自動車の事故は何人かの命にかかわります。飛行機の事故は何百人の命にかかわります。
対象の持つ「パワー」が大きければ大きいほど、「事故」が起こればその力がマイナス方向にはたらきます。
原発を例にしてみると、日本ではチェルノブイリ程度の「軽い」事故報道しかありませんが、ラ・アーグの時のように人類滅亡に直結しかねない事故は現実に起こっています。ただ、日本ではあまりに危険な事故についてほとんど報道されていないだけです。
こう考えると、共存が可能か不可能かを考えている私たちが生きている内は、共存していると言えるのかもしれません。
しかし、原爆や原発事故で一人でも死人が出た時点で、共存していないと言う方もいると思います。
本体(大多数の人類)を生かすために部品(一部の人類)を犠牲にする事は、医療分野をはじめ、あらゆる場で行われています。犠牲は全体の何%まで許されるのでしょうか?
いったいどこまでが「共存」なんでしょうね?
さて、全然回答になっていませんね(笑)。スミマセン。
なお、文章中、チェルノブイリを「軽い」事故と書いたのは、私を含む日本人全員に対するイヤミです。実際、非常に大きな事故だとは思います。この表現で気を悪くされた方がおりましたらスミマセン。
では、再見!!
お礼
すごいですね!ありがとうございました。